【4話】予兆
──今日はやけに風が強かった。
海が鈍い色に染まり、遠くで貨物船の警笛が鳴っている。潮風が重たく、何かが始まりそうで、何かが終わったような空気。
そんな空の下、防波堤に座るひとりの青年がいた。
その姿は、一見するとこの場には不釣り合いだった。
海辺の静寂の中で、カラーレンズのサングラスが沈みかけた太陽の光を反射している。
彼の名は鴛ノ屋 宰。二十歳。
地元では有名な貿易会社である鴛ノ屋財閥現CEOの息子。だが、その肩書を纏うような空気は彼には一切なかった。
普段は九馳の雑貨とアパレルの店で働いているが
ふとした時間に愛用の一眼レフカメラを持ち歩き、こうして街や人、風景の「一瞬」を切り取ることが彼の日常である。
──首から下げた一眼レフのシャッター音だけが、一定のリズムで響いていた。
カシャ、カシャ……。
レンズの向こうには、今にも崩れそうな空と遠くに羽ばたく鳶。左右にあるのは港の脇に停まる派手な大型客船と反対側には無骨な大型のクレーン。その奥に見える名堵大橋と山手に建ち並ぶマンションや住宅街。
その全てをフレームに閉じ込めながら、宰は静かに呟いた。
「……いつも通り変わらんねぇ、この街の景色は。」
──風に吹かれて髪が揺れる。
その目はまっすぐ目の前に広がる景色を見ている。
「なんも写っとらんようやけど、ちゃんと残っとる。」
何枚か写真を撮り終えると、
ふと、通りすがりの中学生たちの笑い声が風に乗って届く。
「さてと、オレもそろそろ帰るか。」
──そう思った矢先、ジャケットのポケットに入れていた宰のスマホ通知音と共に震えた。
彼はスマホを取り出すと通知に届いていたメッセージを見た。
「例の件、動き出したかもしれない」
ただそれだけの文面を見ると、彼はすっと立ち上がった。
風がジャケットをはためかせる。
目を細め、遠く名堵大橋の方角を見る。
その視線の奥には、はっきりとした確信があった。
「……やっぱ、動き出したか。」
そう呟くと、防波堤からゆっくりと降りていく。
駐車場の端に停められていたのは、艶やかなホワイトボディのフェラーリ488スパイダー。
夕暮れの光を反射し、滑らかな曲線を光らせていた。
車に乗りこみ鍵を回すと、低く唸るようなエンジン音が周囲の静けさを切り裂く。
ドアを開けて乗り込んだ宰は、しばしハンドルの上に両手を置いたまま、前方を見つめていた。
目を閉じると、脳内に聴こえてくるのは
過去の残響、繰り返される欺瞞、そして誰かの祈りのような声。
それらをすべて背負うかのように、彼は静かにアクセルを踏み込んだ。
フェラーリのテールランプが赤く滲み、やがて暮れなずむ闇に溶けていく。
風だけが後に残り、海の匂いと共に街を抜けていった。
――――
――同刻。
名堵大橋湾岸道路の上、強い潮風が吹き下ろす中、一台の黒いバイクが走っていた。
エンジンの低い唸りが、長く伸びる影を揺らした。
バイクに乗っているのは、黒埼 煌希――二十歳。黒埼 燦斗の兄である。
イギリス生まれのクォーターで、身長190cmを超える巨躯を持つ。
精悍な顔立ちに鋭い眼光、両腕には精緻なタトゥーが這い、黙って立っているだけで周囲の空気が張り詰めるほどの威圧感を放っている。
手加減ができない性格で、喧嘩となれば容赦なく相手を叩き潰すことから地元では「番外の黒咬」として知られている。
左手でアクセルを一定に保ち、右手のグローブ越しに何度か胸ポケットのスマホを気にするような素振りを見せた。
通知画面には、つい数十分前に届いた友人からの短いメッセージ。
『悪い。ちょっと来てくれ。……百目木海浜公園の駐車場で待ってる』
こういう呼び出しの時は、大抵ロクなことが起きない。
「ったく、面倒くせぇな。」
背中で風を受けながら、煌希はアクセルを煽る。
太陽が沈みかけ、海面が金色に揺れていた。
橋を渡りきり、その先にあるトンネルに
差し掛かると、煌希の目がわずかに細まる。
煌希は視線をサイドミラーに移し、一台の黒いセダン車が後方からやってくるのを確認した。
車内は暗く、ヘッドライトの光だけがぼんやりと車体を照らしている。
トンネルの真ん中付近に差し掛かった時、黒のセダン車が煌希のすぐ後ろまで接近してきた。
煌希は再びアクセルを軽く吹かし、バイクのエンジン音を響かせながら車と距離を取る。
だが、車は追いかけてきた。スピードを上げる煌希に対して、黒い車もまたペースを合わせるように加速し、並走を続ける。
“――やっぱり、な。”
