【18話】片隅
―白い。
世界が、ぼんやりと白んでいた。
果てしなく続く、白い空間の中を深く深く、沈んでいくような感覚。
何も聞こえず、何も感じられず、生きているのかどうかさえ曖昧だった。
(……俺は………死んだのか……?)
そう思った瞬間、突然「ピッ、ピッ、ピッ……」と規則的な音が耳に入ってきた。
音に引かれるように、意識が浮上していく。
――翔真はゆっくりと、瞼を開けた。
照明の明かりが滲んで見えた。
その後、はっきりと目に映ったのは、真っ白な天井だった。
消毒液の匂い。肌を覆う布団の質感。自分の右腕には包帯が巻かれ左腕には点滴が繋がれていた。
翔真が目を覚ました場所は病室の片隅、ベッドの上だった。
(なんで…………俺、病院に……)
ここ最近の記憶が断片的で、何があって病院に居るのか上手く思い出せない。
まるで、夢の続きを見ているかのような感覚だった。
しばらくボーッとしてると、病室のドアがそっと開いた。
開いたドアの向こう側に居たのは、小さな買い物袋を手にした祖母だった。
翔真に目を向けた瞬間、彼女の動きがピタッと止まる。
「……しょ、翔真……!!」
翔真は、まだぼんやりした視界のまま祖母と目を合わせた。
「……ばあちゃん」
小さく、震える声だった。
祖母は驚いた様子で、翔真の元に駆け寄ってきた。
「ああ、よかった……意識が戻ったんだね……」
ベッドにそっと身を寄せ、翔真の手を握る。
祖母に手を握られた後、翔真はゆっくりと口を開いた。
「……ごめん、ばあちゃん。俺、迷惑かけて…。」
翔真の声は少しかすれていた。
「なに言ってんの。翔真がこうやって意識を取り戻してくれた……それだけで、婆ちゃんは嬉しいよ」
翔真は少しだけ顔を下に背けながら言った。
「……でも俺、何があったか……ちゃんと覚えてないんだ」
喉の奥から、かすれた声が漏れる。
「なんか、俺ヤバいことしちゃったんじゃないかって……不安で……。」
祖母は黙って、翔真の手を優しく包み込んだ。
「いいの。今はそんなこと気にしなくていい。ゆっくり休まんね。」
その声には、深い安心感と、無理に励まそうとしない優しさが滲んでいた。
祖母にそう言われ、翔真の目尻に、涙が滲んだ。
小さな雫が頬を伝い、布団に落ちる。
祖母は翔真の頭にそっと手を添え、指先でゆっくりと髪を撫でた。
「よかった……本当に、よかった……」
そっと撫でながら、小さく、何度もそう呟いた。
祖母はそっと翔真の頭から手を離すと、
買い物袋の中から、取り出した緑茶のペットボトルを差し出した。
「喉、渇いてるでしょ? お茶買ってきたから飲まんね。」
翔真はお茶を受け取ると、ゆっくりと口元に運んだ。
ごくごくとお茶を飲むと、ひんやりとした感覚が舌先を撫で、乾いていた喉を潤しながら、ゆっくりと体内を下っていく。
「……ありがとう」
一口、二口、お茶を飲み終え、翔真がお礼を言うと、祖母はにこっと微笑んで頷いた。
突然、祖母は何かを思い出したかのようにハッとなった。
「お父さんに翔真が目覚ましたって連絡しないと……!」
そう言うとバッグからスマートフォンを取り出し、
少し震える指で祖母は祖父に電話をかけ始める。
翔真は少し落ち着き、お茶を飲みながらぼんやりとその様子を見ていた。
数コール後、電話の向こうから祖父の声が聞こえてきた。
『もしもし、どうした? 』
「お父さん!!翔真が…目を覚ましたのよ! 」
一瞬、電話の向こうが静まり返った。
『……ほんとか!!……良かった……』
「ええ、今、買い物し終わって病室に戻ったら起きてたの。煙草、吸い終わったらすぐ来て頂戴。」
『分かった。今から病室に戻る。』
祖父はそう短く言い残すと、電話は切れた。
祖母は、ほっとしたように、ふぅ。と息を吐くと、続けてスマホを操作した。
