【20話】背中
―翌日。十六時過ぎの事。
低く傾いた陽が、街の端から差し込み、建物の壁面を金色に染めていた。
煌希は商店街のアーケードの中を黙々と一人で歩いていた。
すれ違う人々の声、商店から流れるラジオ、
時々通るバスのブレーキ音、
街中ビジョンから流れる広告の音楽、
店先で呼び込みをする声、焼きたてパンの香り、
ファーストフード店のハンバーガーの匂い、
人気ラーメン店の前に並ぶ人達──
昨日の夜が嘘みたいに、街はいつも通りだった。
だが、煌希の目に映る街の景色は、いつもよりどこか遠くに感じられた。
(……昨日起きた事が夢なら、どれだけ良かったか)
彪人の死は、あまりにも唐突で、現実味がなかった。
煌希は、歩きながらスマホを見て時刻を確認した。
昨夜の岳からの電話は、彪人のお通夜と葬式の日程についてだった。
お通夜は、今夜十九時から始まる予定だ。
――その前に、寄っておきたい場所があった。
(……オヤジに顔でも見せに行くか。)
クソ叔父――黒埼 燈司。
実の父親の弟であり、煌希の叔父。そして――育ての親でもあった。
一年前、事故でこの世を去った叔父は、煌希に喧嘩とバイク、生きる術を教えてくれた。
普段は小煩くて「クソ叔父」なんて呼んで悪態ばかりついていたが、
表向きは反発していたとしても、あの人の言葉と背中は、ずっと煌希の頭の中に残っている。
突然居なくなった叔父が遺してくれた物。
それは、叔父が営んでいたバイク屋と、十八歳の誕生日を迎えた時に叔父がくれた煌希の愛車――YAMAHA YZF-R1だった。
煌希は、月に一度は必ず燈司の墓参りに行く。
あの場所だけは、誰にも見せられない本音や弱音を、素直に吐ける場所だった。
今の彼にとって、気持ちを整理する為にも吐露する時間が必要だった。
賑やかなアーケードを抜けた先、少し人通りの少ない裏通りに漆喰の壁で出来た店があった。
墓参りの道すがら、いつも立ち寄るのが決まってこの店だった。
《和華屋 -つきよみ-》
黒を基調とした外観に、石畳の入り口。
昼間でも薄暗い店内に、ネオンの淡い照明が色とりどりの花を照らしていた。
煌希は深く息を吐き、店の引き戸に手をかける。
チリリン……
鈴の音が、静かに鳴り響いた。
その音に反応するかのように、店の奥から現れたのは、黒髪の前髪をワックスでピシッと固めたオールバックに、黒縁の眼鏡をかけた男、
―嘉神 帝央。
鋭い目つきは相変わらずだったが、眼鏡越しに見るその表情には、どこか柔らかさがあった。
黒のシャツに、ベージュのエプロン。
“地元最強”の元DWG三代目総長とは思えないほど自然に、花屋という空間に溶け込んでいた。
煌希は会釈し帝央に挨拶した。
「……うっす、嘉神さん。今日も変わんねぇっすね」
すると帝央は、肩を張って大袈裟に言った。
「なァぬィィィィィ!?メガネを新しく新調したのに気づいてないだとぅぅぅぅぅ!?」
「前もそんなのかけてませんでしたっけ?」
帝央はメガネのフレームを指で持ち上げ、キラッとレンズを光らせる仕草をしてみせた。
「この知性が滲み出るような黒縁のフレームに気づかねぇとは、まだまだだな煌希。花選ぶ前にまず人を見ろ、人を」
「……はい。」
煌希は少し掠れた声で返事すると、視線を落とした。
その仕草を見た帝央は、笑いかけていた口元を、わずかに引き締めた。
少し間を置いた後、煌希に問いかけた。
「……して今日は何しに来た?プレゼント用の花か?それとも花好きの不良がフラっと癒されに店に来た感じか?」
煌希は目を伏せたまま、問いに答えた。
「いや。…オヤジの墓参り用に供花が欲しくて。」
その一言に、帝央の声が一瞬だけ静かになる。
「……燈司さんの、か」
煌希は、小さく頷いた。
「おう、分かった、そこに座って待っとけ」
帝央は言葉を切ると、くるりと背を向けてカウンター奥へと向かい冷蔵棚を開け、慣れた手つきで、花を取り出す。
湿度、花びらの張り、香り……すべてを指先で確かめるようにしながら、必要な花を順に選び取っていく。
まず手にしたのは、白百合。
一輪だけ、少し角度のついた花芯を選び、
それに寄り添うように白い菊を合わせる。
その次に選んだのは淡いクリーム色のカーネーション。
柔らかな印象を添えるよう、主張しすぎない花びらの開きを見て決めていた。
そして、青紫のリンドウを手に取り
帝央は、それを白の間に差し込むように配置する。
「……これで、完成だな。」
そう呟くと、全体のバランスを確認するかのように軽く花束を傾けて見やる。
最後に、濃い墨色の和紙をそっと巻き、根元を薄紫のリボンで結んだ。
帝央が花を束ねている間、煌希は、座ったまま静かにその後ろ姿を眺めていた。
その背中には――何処かオヤジと似た雰囲気が漂っていた。
