【23話】逢間
生ぬるい風が路地裏を抜け、砂埃が静かに舞い上がる。
煌希は敵の動きを探りながら、地面に伸びた影に視線を落とす。
対する狐面の男は、微動だにせずその場に立ち尽くしていた。
「……どうした?急に止まってんじゃねぇよ」
煌希は唇の端を吊り上げ、拳をゆるく握り直す。
金髪の男は片手で血を拭いながら、ゼェゼェと息を荒げていた。
ボロボロになりながらも、その口元にはまだ笑みが浮かんでいる。
「ハァッ……ハァ……フン、”番外の黒咬”の名は伊達じゃねぇってか」
「俺をそこらの“並”と一緒にすんな」
「チッ……調子こいてんじゃねぇぞ、黒埼……!!」
金髪の男が喰い気味に鉄パイプを振り抜く。
「ブッ殺してやるッ!!」
ガッ――!!
煌希は身を捻り、ギリギリで鉄パイプを躱す。
掠めた時の風圧が髪を揺らし、鉄パイプはそのまま電柱に当たってゴンッと鈍い音が響いた。
「オラァッ!」
煌希が一歩詰め、空いたボディにストレートをぶち込む。
「ぐッ……!」
男の体が沈んだ瞬間、脚を突き上げ、そのまま顔面を思いきり蹴り飛ばす。
「ぐがぁッ……!!!」
「吠えてりゃ俺に勝てると思ったのか?」
低く吐き捨てると同時に、顎にアッパーを叩き込む。
拳が骨にめり込み、男の顔が跳ね上がる。
手に持ってた鉄パイプが宙を舞い、音を立てて地面に転がった。
その音に反応し、狐面の男とやり合っていた喉元に傷のある男が振り向く。
そして――、煌希めがけて突進してきた。
「黒埼てめぇッ!!」
煌希は壁を蹴って跳ね、突進してくる男の攻撃をギリギリでかわす。
真横に飛ぶように体を抜けさせ、男の足が止まったその瞬間。
煌希は地面に着地すると同時に踏み込み、すかさず相手の首元に腕を回し込んで、背後から勢いよく拳を叩き込んだ。
ドンッ!
拳が背中にめり込む。
衝撃で男の体がよろめき、壁際まで押し出された。
激突しそうになる寸前、咄嗟に両手を突き出し、なんとか踏みとどまる。
息を荒げたまま振り返り、こちらを鋭く睨みつけた。
「………お前のパンチ、重てぇのは認めてやるよ」
男が肩を揺らしながらニヤリと笑う。
「俺はこの程度じゃ落ちねぇんだわ」
「……ああ、そうかよ。だったら――」
煌希はゆっくりと構えを取り、首を左右に捻りながら手の関節を鳴らした。
「とことん付き合ってやるよ、最後までな」
感情なんてとっくに捨てた。
相手が動かなくなるまで容赦なく叩き潰す――
それが煌希の喧嘩だった。
ストレート、アッパー、蹴り――呼吸と同じリズムで、止まらずに入れる。
一発目で削り、二発目で折り、三発目で沈める。
「うぐッ……!!」
反動で吹き飛び、壁に叩きつけられた男が膝をつく。
そこへ狐面の男が忍び寄る。
「……挟むつもりか、舐めてんじゃねぇぞ」
喉元に傷のある男が呟いたのと同時に、狐面の男が先に動いた。
しかしタイミングを計ったかのように、狐面の男の拳を捻り返すように受け止めると、肘を叩き込む。
ゴッ――!
狐面の身体がわずかにたじろぐ。
「さっきから邪魔なんだよなァ、お前さんはよッ!」
眼鏡をかけた男が割り込むように横から飛び出してきた。
所持していたドスの代わりに、拾った鉄パイプでなりふり構わず襲いかかってくる。
ガンッ!!
狐面がバックステップで距離を取ると同時に、男は振り返り、喉元に傷のある男に向かって叫ぶ。
「岩元さん…遊びはそろそろ終いだ。コイツを先に殺るぞ」
眼鏡の男の呼びかけに応じるように、喉元に傷のある男――岩元が立ち上がる。
二人は狐面の男を中央に挟むように動き、左右から同時に仕掛けようとした――その時。
「…おいおい、俺の存在、忘れてねぇよなぁ?」
鋭い声と共に、煌希の脚が喉元に傷のある男の側頭部に深くめり込む。
―ガッ!!
「っ!!…あ゛っ……」
鈍い音が響き、岩元はアスファルトに崩れ落ちた。
鉄パイプを手にした男がその様子に動揺し、思わず動きを止める。
その隙を狙って、狐面の男は背後に回り込む。
無言で眼鏡をかけた男の肘を取り、後ろへ引きずり倒す。
地面に叩きつけ、すかさずパイプを蹴り飛ばすと、仮面越しに冷たく見下ろす。
煌希は腕を組んで壁にもたれかかり、静かに岩元を見下ろしていた。
「さっきまでの威勢はどうした?“その程度じゃ落ちねぇ”んじゃなかったのか?」
「……お前のその態度、どうにも癪に障んなァ!!」
荒い息を吐きながら、岩元が再び立ち上がる。
顔からは血が流れ、その拳は強く握られ、震えていた。
「おい、何ぼさっとしてんだ越智!!さっさと殺れ」
岩元はそう叫ぶと最後の力を振り絞って走り出す――が、その体はふらついていた。
煌希は僅かに前のめりの体勢になると、拳を構える。
ドガッ!!