「咲凪にも連絡しておかないといけないね」
咲凪の名前を聞いた瞬間、
翔真は眉を動かし、僅かに目を見開いた。
「……咲凪は無事なの?」
少し不安げに祖母に問いかけた。
「ええ、咲凪は無事よ。私達が来るまでずっと翔真に付き添ってたし、色々あって疲れてるだろうに……。」
「今日は休んだら?って言ったけど、大丈夫。って言って、学校に行ったの。翔真のこと、ずっと気にしてたから早く伝えてあげなきゃね。」
そう言うと、祖母はトークルームから咲凪の名前をタップして、
「翔真が今、目覚めました。無事です」
――と、メッセージを打ち、咲凪に送信した。
メッセージを送り終えた祖母は、スマホをそっと膝の上に置くと、
翔真の方へ向き直って、微笑みながらゆっくりと口を開いた。
「望海さんが今アメリカから、こっちに向かって来てるのよ。」
「……母さんが?!」
翔真は思わず声を大きくして言った。
その声には、驚きと戸惑いが入り交じっていた。
「ええ。翔真が救急車で運ばれたって言ったら、すぐ連絡がきたの。職場に事情を話して、仕事しばらく休みにしてもらって、すぐに日本行きの飛行機を取ったって。今日の夜には着く予定よ」
「……母さん、忙しいのに迷惑かけちゃったな」
翔真は目を伏せ、シーツの上に置かれた自分の手をじっと見つめた。
祖母はその様子を見守りながら、続ける。
「旦晃……お父さんは大事な仕事があって、どうしても来られないんだって」
「でもね、すごく心配してた。高校入学したばかりでこんな目にあったのに、自分がそばに居てやれなくてすまないって」
翔真は一瞬、祖母の方を見たが、再び目を伏せた。
(忙しいのに……俺のこと、心配して気にかけてくれてたんだ……。)
会えないのは残念だが、尊敬する父に、弱った自分の姿を見せたくなかったし、何より心配をかけたくなかった。
結果的に……両親共に大事な仕事の最中なのに、迷惑をかけて、気を揉ませてしまったことが、どうしようもなく申し訳なかった。
翔真のそんな様子を見て、祖母はふと目を細めた。
言葉にはせずとも、彼の中にある葛藤や自責の念が、表情の端々に、滲み出ていた。
「落ち着いたら、電話してあげて。声だけでも聞いたら、きっと喜ぶから」
「うん、後で父さんに電話しとくよ」
そう返事すると、翔真はそっと布団の上で拳を握りしめた。
祖母はふっと息をつくと、そっと立ち上がり、
病室の窓のカーテンを少しだけ開けた。
柔らかな日差しが差し込み、翔真の顔をやさしく照らす。
翔真はゆっくりと窓の外に目をやった。
きらきらと光る海面。その上をゆっくりと進む船。
遠くには港のクレーンが静かに動き、丘の斜面に沿って並ぶ民家の屋根が、春の陽光にきらめいている。
視界いっぱいに広がる、いつもと変わらない景色。
まだ体は重いし、傷口がズキズキと痛む。でも、この見慣れた景色を見ていると、どこか安心できた。
(……何も変わってないな……)
翔真はそっとまぶたを閉じ、深く息を吐いた。
どこか遠くで聞こえるカモメの声と、病院の静かな空調音が混じり合い、現実に戻ってきたことを、そっと感じさせてくれた。
その穏やかな時間を破るように、ナースステーションの呼び出し音が、廊下から鳴り響くのが聴こえた――。
――――
―数日前。
黒埼 煌希は友人からの呼び出しを受け、急遽呼び出し場所である百目木海浜公園の駐車場までバイクで向かっていた。
エンジンの振動が、身体の下から突き上げてくる。
クラッチを握る左手に、うっすらとグリスの匂いが残っていた。
走行しながら、先程、黒いセダンに乗り襲撃してきた、見知らぬ集団の事を思い出す。
(一人は見たことある顔だったが……アイツら急に襲ってきやがって……誰の差金だ?)
