【31話】ParadoX
ドクン……、ドクン……。
カプセルの中から聴こえる鼓動音は、空間そのものを震わせるかのように重く鳴り響いていた。
半透明の液体が円筒の内壁に沿って、ゆっくり螺旋を描く。
浮かぶ気泡が弾けて消えるたび、その中央で管に繋がれ眠っているかのような人影が、揺らめいて見える。
「なんなんや、これ…………人か?」
宰は思わず息を呑む。仮面の下、口を半ば開けたまま、その光景を見つめていた。
カプセルのすぐ下にいるユンは無言のまま俯き、刻まれた識別コードをじっと見つめ、指先で文字をなぞっている。
EX-Λ――。
その名を見た時、彼の脳内にある記憶が蘇った。
***
壁には爪で抉られたような深い裂け目が走り、鉄骨はひしゃげ、床一面に広がる赤。
焼け焦げた匂いと、鉄の味が鼻を突く。
その夜、南京にある施設とその周辺は地獄そのものだった。
炎に包まれた建物の間を縫うように、まるで獣のような動きをする男が暴れ回っている。
駆けつけた警察が銃を乱射していたが、そいつは怯むどころか更なる狂気を纏って襲いかかってきた。
姉が「早く逃げろ!」とユンに向かって叫んだ。
その顔が閃光に照らされた瞬間――横から迫った影に、腕ごと引き裂かれる。
血飛沫が舞い上がり、ユンの視界が真っ赤に染まった。
***
ユンは突然、こめかみを押さえる。
「……っ……。」
頭の奥が灼けるように痛む。
仮面の表面に青白いノイズが、激しく走っていた。
まるでホログラムが乱れたかのように、仮面の下、覆い隠された素顔の輪郭が一瞬だけ見える。
宰はユンの異変に気づき、咄嗟に駆け寄って声をかけた。
「おい、ユン!どうした?」
彼の呼びかけに、ユンは短く息を吐きながら答える。
「……何でもない。」
「……ならよかけど。てか、ここなんなん?この人みたいなヤツは……?」
「……知らない。恐らくは……クレイヴァーの実験に使われてる何か……。」
宰は鼻を鳴らし、眉間に皺を寄せる。
「実験対象ねぇ……。マジで勘弁してほしいわ」
ユンはそれ以上何も言わず、宰に背を向け歩き出す。
「……これ以上、此処に長居するのは危険だ。行こう」
「あぁそうやな」
宰とユンは、重苦しい空気を残したままカプセルのある広間を後にした。
背後では、檻に閉じ込められた異形たちの呻き声が、なおも低く響いている。
「はぁ……ったく、こんな場所誰が作ったんや」
宰が溜息をつきながら呟く。
ユンは特になにも返事をせず、前を向いて歩みを進める。
通路を抜けようとしたその時、ユンはふと立ち止まった。
壁の隅、レンズの赤ランプが「ピッ」と点滅している。
「……チッ」
ユンは軽く舌打ちをし指先をカメラに向ける。
指先から薄い光の線が走り、監視カメラのレンズがノイズに覆われたかのようになると、三秒後に赤ランプが消灯した。
後ろで見ていた宰がハッとした表情でユンに尋ねる。
「あっ……。そういえば侵入するときカメラ壊すの忘れてたわ……おい、今ので消えたんか?」
「あぁ。データは残らないし、もう作動しないから問題ない」
ユンが短く答え、再び歩き出そうとした次の瞬間――。
……ウウウーッ、ウウウーッ。
甲高い警報音が通路全体に響き渡った。
壁面の非常灯が点滅し、薄暗かった通路が不気味な赤色に染め上げられる。
宰は思わず声を荒げる。
「おいおいふざけんな!カメラ消したんじゃなかったんか!?」
ユンは小さく息を吐き、冷静に呟いた。
「んー。恐らくは監視カメラの電源が落ちたから、別系統のセンサーが作動したのかもな」
宰は少し動揺しつつも、警戒しながら辺りを見渡す。
「マジかよ……早よ出んと見つかったら絶対ヤバかし!」
その言葉の直後、ゴゴゴ……と床が震える。
前方の通路で、分厚い鉄のゲートがゆっくりと下り始めていた。
「おいっ!!出口塞がれるやん!!走るぞ!」
赤光の中、ユンは宰の腕を掴み、無言で走り出した。
閉じていくゲートの隙間は、残りわずか。
油圧の駆動音が唸りを上げ、鋼鉄の牙が噛み合うように降りていく。
「間に合えっ!!」
宰は歯を食いしばり、力いっぱい地を蹴った。
寸前で宰の肩がゲートに擦れる。
そのまま床に転がり込み、ユンも滑るように身体を潜り抜ける。
――ガシャン!!