煌希は心の中でそう呟き、少しスピードを落とした。
相手を確認しようとしたその瞬間、黒いセダンが真横に並ぶ。
ゆっくりと後部座席のウィンドウが下がり――
中から、厳つい顔の男が顔を覗かせた。
「…………よォ、黒埼。」
その相手の顔には見覚えがあった。
昔、一度だけ殴り合ったことがある男。
名は知らない。ただ、喧嘩慣れした目と、喉元に覗く傷跡だけは記憶に焼きついている。
「……久しぶりだな。随分堂々と来たじゃねぇか」
風を切る音の中、低く鋭い声がトンネルに反響した。
男はにやりと口角を上げた。
「お前がここ通るって聞いてな。話が早ぇと思って迎えに来てやったよ」
助手席から、もう一人――金髪の男が身を乗り出した。その手には、鉄パイプが握り締められていた。
「……随分な歓迎だな。」
煌希の声は落ち着いていたが、バイクのハンドルをわずかに傾け、躱す準備をしていた。
「お前に渡すモンなんざ一つしかねぇよ。――落とし前だ!!」
次の瞬間、セダンが急加速し、車体をバイクに寄せる。
煌希はクラッチを瞬時に切り、体を右に傾けながらバイクを横滑りさせるように回避した。タイヤが火花を散らし、トンネルの壁に接触しそうになる寸前で体勢を立て直す。
「チッ……!」
煌希は顔をしかめ、グローブ越しに右手をぐっと握り込んだ。
「ったく……ロクな呼び出しじゃねーな!!」
彼の目が鋭く細まり、バイクが再び咆哮を上げた。
このままじゃ済まない。ここで迎撃するか、交差点まで一気に抜けるか。
――決断の猶予は、数秒も無かった。
鉄パイプが煌希の肩すれすれをかすめ、コンクリートの壁に叩きつけられ、火花を散らす。
セダンが再び体当たりをかけようと近づいたその瞬間、煌希はバイクを逆側に振り、斜めに車線をずらした。
そのまま身を低く伏せ、車の側面をかすめるように一気に飛び出す。
トンネルの出口を目指して、駆け抜ける。
外から差し込む光が、徐々に近づいてくる。
「この程度で俺を止められると思ったか?甘ぇよ」
次の瞬間、煌希はクラッチを切り、バイクの前輪をわずかに浮かせるようにして急加速。爆音がトンネル内に響き渡り、鋭く伸びるテールランプが闇を切り裂く。
「くそっ、追えッ!」
黒いセダン車もすぐさま加速するが、煌希の反応は速かった。車体を左右に振りながら、あえてセンターラインぎりぎりを走り抜け、トンネルを抜けた先の合流路を鋭く左へと滑り込む。
前方には行く手を阻むように車が数台、並んでいた。
煌希は迷わずアクセルを煽る。一般車の脇を通りながら交差点の信号が黄色から赤に変わる、その刹那――
煌希はスレスレで交差点をすり抜けていった。
反対に、追ってきた黒のセダン車は信号に阻まれ、ブレーキの音を響かせながら車列の最後尾で停止する。
車内には古びた灰皿に置かれた煙草の匂いが漂っていた。
前席には鋭い目をした運転手の男と、その隣に座るイラついた様子の金髪の男。後部座席には無言で拳を握る大柄な人物が一人、じっと前方を睨んでいた。
「……クソが!」
助手席に乗っていた金髪の男が、ダッシュボードを拳で叩きつけながら叫んだ。
「……逃げられましたね」
運転していた黒髪にメガネをかけた男が静かに呟いた。言葉と裏腹にそこ表情はどこか楽しんでいるようにも感じられた。
「アイツ、最初から読んでやがったな。黒埼 煌希……。中々面倒な奴だ。一筋縄ではいかねぇな。」
喉元に傷跡のある男がそう言うと車内は再び静まり返った。
街灯の下をバイクで颯爽と走り抜ける煌希。
少し先まで進むと、僅かにスピードを落としつつバックミラーを覗く。
“……さすがに撒いたか”
自分が嵌められている事に、煌希は気づいていた。
いや、初めからその可能性は疑っていた。
百目木海浜公園近くの駐車場に来てくれ。
――あのメッセージも、すべては導火線に過ぎなかったのかもしれない。
「……ほんと、くだらねぇ茶番だったな」
そう呟くと、煌希は再びスピードを上げ、少し離れた青瀬町にある百目木海浜公園の駐輪場まで向かった。
――――
――同刻。百目木海浜公園駐車場。
冷たいアスファルトの上に、一人の男が倒れていた。胸元が赤黒く染まり、かすかな呼吸音が喉の奥でかすれている。
彼の手元には、滑り落ちたスマホ。画面はまだ光を帯びており、“既読”の表示だけが虚しく浮かんでいた。
男の目はまだうっすらと開かれていたが、焦点はもうどこにも合っていない。
まるで、何かに気づいたまま、声を上げることも許されなかったように――。