次に煌希の脳裏に浮かんだのは、しばらく音沙汰が無かった中学からの同級生で、暴走族時代の友人である
立凮 彪人から届いたメッセージ。
「悪い。ちょっと来てくれ」
「……百目木海浜公園の駐車場で待ってる」
昨夜までは、
「三日の二十時過ぎにファミレスに集まって、久々四人で話そうぜ!飯代、俺が奢るからよ」
とLINKのグループトークで言っていた。
しかし一時間程前、急に彪人から百目木公園の駐車場に来てくれとメッセージが送られてきたのだ。
メッセージには、絵文字も、スタンプも何もない。
いつも無駄口の多いアイツが文章のみで簡潔に送ってきたってことは、何かがあったって事だ。
―立凮 彪人。
暴走族グループDWG(DreadWrathGang)の一員で、煌希が総長を務めていた代の部隊長であり、右腕の一人。
締まった体格に軽快な動き、口は悪いが仲間想いで信頼の厚い兄貴肌の男だった。
観栄町や仁賀谷など、時環市のヤンキー界隈では顔の広さで知られており、小学時代から煌希、達也、岳とよくつるんでいた。
煌希と同じく中卒で働き始め、今は建築関連の仕事に就いていた。
彪人とはしばらく疎遠だったが、完全に縁が切れたわけではない。
ただ、昔からアイツが急に呼び出してくる時は大抵、喧嘩や揉め事など問題が付き纏うことが多かった。
煌希はスロットルを緩め、S字になったカーブを滑らかに曲がるように身体を傾けた。
海風がヘルメットの隙間から入り込み、頬を撫でていく。
深く息を吐き、バイクのギアを上げた。
目前に見えてきたのは、見慣れた百目木海浜公園の看板と、駐車場の入り口。
だだっ広い駐車場の端に、一台のバイクが停めてあった。
――YAMAHA XJR1300、彪人のバイクだ。
煌希は彪人のバイクの隣に停めた。
ヘルメットを脱ぎ、耳に残るエンジン音の余韻を振り払うように軽く頭を振る。
目を細めながら一見、誰の気配も無さそうな
薄暗い駐車場を見渡していたその時。
―バババババ……バババ、バァァァン‼︎ ババァァンッ‼︎
静けさを引き裂くような爆音とともに、遠くから特徴的な“コール音”が響いてきた。
アクセルとクラッチを交互に煽って音を鳴らす、独特のリズム。
煌希は振り返り、音のする方に目を向ける。
街灯の向こう、ゆるやかな下り坂を二台のバイクが走ってくる。
一台は黒のYAMAHA XJR40。もう一台は青く光るライトが眩しいKAWASAKI GPZ。
アクセルを軽快に煽りながら、二台のバイクが一直線に駐車場へ滑り込んできた。
「アイツら……」
煌希はヘルメットを腕に抱えたまま、小さく口角を上げた。
二台のバイクは煌希の隣に並ぶように停まった。
エンジンの音が止むと、辺りは再び夜の静けさに包まれた。
先にヘルメットを外したのは、青いライトのGPZに乗っていた男――
根岸 達也。
同じく元DWGメンバーであり、当時は部隊長。
短く整えた髪にメガネをかけている。昔から口は悪く、すぐに喧嘩をふっかける様な奴で、抗争の火種になる事も多かった。
煌希たちと比べると小柄だが、集団戦が得意で、煌希の良き喧嘩仲間だった。今は板金塗装工として働いている。
「……ったく、急に呼び出しとか、アイツらしいっちゃらしいけどよ」
そうぼやきながら、ヘルメットを脱ぐと、肩を軽く回してバイクを降りる。
もう一人、黒のXJRからゆっくりと降り立ったのは――
箕島 岳。
元DWGの切り込み役であり、副総長だった男。
言葉数は少ないが、その存在感と腕っぷしは今でも折り紙付き。