二人がなんとか通り抜けた直後、ゲートは背後で完全に閉じた。
宰が横で息を荒らげているのを見て、少し笑いながらユンは言う。
「さっきのハッチから戻っても良かったけど……また実験体出てきても嫌だしね。ツーチャンビビるし。」
「はぁっ!?あんな気味悪ィとこ誰でもビビるに決まってんだろーが!」
手をつきながら怒る宰を横目に、ユンは涼しい声で返す。
「ハイハイ、ほら、早く立って!遅いと置いてくよ、ツーチャン」
「ったく、うっせぇーな……」
そう言うと、宰は少しよろめきながら立ち上がった。
ゲートを抜けた先の通路は思ったより短く、前方に鉄梯子があるのを見つける。
「……出口か?」
「先に様子見てくる」
ユンは先に梯子を上っていく。
頭上にあるマンホールの蓋を押し上げると、冷たい夜風と遠くの街のざわめきが流れ込んできた。
「よっ……と」
ユンが合図をすると宰も続き、地上へ這い上がる。
蓋を閉じようとした瞬間、地下からはまだ警報音が鳴り響いているのが聴こえた。
宰は大きく息を吐き出し、腕をぶんぶんと振って疲れを誤魔化す。
「ったく……とんだ偽情報掴まされたな。
オークション会場どころか、ゾンビの楽園みてーなとこに辿り着いたじゃねーか!」
「ま、中華街の連中は、ほぼ黄寄りってコトだな」
「ンな事は最初から分かってるっつーの!」
「でも収穫はあったでしょ?ブラックオークションは空想か現実かまだわからないが、異人を大量に生み出そうとしてるやつが居るってこと」
宰は肩をすくめ、ため息を吐きながら夜空を仰いだ。
街灯のオレンジ色が遠くに霞み、星は雲に隠れて見えない。
「はぁ……そんなん聞いても気が滅入るだけやん。俺はもう二度とゴメンやわ、こんな体験」
ユンは無言で懐から手帳をさっと取り出し、メモをする。
仮面をつけているせいで表情はわからないが、その仕草は、やけに冷静で、宰を少し苛立たせる。
「……お前、怖くねぇのか?」
思わず漏れた問いに、ユンは手帳を閉じ、夜風に髪をを揺らしながら答えた。
「……恐怖よりも、確かめたい真実がある、そっちの感情の方が勝ってる」
その台詞に宰は途端に言葉を失い、視線を逸らす。
夜風が吹き抜け、街灯に照らされたアスファルトの上で二人の影が長く伸びる。
遠くでは救急車のサイレンが小さく鳴り、街は何事もなかったかのように眠り続けている。
ユンは仮面の奥で一度だけ瞼を閉じ、低く告げた。
「……行こう。まだ俺らのやるべき事は終わってない」
薄暗い月明かりの下、二人は再び歩き出した。
――――
心電図の音が、一定の間隔で静けさを区切っていた。
白いカーテンの隙間から、廊下の明かりが細い帯になって床を横切る。
咲凪はベッド脇の椅子を少しだけ引き寄せ、膝の上で指を重ねる。
机の上の紙コップには、さっきもらった水が半分ほど残っていた。
倒れる前の翔真の事を思い返す。
様子も話し方も、動きさえいつもと違っていた。
それでも、意識を失う直前だけは、確かにいつもの翔真だった。
(……ねぇ翔真。目を覚ましたら、きっともう、前みたいには戻れないよね。)
咲凪は眠っている翔真の顔をじっと見つめる。
――ポロン♪
スマホの通知音が静かな部屋に鳴り響く。
咲凪はスマホを手に取ると消音にして、画面を伏せる。
(大丈夫、いつも通りで)
