【2話】邂逅
春の陽射しが柔らかく差し込む、舞ノ浜高校の入学式当日。
満開の桜の下、真新しい制服に袖を通した一人の少女が、静かに校門をくぐった。
(やっと来た……新しい学校、新しい環境……)
天國熾埜の胸は高鳴っていた。
制服のリボンをそっと整えながら、校舎を見上げる。
どこか古めかしくも落ち着いた建物。遠くには海の青がちらりと見えていた。
(ここで……全部リセットするんだ)
彼女は、由緒ある教会の家系に生まれた。
だが彼女にとって“神”よりも身近だったのは、風の声、木々の囁き、水面の揺らぎ──自然の精霊たちだった。
物心がついた時から、熾埜にはそれらの“声”が聞こえていた。
けれどその不思議な現象は他人には決して理解されなかった。
そんな彼女がこの学校を選んだ理由――
それは、自分の地元とは少し離れた場所にある高校だから。
中学まで一緒だった同級生と、また顔を合わせるのが嫌だった。
狭いコミュニティで囁かれる噂、陰口、気を使い合う関係……それを断ち切って、新しいスタートを切りたかった。
それなのに――
教室に入った瞬間、そんな期待はほんの少しずつ、溶けていった。
笑い声が飛び交う中、席についても話しかけてくる人はいない。
話の輪は、すでに中学からの友人グループでできあがっていた。
(あれ……? 思ってたのと違う……)
期待していた楽しい高校生活。
その始まりは、思いのほか静かで、少し冷たかった。
式が終わり、ホームルームを終えた帰り道。
手に持った入学式の資料がやけに重く感じる。
(でも……自分で選んだ道だもん。ちゃんと、馴染んでみせる……)
そう言い聞かせながらも、どこか心にぽっかりと穴が開いたような感覚が残った。
⸻翌日。
誰にも話しかけられないまま、一日が終わろうとしていた。
ホームルームが終わったそのとき、名前順で1つ前の女子が後ろを向き熾埜の方を見てこう言った。
「今日からの教室の掃除当番、天國さんお願い~。私ちょっと用事あるから!」
「えっ、あ……うん、わかった」
断れなかった。タイミングも、勇気もなかった。
そして何人か残ってたクラスメイトの誰も、熾埜の事を気遣う様子はなく、最後の一人まで「手伝うよ」と言うことも無く教室を後にしていった。
(“ちょっと用事”って、便利な言葉だよね。断れないこっちの気持ちなんて、考えてないくせに)
誰もいない教室。
雑巾を絞る音だけが静かに響く。
(……最初くらい、少しくらい気を使ってくれてもいいのに)
(――あ、やば。私、またそうやって期待してる)
(期待しないって決めたのに。また裏切られたら傷つくだけなのに)
小さく、ため息をついて、モップを手に取る。
(私はここに、自分の意思で来たんだ。なら……悪い方向に考えちゃダメだ。)
(ふぅ……終わった)
教室の机を最後のひとつまで丁寧に整え、
窓から外を見ると薄暗い夕陽が廊下を照らしていた。
(なんでいつも私だけハズレくじばっかって思っちゃう。……でも、誰にも言えないんだよね)
スマホを手に取り、通知も来ていない画面をただ見つめる。
誰か愚痴る相手もいない。
(――仕方ないよね。自分で選んだんだから、独りを)
重い足取りで教室を後にし、階段を降りていく途中、画面を見ながらスマホを操作していたそのとき――
「……あっ!」
つるり、と指が滑り、スマホが手を離れた。
カタカタカタ……!
階段を勢いよく転がり落ちるスマホ。
「あああっ……!」
急いで駆け下りたが、スマホは一階の階段の下の所まで落ちてしまった。
床に落ちそうになったその直前――
すっと、誰かの手が伸びてスマホを拾い上げた。
「……っと、なんか上から落ちてくると思ったらスマホじゃん。危ね、間に合ったわ」
拾った男子生徒の顔をよく見ると、そこには見覚えのある少年が立っていた。
逆光の中、ぼんやりと映るシルエット。
涼しげな目と、前から見ると短髪に見えるが、後ろ髪は長く、一つ束ねられた髪型が印象的な少年。
(……え?)
