【32話】暁
――夜更け。
二人は家に着くと静かに玄関のドアを閉めた。
宰はユンの脱ぎ捨てた靴も揃えて並べると、そのままリビングへ向かう。
ソファにドサッと座り込むと
「なぁ!腹減ったんやけど!」
ユンは半眼のまま溜息をつき、宰の方を向いて言う。
「……ツーチャン、夜中に大声出すな。近所迷惑」
「細けぇな〜。ええやんけ、命からがら帰ってきた後なんやし腹減っててもおかしくないやろ!」
ユンは仕方なさそうにして冷蔵庫に向かい、中にはいってる食材を確認した。
「昨日のご飯の残りもあるし、炒飯なら作れる」
「夜中に炒飯とかなんか罪深いな!」
「え、ナニ?食べたくないの?」
「食いたいに決まってんだろ!」
ユンは肩をすくめて、呆れ顔で宰の方を見る。
「……まったく、子どもか」
袖をまくると、冷蔵庫の中の残り物を手際よく並べる。
卵を割る音と油の弾ける匂いが、狭い部屋に広がる。
宰はソファでダラけながら、ぼそっと呟く。
「この音、なんか落ち着くな」
「確かに。……こうやって料理できる時間って平和だ」
そう言うとユンは米を投入し、木べらでさっと混ぜる。
香ばしい匂いが立ちのぼり、二人の間にふわりと広がった。
「ハイ、完成。」
「はやっ!さすが手際いいなユンは。」
出来上がった炒飯を見て、宰は嬉しそうにスプーンを手に取る。
「うおぉ、ウマそー。いただきます!」
早々に食べる宰を見てユンは口の端を緩めた。
スプーンが皿を叩くたび、カランという音が台所に小さく響いた。
ユンは向かいの椅子に腰を下ろし、湯気の向こうで静かにその様子を眺めている。
「……どう?」
「美味い!残り物集めた即席炒飯なのにめっちゃ美味いなこれ!」
「……なら良かった。」
宰は無心で食べ続け、ユンは小さく息を吐く。
やがて炒飯を食べ終えた宰が立ち上がる。
「洗いもん、俺やるわ。ユンは先に寝とけ」
「わかった。ツーチャン、皿割るなよ」
「割らんわ!どんだけ俺の事不器用キャラ扱いするんや!」
水の音が細く流れ、スポンジの泡が月光を受けて銀に揺れる。
窓の外、遠くで新聞配達の原付バイクが通り過ぎる音がする。
「ツーチャン」
「ん?」
「……なんでもない。また明日、おやすみ。」
「おう、おやすみ。」
ユンは短く頷き、冷蔵庫から水の入ったペットボトルを取り出し、飲み干すと自分の部屋へと戻った。
時計の針は、いつの間にか四時を回っている。
明け方の気配が部屋の隅々に滲み、冷蔵庫の低い稼働音だけが残る。
宰は洗い物を終えると、小さく欠伸をし、部屋へと足を運んだ。
ガチャリとドアが閉まる音が静寂の中、響き渡る。
小さく肩を回しながら上着を脱ぎ捨て、隠していた拳銃を取り出す。
慣れた手つきで弾倉を抜き、スライドを引いて薬室を確認する。
机の上に重い拳銃を置いた宰は、軋むベッドに深く仰向けに倒れ込んだ。
天井の木目をぼんやりと見つめていると、限界を迎えていた身体が鉛のように沈み込んでいくのを感じる。
「……なんやったんや、さっきの」
天井を見つめたまま呟く。
赤いサイレンに照らし出された謎の研究室。
あの地下の異常な光景から目を逸らすように、宰は重い瞼を閉じた。
******
――夜と朝の境界線が、曖昧になる時間帯。
街の外れにある、まだ夜の冷気が残るビルの屋上。
アスバはコートの襟を立て、すこしだけ溜息をついた。
耳障りなサイレンの音が、潮風に乗って微かに届く。
眼下のバイパス道路を見下ろせば、赤色灯の列が、港の方へと向かっていた。
彼は指先で端末を起動すると、画面に映る映像を見る。
さっきまでのつまらなさそうな表情が一変し、口角をつり上げる。
「クク……いいじゃないか。丁度、予定調和な脚本には飽きていたところだ」
再び端末をポケットに滑り込ませると、反対側から真っ赤な毛糸を取り出した。
細く長い指が、慣れた手つきで糸を操り始める。
形作られたのは―― 逆さまの箒 。
完成したあやとりを夜空にかざし、笑う。
「さあ、新しい役者を歓迎してやろう。……その為にまずは舞台の埃を掃き出さなくては」
アスバが指に絡ませていた赤い毛糸を、パッと手放す。
それが、合図だった。
直後、ビルの谷間から黒い雲のような塊がパトカー目掛けて急降下してきた。
それは無数の小型ドローン――『電子鴉』の群れ。
ブンッ、ブブンッ!!