そう心の中で呟くと、紙コップの縁を親指でゆっくりなぞり一口、水を飲む。
「……起きたら、文句でも何でも言って。聞いてあげるから」
咲凪は視線を翔真の手の甲へ落とす。
無意識に触れそうになったが、すぐに手を引っ込める。
窓の外、遠くの街明かりが瞬く。
看護師が廊下を通る足音が近づいてきて、また遠ざかる。
咲凪は背もたれに軽く体を預け、まぶたをそっと閉じる。
心電図の一定の音に呼吸が重なり、気づけば浅い眠りに落ちていた。
――――
海沿いにあるペントハウス。
入口にあるゲートが開き、裏競市場を後にした派手な色の高級車が、地下にあるガレージへと入っていく。
車が静かに停車すると、仄かな照明の下、黒服の使用人が二人、スッと一礼して出迎える。
運転手が先に降り、後部座席のドアを開くと黎唯と燁羅は静かに降りた。
二人が降りると、使用人達は白手袋をはめた手で、車内に残された荷を持ち上げ運ぶ。
燁羅と並び手ぶらのまま直通エレベーターへと向かった。
二人の後ろから荷物を抱えた使用人達が半歩空けて続いた。
カードキーかざし、エレベーターに乗り込む。
最上階に着くと小さな電子音が鳴る。
扉が開くと目の前には磨かれた玄昌石の前室が現れた。間接照明が床の縁を淡くなぞり、壁面のニッチには一輪だけの白い蘭が飾られている。
黎唯が無言で手の甲を端末にかざす。青から白へと色が変わり、続けて四桁のコードを指先で打ち込むと、認証が通る。
重みを感じさせない気密扉がスライドし、沈香と潮の匂いを含んだ空気が、室内から吹いてくる。
室内へ入ると、黎唯は手袋を外し、低いソファへ無造作に腰を預けた。
荷物を保管庫へと運ぼうとする使用人の背中に視線を向ける。
「慢着(待て)。」
「保管庫へは運ばなくていい。テーブルの上に置いておけ」
使用人の男たちは無言で頷き、テーブルの上に静かに乗せると、中へと入っていった。
黎唯は並ぶ品の中から木箱を選び、そっと蓋を開ける。中から小瓶を取り上げると、琥珀色の液がゆっくりと揺れた。
燁羅は横目でその様子を眺め、唇に笑みを寄せた。
「……珍しいわね。――今すぐ愛でるなんて。」
「……呵呵、今回ばかりは、すぐにでも確かめたくてな」
黎唯は小瓶を無造作にテーブルへ置くと、隣の黒いスーツケースへと視線を移した。
金具に指をかけ、カチリと錠を外す。
ゆっくりと蓋を押し上げると、ヒヤッとした冷たい空気が一瞬だけ流れ出る。
中には、幾重もの金属枠で固定された容器が収められていた。
その中心で――黒い臓腑が、心臓のように妖しく脈打っていた。
燁羅は脈動する臓腑をじっと見つめている。
「……まるで人の心臓みたいね。こんなの、誰にでも扱える代物じゃないわ」
黎唯は容器に指先を軽く這わせると、低く呟いた。
「……欲は、火を付けるには最も安い燃料だ。少し垂らすだけで、街は勝手に燃える。」
黎唯の声が落ちると同時に、容器の中の臓腑がドクンと大きく脈打った。
部屋の照明が揺れ、二人の影を長く伸ばす。
燁羅は小さく笑みを浮かべ、彼の隣に座る。
「……ほんと、退屈しないわね」
窓の外、ガラス越しに広がるのは月光を受けて煌めく夜の海。
黎唯はその光景を眺めながら、低く吐き捨てるように呟いた。
「黒埼……奴も、じきに沈む」
――照明が揺らめき、静寂の奥で復讐の火種が静かに燃え上がろうとしていた。




