【29話】転禍
エンジンの振動が腹に響く。
公園から住宅街へ抜ける、緩やかに蛇行した細い道。
街灯の間隔が広く、ところどころ影が深く落ちている。
煌希はアクセルを緩め、静かに息を吐いた。
(……面倒くせぇ話に巻き込まれた)
ポケットの中には、アスバから渡されたカードがある。
捨てるつもりで一度取り出してみたものの……
アイツの言う、彪人の死の真相が気になり、気づけば、そのままポケットにしまい込んでいた。
そして煌希の脳裏に、あのステッキが石畳を叩く音とアスバの台詞が蘇る。
『……君の目は、まだ戦う覚悟をしていない』
『立凮 彪人――彼は親友だったんだろ?』
(……何様だ、あの野郎)
ハンドルを握る手に、わずかに力がこもる。
棺の中で眠る彪人の顔が一瞬浮かんできた。
煌希はゆっくりと息を吸い、前を見据えた。
視線は前を向いているのに、意識の半分は別の場所にあった。
交差点の手前で信号が黄色から赤になり、停止線で止まる。
夜気の中、ヘルメット越しに息が籠もる。
信号が青に変わり、アクセルを捻った瞬間――
対向車線から、艶やかな光沢を放つ派手な色の高級車が滑るように近づいてきた。
ガラス面は全てフルスモークで、内部の様子は全く窺えない。
煌希はその派手な色の高級車に一瞬、視線を奪われた。
街灯を反射して、艶やかな塗装がゆらめく。
なぜか、心のどこかに引っかかる感覚が残る。
すれ違って数秒後、バックミラー越しにその車を捉えた。
ミラーの中、光沢を帯びた車体が、夜の街を悠然と進んでいく。
煌希は、短く息を吐く。
再び前方へと視線を戻し、アクセルを少し強めに捻った。
抑えていた回転数が一気に解き放たれ、エンジン音が低く唸る。
バイクは加速し、冷たい夜風が頬を掠めていった。
―――――――――
裏競市場からの帰り道――
黎唯は後部座席のシートに深く腰を下ろし、肘掛けに片肘を預け、長い脚をゆったりと組んでいた。
車内には、サンダルウッドとアンバーの深い香りに、革の匂いが溶け合って漂っている。
窓の外を流れる街の灯りが、その横顔を淡く照らしていた。
隣に座る燁羅が、視線だけを向けて口を開く。
「……今夜は随分と機嫌がいいようね」
黎唯はわずかに口元を歪め、短く笑いながら言った。
「算是吧(まぁ、そうだな)。欲しい物は全部手に入ったし……面白いモノも買えた」
指先でゆっくりと肘掛けを叩きながら、黎唯は窓の外に視線を流す。
対向車線から独特のエンジン音と共に、一台の黒いバイクが近づいてくるのが視界に入った。
スモークガラス越しでも、そのシルエットは、はっきりと見える。
信号が変わり、通り過ぎる瞬間、
無意識に黎唯の視線は、そのライダーの姿を追っていた。
「次の段取り、どうするつもり?」
燁羅が足元に積み上げられた落札品を見ながら問いかける。
しかし、彼はその問いかけに答えず、視線を戻すと
指先で手元のバカラグラスを軽く揺らした。
琥珀色の液面が静かに波打つ。
ウイスキーの芳醇な香りを胸いっぱいに吸い込みながら、ゆっくりと一口味わう。
その口元には、すでに次の計画を思い描いているかのような、余裕な態度と不敵な笑みが浮かんでいた。
―――――――――
キィィィィィ……
甲高いブレーキ音と共に一台の路線バスが停まった。
車内の灯りに照らされながら、熾埜は肩から下げたカバンを抱え、足を踏み出す。
降り立った瞬間、潮の匂いが鼻をかすめる。
他に降りた者は誰もいなかった。
バスのドアが閉まり、そのままゆっくりと坂道を下っていくと、辺りは静寂に包まれる。
熾埜は、海沿いの石畳を抜け、斜面に沿った住宅街へと続く道を歩いていく。
家並みの間からは教会の尖塔が突き出し、月明かりを受けて鈍く光っていた。
強い海風を受けて風見鶏がカタカタと鳴る音が聴こえてくると、
路地の奥で猫が背を丸め、鳴きながら暗がりへ走って逃げていくのが見えた。
夜道を微かに照らす街灯がチカチカっと瞬いたが、すぐに元の光量へ戻る。
熾埜は、いつもとは違う辺りの不穏な空気に胸がざわつき、歩みを早めた。
やがて、石造りの外壁とアーチ状の門が見えてくる。
そこが彼女の家だ。
自宅が見え、安堵からわずかに気が緩んだその時――ふっと風が止み、空気が重く沈む。
遠くの鐘楼が、ガラーンと一度だけ低く鳴り響いた。
鳴るはずのない鐘の音に驚き、熾埜は咄嗟に足を止める。