帝央は花束を軽く持ち上げ、束ねたリボンの結び目をもう一度確認した後、静かに振り向きカウンター越しに花束を煌希に向かって差し出した。
「……煌希、出来たぞ。これでいいか?」
煌希は立ち上がるとカウンターに向かい、両手で花束を丁寧に受け取った。
「はい、ありがとうございます」
そのままポケットに入ってた財布を取り出そうとすると、帝央が軽く手を振りながら言った。
「お代はいらねーよ」
「……え?」
煌希は、思わず顔を上げる。
「珍しいっすね。嘉神さんがタダでくれるなんて」
「バーカ。今回だけだ、今日だけの特別に決まってんだろ!」
帝央はいつもの調子でそう言いながらも、少し笑っていた。
煌希は帝央の方を真っ直ぐ見て、深く頭を下げ、御礼を言った。
「ありがとうございます」
「礼は墓前で言え。俺には要らん」
帝央はそう言いながら、棚に片づけた花の切れ端を整え始めた。
そして、思い出したかのように急に口を開く。
「……燦斗は元気か?」
その名前が出た瞬間、煌希の手がわずかに止まる。
抱えた花束のリボンに指を添えたまま、一瞬だけ目線を外した。
「……アイツは、相変わらずですよ。」
その声は平静を装っていたが、どこかぎこちなかった。
帝央は、棚に手をかけたまま一瞬だけ動きを止め、
振り返って煌希の方をちらりと見て言った。
「ンー?歯切れ悪ィな。なんかあったか?」
「別に……ちょっと口喧嘩しただけです」
煌希は振り向いた帝央と目が合ったので、慌てて視線を横に逸らした。
その態度を見て帝央は肩をすくめて笑いながら言った。
「なんだ、いつものやつじゃねぇか。あいつ口だけは達者だからな」
「前に俺ん所来た時、アニキって感情不器用バカだから、
一人で何でも抱え込んじゃうんですよね〜、
で、たまに暴走するし、オレに八つ当たりしてきて
手がつけれなくて困るんです〜とか言ってたぞ」
煌希は少し顔をしかめる。
「……あのクソガキ、そんなこと言ってたんすか」
「ハハハ。アイツあんなしてるけど意外と、お前の事よく見てるぞ。……まあ、言い方がいちいちムカつくけどな」
帝央は再び笑いながら、片手で花の切れ端をまとめつつ、視線を煌希に目を向ける。
「でもな、ああ見えて――アイツなりに、お前の事、心配してんだよ。」
煌希は少しだけ視線を落とし、手に持ってる花束を見つめた。
帝央は作業を止めて、煌希の方を向いて言った。
「……だからあんまり燦斗の事、責め過ぎなんよ」
「……はい、分かりました。」
煌希が小さく呟くように返すと、帝央はにやりと笑った。
「やっぱ馬鹿みてーに喧嘩してる方が“オマエら”っぽいか?」
その言葉に、煌希は少しだけ笑った。
帝央は片手をひらひらと振って言う。
「さっさと行ってこい。燈司さんが待ってるぞ」
煌希は花束をしっかりと抱え直し、帝央の方を見た。
「じゃあ……行ってきます」
「おう。――気をつけて行ってこい」
煌希は軽く頭を下げ、店の引き戸に手をかける。
チリリ……と鈴の音が静かに響いた。
帝央はその背中を見送りながら、小さくつぶやいた。
「……燈司さん、アイツらなら心配要らないですよ、二人でも上手くやっていける」
エプロンのポケットからタバコとライターを取り出す。
タバコを一本唇に挟むと、ライターに火をつけた。
カチッ……。火が灯る音と共に、煙がゆらりと立ちのぼる。
帝央は細く煙を吐きながら、天井のネオンをぼんやりと眺めながら言った。
「……ったく。俺もすっかり、ジジイみてぇな事言うようになったな」
店内には、花の香りとわずかに焦げた煙草の匂いが混ざって漂っている。
切り花の水音、冷蔵棚の機械音、風鈴の小さな音――
どれもが、静かで、穏やかだった。
帝央は吸い殻を灰皿に落とすと、ゆっくりと立ち上がり、無言でカウンター奥の棚にある花を整え始めた。
ゆるやかな時間が流れる、見慣れたいつもの街。
―だが、何故か胸騒ぎがしていた。
店を出た後、煌希は商店街のアーケードを抜け、交差点の横断歩道を渡っていた。
通りを走るバスのエンジン音、
すれ違う買い物袋を提げた老夫婦の会話、
カフェから漂うカレーの匂い。
街は先程と変わらず、いつも通りの様子だった。
しかしその背後――
人混みに紛れるように、一人の男が、静かに煌希の後をつけていた。
黒いパーカーに身を包んだ細身の男。
フードを深く被っており、表情は見えない。
足音を立てることなく、煌希との距離を保ちながら、静かに跡を追っていた。
その目は、ただ真っ直ぐ、煌希の背中を捉え続けていた。
空はまだ青さを残していたが、遠くの雲がうっすらと橙に染まり始め、冷えかけた風がどこからともなく吹き抜ける。
路地裏の道端には、猫が気だるげに寝そべっていた。
角を曲がり、煌希はゆっくりと歩き出す。
街も空も、何事もなかったかのように、静かに夜を迎えようとしていた―。