煌希の拳が鳩尾に突き刺さる。
その鋭くも重たい一撃に、岩元の目は見開かれ、喉の奥から声にもならない音が漏れた。
越智は地面を這いながら、立ち上がろうとするが――
狐面の男が、上から足で押さえつけ、動きを封じる。
「……ははは、一体何なんだよ。アンタも化け物か?」
笑い混じりにそう呟く越智に、狐面の男は一言も発さない。
冷ややかに見下ろしたまま、脚を上げると、ガッガッと、越智の後頭部を容赦なく踏みつけた。
その衝撃で、越智の掛けていたメガネのレンズが割れた。
砕けたガラス片が地面に散り、割れた隙間から虚ろな目が覗く。
「っが、ぁ……っ、やめ……ろッ……」
最後に靴を強く押し当て、地面にねじ込むように踏みにじる。
頭とアスファルトがぶつかる鈍い音が、路地に響き渡る。
煌希は、その様子を無言のまま見つめていた。
仮面の奥、男の表情は見えない。
だが、その背中には何か得体の知れない“冷たさ”があった。
(……何処のどいつか知らねぇが……まともじゃねぇな)
越智はうつ伏せのままひれ伏し、額には血が流れ、割れたメガネがズレて、頬に引っかかっている。
倒れ伏した三人の男達からは、もう呻き声すら聞こえない。
埃っぽい空気の中で、血と鉄の匂いだけが残っていた。
煌希は小さく息を吐きながら、ゆっくりと膝を折る。
冷えきったその目に、感情の色は一切宿っていない。
「……誰に言われて動いてんのかは知らねぇけどな」
目線を下に向けたまま、言葉を切らずに続ける。
「俺を殺る気なら、テメェの足でここまで降りてこい――とでも言っとけ」
煌希は立ち上がると三人を一瞥し、狐面の男の方を見やる。
男は何も言わず、拾ったドスをクルリと回し、懐にしまった。
そして仮面の奥から煌希の方を一瞬だけ見ると、
すぐに背を向けて歩き出し、路地の奥へと去っていった。
その後ろ姿をしばらく無言で見つめる。
仮面の奥――。一体どんな顔をしていたのか。
そして……アイツは一体、何者なのか。
狐面の男の背中が完全に角を曲がって見えなくなるまで、その場に立ち尽くしていた。
煌希はポケットに手を入れると、スマホを取り出した。
画面に目を落とすと、時刻はすでに十八時を過ぎていた。
スマホをポケットにしまい、溜息をつくと、背を向け路地を後にした。
やがて、煌希の足音が遠ざかると、辺りは静寂に包まれる。
その静けさの中、伏せたままの越智の肩が、小さく震えていた。
笑っているのか、呻いているのか――。
割れたメガネの奥、片方だけ残ったレンズ越しに覗いた目が、静かに揺れていた。
――――
――夕暮れ時の舞ノ濱高校、校門前。
金網越しの空は、淡い朱に染まり始めていた。
吹奏楽部の活動を終えた美緒が、楽器ケースを背負って駆け寄ってくる。
「ごめーん熾埜、待った?」
「ううん。私も今来たとこだから大丈夫!」
門の脇に立っていた熾埜が、スマホから顔を上げて小さく微笑む。
「美緒ちゃん、今日もフルート?」
「うん。下パートでちょっと迷っててさ、先輩に付き合ってもらってたら遅くなっちゃった」
そんな会話を交わしながら、校門を出る。
制服姿の生徒たちがまばらに下校していく中、二人はゆっくりと坂を下り、停留所へと向かう。
バスに乗り込むと、熾埜は窓の外の景色を眺めながら、美緒とのおしゃべりが続いた。
「……で、熾埜はクレープ、何味にするかもう決めてる?」
「うーん、それがまだ迷ってるんだよね。期間限定のやつも気になってる!」
「わかる〜!うちも限定のヤツ気になってて!」
揺れる車内で穏やかな時間が流れていく。
(……美緒ちゃんと友達になれて、ほんとに良かったな)
心の中でそっとそう思いながら、楽しそうに話す彼女の横顔を、嬉しそうに見つめていた。
やがてバスが観栄町商店街の前に到着すると二人は降車する。
商店街前の交差点。
街は仕事帰りの人や学生たちで少しずつ賑わい始め、辺りには飲食店から美味しそうな匂いが漂っていた。
「そういえば熾埜は待ってる間、何してたの?」
「下の図書館に行ってたよ」
「図書館?!えー!どんな本読むの?」
バスを降りた熾埜と美緒は、会話を交わしながら並んで信号が青に変わるのを待っていた――その時。
ブゥゥン……と、耳に低く響く独特なエンジン音が交差点に響き渡る。
普通のバイクとは明らかに違う、重く、鋭い音。
その音につられるように、美緒は思わず顔を横に向けた。
視線の先――
交差点の手前で、一台の黒いバイクが停まっていた。
黒いフルフェイスのヘルメットに、黒のライダースジャケット。
全身黒づくめで見た目の派手さはないのに、何故か存在感があった。
「えっ!あれ……」
美緒が小さく声を漏らす。
しばらくそのバイクを見つめ、何かに気づくと、大きな声を出して言った。
「やっぱ、煌希くんじゃね!?」
突然のその声に、隣にいた熾埜は少し驚く。
「え、誰?……美緒ちゃんの知り合い?」
「うん、うちの兄ちゃんの後輩でさ。昔よく家に遊びきてたんだよね。バイクのエンジン音が独特だし、多分そうだと思う!」
「そうなんだ!美緒ちゃん、知り合い多そうだね!」
そう言いながら、熾埜も信号の向こうに停まる黒いバイクへと視線を向けた。
バイクに乗ったその人は、初めて見かけたはずなのに、なぜか懐かしいような、不思議な感覚が残った。
(…なんだろ、あの人。見覚えがあるような……?)