耳を澄ますと、夜の静けさが息苦しいほどに、張り詰めていた。
(今日はなんか不気味……)
肩から提げたカバンへ視線を落とした。
ファスナー脇に揺れるマスコット、Mahwooが、街灯の光に照らされながら小さく揺れている。
熾埜はそのままカバンの持ち手をぎゅっと握り、背負い直す。
その直後――。
背後で「……コツ」と、靴音のようなものが聴こえた。
じっと誰かに見られているかのような鋭い視線が、彼女の背中に突き刺さる。
胸の奥がきゅっと縮む。
熾埜は、誰かの気配を感じて恐る恐る振り返った。
だが、そこには誰も居なかった。
「…………。」
少し慌てた様子で鞄から玄関の鍵を取り出し、錠前に差し込み中に入ろうとした時だった。
「……熾埜。今日はずいぶん遅かったじゃないの」
低く落ち着いた、威圧感のある声。
声のした方を見ると、修道院の脇に一人のシスターが立っていた。
黒い修道服に包まれた姿、薄い唇と鋭い眼差し。
彼女の名前はシスター・ルシア。
この家に併設された教会に仕えており、幼い頃から何かと彼女の面倒を見てきた人物だ。
だが、熾埜はこの人が苦手だった。
「……すみません、今日はちょっと学校の友達と……」
「言い訳は要らない。帰りが遅いのは感心しないわね。」
熾埜は視線を落とし、小さく息を吐いた。
シスターはさらに畳みかけるように続ける。
「ましてや、この教会に名を連ねる立場なのよ?周囲からどう見られるか、少しは考えて行動なさい。」
「全く……高校生にもなって。そんな風に貴方を育てた覚えはないわ」
シスターの淡々とした説教が続く。
「はい……。」
熾埜は早く家の中に入りたい一心で、小さく頷きながら返事をしていた。
……そんな二人のやりとりを、路地の陰からじっと見つめる影があった。
その正体は――制帽を被った、日蘭鴉會の構成員。
『……報告します。例の真なる神の器の家を確認しました。』
手早くメッセージを誰かに送信すると、トークルーム一覧の画面へと戻る。
その中から“妹”と書かれたトークルームを選び、再びメッセージを入力し始めた。
『お前の言ってた候補を夕方、アーケード街で見つけた。後を追ってみたが……なかなか良さそうだ。引き続き、学校でも監視を続けろ』
送信ボタンを押すと、直ぐに既読の文字がつく。
その数秒後に、短い返信が返ってくる。
『了解。目立たないようにやる』
男はさらに新しいメッセージを打ち込む。
『それと、お前にアスバ様から直々の命がある。黒埼 燦斗も見張っとけ。同じクラスだろ?』
既読がつくとOKと書かれた、所々ツギハギになった熊のキャラクターのスタンプが返ってくる。
スマートフォンの明かりが、男の顔を妖しく照らす。
もう一度、熾埜の後ろ姿を見ると、男は満足げに口角を上げ、音もなく暗い夜道の奥へ去っていった。
―――――――――
─ 裏競市場・閉会後。
何処かにある豪奢な半地下の空間。
壁一面のガラスケースには、古びた剣や甲冑など骨董品が展示されており、
天井から吊るされた燭台の炎が、深紅の絨毯と黒曜石の柱に揺らめく影を落としていた。
古い革と香木の混じった匂いが漂い、外界と切り離された異様な静けさが支配している。
そして――中央にあるガラスケースの中に、黒い影が現れた。
ガラス面がゆっくりと両側へスライドし、燭台の淡い灯りが男の姿を照らす。
「……戻ったか」
その場に居た黒い傘の男は、待っていたと言わんばかりにゆっくりと立ち上がる。
現れた“もう一人の自分”が静かに歩み寄り、
二人は向かい合うと、同時にそっと目を閉じた――。
片方の男はふっと黒い靄となって崩れ、もう片方の男へと吸い込まれる。
二つの姿は、まるで水面の像が重なるように溶け合い、一つに戻っていった。
別のケースの中でも、同じように影が揺らぎ、
仮面の女、白衣を着た男、そしてスーツを着た五十代の男――矢矧が、姿を現す。
広間に、三人の靴音が重く響いた。
互いに一言も交わさぬまま、それぞれが赤い絨毯と金の縁で飾られたテーブルとソファの置かれた中央へと、集まる。
黒い傘の男は軽く瞬きをすると、嬉しそうに笑みを浮かべながら告げる。
「………ある少年が覚醒し、リバレイターへと転位したよ。」
矢矧が、口元に咥えていた煙草を手に取り、口を開く。
「ほう……転位者か。」