思わず言葉を失う。
(この顔……この声……)
あのときの――。
******
夕暮れ時、時環市・観栄町のバス停。
街灯がつき始め、帰宅ラッシュの人々がちらほら集まり始める中。
熾埜は買い物帰りの袋を腕に引っかけ、バスを待っていた。
(今日の晩ご飯は、ミネストローネにしよ。あ、でもトマト缶買い忘れたかも……)
(あ~あ、やっぱり私いつもなにか1つ忘れちゃうなー)
そんなことを考えながら、スマホをバッグから取り出した――その瞬間、
「……あっ!」
スマホが手から滑り落ちた。
アスファルトの上に跳ねるように落ちたスマホ。
「わっ、あっ、ちょ――!」
慌てて拾おうと前のめりになったそのとき。
すっと伸びた誰かの手が、地面に落ちた熾埜のスマホを拾い上げた。
顔を上げると、そこには変わった髪型の少年がいた。
目元に影を落とした横顔は、どこか物憂げで、端正な顔立ちだった。
「……これ、貴方のですか?」
「は、はい! すみません、ありがとうございます……!」
スマホを受け取った瞬間、少年がちらっと画面を見た。
そこには、ロック画面の待ち受けにしていた――
アイドルグループ『UmbrALuciS』のリーダーMAHIROの写真。
「あっ……!」
「……。」
(……うわああああああああ!!推しの写真、絶対見られた!恥ずかしい!)
耳まで真っ赤になって、熾埜はスマホを受け取ると、ギュッと胸に引き寄せ画面を隠した。
少年はちょっとだけ微笑んでいた。
「……フィルム、ちょっとヒビ入ってましたよ。貼り替えたがいいかも。」
そう言い残して、彼はスタスタとバス停を離れていった。
同い年くらいに見えたけれど、見知らぬ誰か。
でも――なぜか、記憶に残った。
(……今の人。すごく親切だったなー。こっちの方にはあんな爽やか美男子がいるのかぁ)
(……ていうか、よりによって、推しの写メ見られるなんて……)
雑踏に紛れ、少年の姿はもう見えない。
熾埜はスマホをぎゅっと握りしめ、顔を真っ赤にしながら、ちょうど来たバスに乗り込んだのだった。
******
―階段の上から突如降ってきたスマホを手にした男子生徒と目が合う。
(この人見覚えがある…。もしかしてあの時の?)
「これ君が落としたの?」
「あ、はいっ!私のスマホです……キャッチしてくれてありがとうございます」
スマホを熾埜に返そうと手を近づいてきた。その瞬間、男子生徒が急に顔を覗き込んできた。
「…んー、どっかで見覚えあんな。………あ!もしかして君さ、この前もスマホ落としてなかったか?」
「え?あーはい…もしかして私の事覚えてます?」
「やっぱりな。観栄のバス停でスマホ落とした人でしょ?」
翔真は軽く笑う。どこか飄々とした態度に、熾埜の胸がざわついた。
(やば、覚えられてた……)
「スマホ、落としグセでもあるの?」
「ち、違いますっ! これは、たまたまでっ!」
(なんで毎回こんなタイミングで見られるの……!)
翔真が手に持ってた熾埜のスマホの画面をチラッと見た瞬間、熾埜が慌てて取り返す。
「あっ、それ、見ないで!」
「その人、アンブラルーシス、だっけ?好きなんだ?」
「うぐ……!」
(やっぱ見られてた……。)
「別に何も思わねーよ。いいんじゃねーの?今推し活とか流行ってるっぽいし」
「……え?」
(引かれると思ったのに……)
翔真はポケットに手を突っ込んだまま、ふと胸元の名札を見る。
「天國……? へぇ、珍しい名字だな」
「えっ、あ、うん……私、天國熾埜って言います。」
「天國さんね、覚えとく。俺は龍禧翔真。よく苗字読めねーって言われる。」
「タツキ、君…たしかに読み方難しいかも。でもなんかカッコイイ苗字だね」
翔真がふっと笑いながら言った。
「天國って苗字も珍しいよね、初めて聞いたし!」
そう言うと熾埜は少し照れくさそうに笑った。
「あ、そういや俺は1年A組なんだけど、天國さんは何組なの?」
「龍禧くんはA組なんだね!私は情報技術科の1年E組です」
「へぇ、専門クラスか。そっちのクラスたしかちょっと離れてるんだよな」
「うん……専門クラスに入ったはいいんだけど、友達もまだできてなくて……」
翔真が少しだけ肩をすくめて、軽く笑った。
「友達ならもういるじゃん。俺ら、もう友達ってことでいいだろ」
「……えっ!?」
「スマホ二回も拾って、しかも同じ高校って――なんか友達になれっていわれてるよーなもんだと思わねーか?」
「……ふふ。たしかにそうかも。」
「だろ?まあクラス遠いけど暇な時遊び来いよ!