熾埜は何故そう思ったのか、自分でもわからなかった。
その姿をぼんやりと見つめていると、隣から声がした。
「ヤバ……いつ見てもカッコいいな……」
ぽつりと漏らした美緒の呟きに熾埜は思わず笑った。
「……ふふ」
「え、ちょ、もしかして今の聞こえてた……?!」
「いや〜何も。なんか言ったの?」
「ううん、何でもない〜」
熾埜は、少し照れながら焦る美緒の様子に気づき、そっと微笑んだ。ちょうどその時、信号が青に変わった。
「ほら、熾埜、早く行こ!クレープが待ってる!」
「あっ、うん!」
二人が歩き出すのとほぼ同時に、
煌希は軽く前傾になり、アクセルを一気にひねる。
重低音のエンジン音が交差点に響き渡る。
黒い影が風を裂くように走り出し、視界の端を一瞬で抜けていく。
顔は見えなくとも、その背中から滲む異様な気配が、熾埜の胸に強く残った。
――――
――夕暮れが終わりを告げ、街は夜の帳に包まれはじめていた。
長屋の軒下、わずかに開いた障子から差し込む橙の残光が、畳の縁をかすかに照らしている。
黄 黎唯は窓際に腰を下ろし、煙管をくゆらせていた。
煙がゆっくりと立ちのぼり、やがて風に乗って虚空へと消えていく。
彼の鋭い眼差しは、空のどこか一点を見つめていた。
その傍ら――
燭台の灯が揺らめく室内、燁羅はひとり卓に向かっていた。
卓上に置かれているのは、黒地に金の縁が施された羅盤(風水羅経盤)。
その隣には、深紅の布が丁寧に敷かれ、その上に小ぶりな札が並べられていた。
彼女は、細い指先でそれを一枚ずつ、丁寧に並べていく。
文様が刻まれた札が扇状に広がると――
その中の一枚に、燁羅の指先が止まった。
「……地風升。そして……坎為水」
唇の端に、ふっと笑みを浮かべながら、燁羅が小さく呟いた。
「今宵は――凶、ね」
煙管を傾けたまま、窓の外を眺めていた黄が、その言葉に反応し、振り向いた。
「……坎為水、か。陰の極み。冗談にしては出来すぎてる」
燁羅は笑みを崩さず、羅盤をくるりと回した。
回転する盤面の針が静かに震え、金の縁取りが仄かな光を反射する。
「昇の兆しも、深き水に呑まれるようでは意味は無い……ねえ、黎唯?」
卓に視線を落としたまま、燁羅は囁くように言った。
窓際では、黄がゆるやかに煙を吐き出す。
その視線は低く垂れ込めた雲の奥に向けられていた。
「……沒錯。(間違いないな)」
煙の尾がゆらりと揺れた。
やがて羅盤の針がピタリと静止する。
羅盤の針先が示す方角――その先に、何者かの意志のようなものが感じられた。
誰かが仕掛け、誰かが応じる。
「気をつけて。水の気は、表面では穏やかでも……底では渦を巻いてる」
黄は答えを返さず、ただ煙管の先を指で叩いた。
パラパラと舞い落ちる灰。
吐き出した煙は、天井の木枠に向かってまっすぐ昇っていく。
「……面白くなってきたな」
その言葉とは裏腹に、彼の声音には冷たさが滲んでいた。
燁羅は、ふと窓の外に目をやる。遠く、街の灯が瞬き始めていた。
―夜は、まだ始まったばかりだった。