その言葉に反応したように、黒のロングコートを纏った仮面の女が近寄ってくる。
白と黒のベネチアンマスクは光を反射し、表情を完全に覆い隠していた。
白衣を着た男は、気怠げな動作でソファに腰を沈め、黒い傘の男へ問いかけた。
「……で、アイツはどうなった。適合は失敗したのか?」
黒い傘の男は首を軽く傾け、答える。
「彼は……逆位置の愚者になってしまったよ。」
その会話を聞いていた仮面の女が、細い指で仮面の縁をなぞりながら呟いた。
「つまり……異人化失敗、という事ね。」
白衣を着た男は、溜息をつき、視線を矢矧の方へと移す。
「……結局、失敗作か……。まぁいい、期待はしていなかったからな。さっさと回収して来い矢矧。」
矢矧は鼻で笑い、咥えた煙草を指で軽く弾く。
「おいおい、急かすんじゃねーよ。一服ぐらいゆっくりさせろ」
煙を吐きながら、黒い傘の男に問いかける。
「……で、転位者の身元は?」
黒い傘の男は、すぐさま矢矧の問いかけに答える。
「龍禧 翔真――十五歳、舞ノ濱高等学校一年。」
そう言うと、彼は内側のポケットから一枚の写真を取り出し、テーブルの上に置いた。
薄暗い照明の下、写っているのは制服姿の少年。
「……ただのガキじゃねぇか」
写真を確認した矢矧は口の端をわずかに吊り上げた。
そんな矢矧を横目に、写真を覗き込んだ仮面の女は、細い指で軽く押さえ、微笑んだ。
「あらこの子……潰すには惜しい存在かもしれない。」
だが、その声音は冷たく、感情は一切感じられなかった。
白衣の男は鼻を鳴らし、ソファの背もたれに身を預け言い放った。
「転位者の処分か利用か、先に判断するより……回収が優先だな」
それを聞いた矢矧は、白衣の男を一瞥し、吸い終えた煙草を灰皿に押し付けると、面倒くさそうに腰を上げた。
「はいはい、わーったよ。……さっさと回収してくりゃいいんだろ」
黒い傘の男は、手にしていた傘を軽く回しながら三人の顔を見渡した。
「では、転位者の少年をどうするかは後日考えるとして……今夜はここでお開きとしよう。」
仮面の女は無言で立ち上がり、裾を翻して背を向けガラスケースの中へと向かう。
白衣の男は、机の上に散らばった書類を雑に鞄へ放り込むと、仮面の女の後に続いた。
最後に残った矢矧は、大きく伸びをしてから、黒い傘の男に片手を上げる。
「じゃ、行ってくるわ」
それと同時に、黒い傘の男は静かに傘を開く。
薄暗い室内に、バサッと乾いた音が響き渡る。
仮面の奥の瞳がゆっくりと細められた。
「ふふ、行ってらっしゃい、矢矧。」
次の瞬間、場内の照明がふっと消え、暗闇だけが残った。
―――――――――
―ガラ……ガラガラ……。
重たい音が、闇の向こうから近づいてくる。
宰とユンは反射的に動きを止め、互いに視線を交わす。
足音は一定の間隔で響き、やがて壁の影がスッと揺れた。
「……おい、また新手かよ」
宰の声にユンは短く頷く。
暗がりの奥から、微湿った空気が流れてくると同時に、焼けた鉄と、焦げた肉の臭いを混ぜたような匂いが辺りに漂い始める。
足音のする方へ懐中電灯を向けた、その瞬間――二人は目を疑った。
背の高い人型の影。
異様に伸びた腕と、不自然に折れ曲がった関節。
眼窩の奥で、赤い光がじっとこちらを見据えている。
焼け焦げた衣服がところどころにまとわりつき、その隙間から黒い皮膚が覗いていた。
片足には錆びた足枷が嵌められ、そこから伸びた鎖をズルズルと引きずりながら近づいてくる。
鎖がアスファルトを擦るたび、ガラガラ……と重たい金属音が響いていた。
「……おわ!!今度はゾンビかよっ!?」
宰は半歩後ずさりしながらも、銃口だけは逸らさなかった。
仮面の下の額にはじっとりと汗が滲み、唇の端が引きつる。
ユンは落ち着いた様子で、足枷を引きずる異形の全身を一瞥すると、こう告げた。
「いや、コイツは……異人だ」
ユンの声が闇に沈んだ瞬間、異形はピタリと足を止めた。
怪しく光る赤い眼が二人の姿を順番に捉える。
――ゴキッ。
関節のどこかが外れるような音がした次の瞬間、異型の長い腕がゆっくりと持ち上がった。
闇の中、奇妙な異形の影が揺れながら、徐々に距離を縮めていく。
その姿がある程度ハッキリとわかる距離までくると、赤い眼が、一瞬ギラりと光る。
その直後――異型が地を蹴り、不自然に歪んだシルエットが、まっすぐ二人の元へと迫ってきた。