俺もそっち方たまに行ってみるわ」
「えっ?わざわざ情報技術科の教室まで?」
「うん。普通科と雰囲気違いそうだし、見たことない機材とかありそーじゃん?なんか気になるわ」
「そんな理由でこっちまで来てくれるの……?」
「好奇心、大事っしょ?」
そう言ってフッと笑う翔真の顔を見て熾埜は少し動揺を隠せなかった。
「……ありがと。」
「もうスマホ落とすなよ〜、俺は教室に忘れ物取って部活に戻んねーと。じゃあまたな!」
「うん。気をつける!ありがとう!またね、龍禧くん」
翔真は背を向け走りながら片手を軽く上げ去っていった。
別れた後、熾埜はスマホをそっと見つめた。
(……龍禧翔真くん。まだ話すの二回目だけどなんか……不思議と話しやすいな)
(高校生活も不安だったけど、ちょっとはマシかもしれない…)
そう思いながら熾埜の頬はほんのりと赤く染まっていた。
校舎の片隅に、そっと佇む人影があった。
その人物は静かに二人のやり取りを見つめていた。
長い髪を風に遊ばせながら、表情の読めない双眸は真っ直ぐに、ただ熾埜の背を見つめている。
(……見つけた)
彼女は何も言わなかったが、何処か嬉しそうにしながら、その場から立ち去った。
翔真と熾埜はその存在に気づく事は無かった。
――――
―その日の夜。人気のない、とある場所。
波音だけが、ただひたすら耳を打つ。
人工灯すら届かない防波堤の端。月は厚い雲に隠れ、世界は闇に沈んでいた。
男はその縁に立ち、足元の海をじっと見下ろしていた。
風が吹くたび、海水の匂いと冷気が肌を刺す。
髪は無造作で、その体は痩せ細り、貧相だった。
肩を震わせながら、彼は静かに呟いた。
「……もう、いいだろ」
両手は強く握り締められ、目の奥には光がない。
誰もいない場所。誰も気づかない時間帯。
―すべてを終わらせるには、都合がいい場所だった。
男は一歩、足を前に出す。
波が濡らしたコンクリートの縁に、靴の先がかかる。
風が吹いた。体がかすかに揺れる。
ほんのわずかに重心が前へ傾いた、その瞬間―
「……随分と、静かな最期を選ぶんだな」
突然、背後から誰かの声がした。
男は驚き、振り返る。
そこには、黒い傘を差した“何者か”が立っていた。
濡れた砂利の上、一切の音を立てず、月も照らさぬその男の輪郭は黒い影のように、ぼやけていた。
「……誰だよ、お前……」
男は、哀しみも怒りもない、今にも消えそうな声で問いかけた。
その人物は何も答えない。ただその場に佇みながら、ゆっくりと男の方へと歩み寄ってくる。
「……まだ希望がある。といえば、君は生きようとするかい?」
男は、微かに顔を上げた。
だがすぐに目を伏せ、笑うでも泣くでもない、虚ろな表情のままかすかに首を横に振る。
「……もう、何も残ってない。希望なんて……あるわけ、ないだろ」
黒い傘の人物が男の目前で立ち止まった。
顔は影に沈み、その表情は見えない。だが、視線は男の方に向けられていた。
「この世界は君を見捨てたかもしれない。だけど――私なら、そんな君にプレゼントを贈ることができる。」
「……どういう意味だよ」
「君の命の価値は、君が思うよりも価値があるという事だよ。」
その言葉に男がわずかに顔をしかめたその時、風が強く吹きつけた。
黒い傘が、音もなく揺れた。男は静かに右手を差し出す。
「さあ、受け取るかい?」
その言葉に、男の呼吸が浅くなる。
押し殺していた感情が、喉の奥からじわじわと滲み出るようだった。
彼は膝から崩れ落ちると、冷たく濡れたコンクリートの上に
両手をついた。
黒い傘をさした人物は、無言のまま、男の傍へと踏み出した。
潮風が再び吹き抜け、砂を巻き上げる。
その時、海の闇が一瞬だけ揺らめいた。
波音が静かに遠ざかる中、夜空に広がる雲の隙間から、月明かりがそっと差し込んだ。
―月光が、傘の下の男の顔をかすかに照らす。
白く冷たい肌。片方だけ色の違うオッドアイの瞳。
その眼差しは、男の全てを見透かすかのようだった。
月が再び雲に隠れ、暗くなると、辺りは闇に沈んでいった。