プロペラ音がサイレンをかき消し、電子鴉たちはパトカーのフロントガラスやカメラに次々と張り付いていく。
視界を奪われた先頭のパトカーが急ブレーキを踏み、後続車はスリップして玉突き事故を起こした。
また別の道路では、地面から鋼鉄製の車止めポール(ボラード)が、突如勢いよくせり上がる。
キキーッ!!
激しいブレーキ音と共に一台のパトカーが止まる。
警官が慌てて車を降り、辺りを見渡すと――
信号機は狂ったように赤く点滅し、路面電車の遮断機が降りたまま上がらない。
街のシステムそのものが、何者かによって改ざんされたかのようだった。
眼下に広がるカオスな状況を見下ろし、アスバは満足げに頷いた。
彼は赤い糸をポケットにしまうと、昇り始めた朝陽に背を向け歩き出す。
その背中は、夜明けと共に深い影の中へと溶けていく。
「そこで踊っていろ。……本当の幕が上がる、その時まで」
******
――同時刻、静まり返った市内の総合病院。
カーテンの隙間から、怪しい紅い光が病室に差し込んでいた。
突き当たりにある非常口の重い鉄扉が、音もなく開いた。
カツ、カツ、カツ……。
硬質な革靴の音だけが、静かな廊下に響く。
ピッ、……ピッ、…………
その人物が近づいてくるにつれ、規則正しく鳴り続けていた心電図の電子音が、突然止まる。
音だけではない。
病室の空気が、水面のように揺らぎ、世界から「音」が消失する。
ナースステーションの喧騒も、医療機器の音も、すべてが遮断され異界のような静寂に包まれる。
迷うことなく、廊下の中ほどにある個室の前で足を止める。
白いドアに掲げられたプレートには、無機質な数字が刻まれていた。
『 303 』
そこは翔真のいる病室だった。
ベッドの脇に佇む、長い影。
「……う、ぁ……」
翔真の喉から、声にならない呻きが漏れた。
謎の人物は苦悶の表情を浮かべる翔真の顔を、品定めするような表情で見下ろしている。
包帯で厳重に巻かれた腹部の傷が、ドクン、と大きく脈打つ。
呼吸が荒くなり、心拍数が跳ね上がる。
それと同時に、翔真の手首に一瞬だけ、幾何学模様のような印が浮き上がる。
それを確認すると、謎の人物は満足したかのように微笑んだ。
去り際に――ふと、サイドテーブルに置かれた花に視線を止める。
そこには、一輪の『銀色の花』が置かれていた。
銀紙の包み紙を器用に折り込んで作られた、歪なバラの花。
紅い光を反射してギラリと光るそれを、指先で摘まみ上げ、しばし眺める。
謎の人物は銀色のバラを懐にしまい、再び非常口の方へと歩き出し、姿を消した。
その直後――
パチン、と弾けるような音と共に、世界が元に戻る。
――ピッ、ピッ、ピッ……
心電図のモニターに映る数値は何事もなかったかのように安定し、病院内には再び日常の光景が戻っていた。
翔真はその訪問者に気づくこともなく、深い昏睡の底で、静かに眠り続けた。
******
――夢の中の空気は、ひどく湿っていて冷たかった。
灰色に煙る空と、雨に濡れた石畳。昔暮らしていた、イギリスの街並み。
『……っ、痛ぇな……』
古びた赤いレンガの建物が立ち並ぶ路地裏で、幼い煌希は顔を歪め、自分の腕を押さえていた。
裂けた服の袖から、血が滴り落ちている。
煌希の背後では、幼い弟の燦斗が、血の気が引いた顔でガタガタと震えていた。
燦斗は昔からそうだった。
いざとなると何もできず、ただ怯えて立ち尽くすのだ。
今回も、燦斗に振り下ろされた暴力を、煌希が身を挺して庇った結果だった。
遠ざかっていく足音を聞きながら、煌希は乱暴に血を拭うと、震える弟に向かって手を差し出した。
『……帰るぞ』
燦斗は泣きそうな顔のままこくりと頷き、兄の血に濡れた手を、両手でぎゅっと握り返してくる。
その手はひどく冷たく、小刻みに震えていた。
痛みを堪えながら、煌希は小さく震える弟の手を引いて、薄暗い路地を歩き出す。
放っておけば、一人で壊れてしまいそうな危うさ。
だから、俺が庇わなきゃいけない。
俺が血を流してでも、守らなきゃいけない。
自分が繋ぎ止めている。そう思っていた――。
突如、腕の傷から流れる血が意志を持ったように溢れ出し、足元の水溜まりを、そして視界のすべてを、どす黒い紅へと染め上げていく。
ドクンッ、と心臓が大きな音を立てた。
握りしめていたはずの燦斗の手の温もりが、不意に消え失せる。
『燦斗……?』
振り返るが、そこには誰もいない。
ただ、自分の手からどくどくと血が流れ落ちる、虚無の紅い空間が広がっているだけだ。
守り抜いたはずの弟は、どこにもいなかった。
「……っ、はぁっ!」
煌希は弾かれたように上体を起こした。
シーツを強く握りしめた右手には、もう小さな手の感触はなく、傷も、血もない。
汗が全身にまとわりつき、心臓が早鐘を打っていた。
「……夢、か……」
荒い呼吸を整えながら、煌希はひどい頭痛に顔をしかめた。
喉の奥には、まだあの古いレンガの匂いと、生暖かい血の匂いが残っているような気がした。
カーテンの隙間から差し込む、眩い朝焼けの光が妙に癪に障った。
「チッ……ったくロクなことねーな」
サイドテーブルに置かれた時計に目をやると、時刻はまだ早朝の五時を回ったばかりだった。
煌希は溜息を吐き出すと、汗ばんだシャツを脱ぎ捨てて、気怠げに立ち上がる。
そのまま洗面所へと向かい、シャワーの蛇口を捻った。
冷たい水流が汗ばんだ肌を打ち、ドロドロとした不快感が汗と共に洗い流されていく。
濡れた前髪をかき上げ、鏡に映る自分を鋭く睨みつける。
鏡越しに、酷く疲れた顔の自分を鋭く睨みつける。
――その時だった。
顎の先から滴り落ちた水滴が、鏡の中で一瞬だけどす黒い『血』に見えた気がした。
「…………」
瞬きをしてもう一度見ると、ただの透明な水滴が洗面台に落ちて弾けるだけだった。
煌希は重い息を吐き出すと、脳裏に浮かんだ弟の存在を振り払うように、洗面所の明かりを消す。
――ウゥゥゥゥン……ッ。ウゥゥーン。
リビングに戻ると、少し離れた場所から、けたたましいパトカーのサイレンの音が聞こえてくる。
それも、一つや二つではない。街のどこかで、異常事態が起きているような騒がしさだった。
「…朝っぱらから……んだよ、うるせぇな」
ただでさえ最悪な目覚めだというのに、一息つくことも許されない。
悪態をつきながら洗面所を出ると、薄暗いリビングへと足を運び、
手にしたタオルで濡れた髪をくしゃくしゃと乱暴に拭きながら、ソファに腰を下ろす。
深く息を吐き出し、背もたれにガクンと頭を倒した、その瞬間。
煌希の心臓が、ドクンと嫌な音を立てて跳ね上がった。
「……っ!!」
一体いつからそこにいたのか。視界に入ったのは……
廊下の暗がりの中、 まるで幽霊のように力なく立ち尽くしている弟の燦斗が、無言でこちらを見つめていた。