頑丈そうな体躯に、鋭い眼差し。ぶっきらぼうだが、仲間への信頼は深い。今は造船所に勤務している。
「……よぅ煌希。早かったじゃねーか」
煌希はヘルメットをバイクに置きながら、彼らに向かって言った。
「あぁ、今さっき着いた。」
達也が小さく鼻を鳴らす。
「お前ら昔と変わんねーな。……てか彪人の奴いなさそーじゃん」
達也に続き岳も話し始める。
「……彪人のバイクはある。ってことは、まだ此処にいるはずだが――姿が見えねぇな」
三人の間に、僅かに緊張が走った。
「俺が行くから待ってろ。
って送ったメッセージのとこに既読ついてるっつーことは
アイツ俺達が来る事は、さすがに知ってるよな……。」
「あぁ。知ってんだろ。」
「呼び出し食らってから一時間ちょっとは経ったか?」
「……だな。今、何処にいんのか個チャで連絡してみたけどよ……」
「俺らアイツに嵌められた訳じゃねーよな?」
「……アイツの呼び出しは大抵ロクなことねーからな」
煌希は鋭い目つきで駐車場の奥を見やる。達也は手元にあるスマホをじっと見ていた。
「…………」
岳が彪人を探しに、海岸沿いの方へと歩き出した。
しばらくして、背の高い植え込みの向こう――
街灯の明かりがほとんど届かない暗がりの片隅に、誰か倒れているのが見えた。
岳は低い声で二人向かって叫んだ。
「おい……向こうの方……誰か、倒れてるぞ!!」
その声に、煌希と達也が駆け寄る。
視界の奥、地面に倒れていたのは――
変わり果てた姿の……立凮 彪人だった。
アスファルトの上、彪人は仰向けで倒れていた。
胸元のシャツは破れ、血が滲み、胸から首元にかけて深い裂傷が走っている。
手元には画面の消えたスマホが落ちている。
煌希は息を呑んでその場に立ち尽くしていた。
瞬時に忘れたはずの光景が、彼の脳裏に広がる。
目の前の現実と、記憶の残像が重なり合い、徐々に視界が滲んでいった。
***
──あの時も、同じだった。
真っ赤に染まった家。焦げる匂い、黒煙、崩れ落ちる屋根。バチバチと燃え盛る炎の音だけがやけに脳裏に焼け付いていた。
窓は砕け、炎が内部を暴れ回るように這いずりまわっている。
気づけば、目も開けていられない程の熱風が全身を包み込み、皮膚を焼くように突き刺さった。
それでも、目が離せなかった。
視線の先――崩れかけた塀の影に、ひとり蹲る小さな背中があった。
煤にまみれた頬を涙で濡らしながら、燦斗が泣いていた。
声にならない嗚咽を震わせ、肩を小さく上下させながら、炎の中でただ俯いていた。
「……煌希!!」
低く、掠れた聞き馴染みのある声が耳に届いた。
声のする方を見ると、炎の向こう、朽ちかけた柱に縛り付けられた女の人が居た。
火の粉に晒されながらも、その瞳は力強く煌希の方を見ていた。
「燦斗を……連れて、……逃げなさい」
それが、最初の「死」だった。
―二度目は冷たい雨の降る夜だった。
濡れたアスファルト。救急車の赤いランプがやけに眩しく見えた。
カーブの先には、フロントがぐしゃりと潰れ、横倒しになったバイクが転がっていた。
傘もささず、ただ立ち尽くしていた。
濡れた服が重く、息をするたびに胸が締め付けられた。
担架が揺れ、ずぶ濡れの体がその上に横たえられている。
白いシートの隙間から、見慣れた腕がのぞいていた。
煌希は思わず駆け寄り叫んだ。
「…………なんです!…一緒に、連れて行ってください!!」
気づけばそう口にしていた。
隊員がこちらを見て、頷くと救急車の中に煌希を案内した。
狭い車内に入り、担架のそばに座ると、機械の音と微かな振動が耳を打った。
揺れる車内。赤い光が窓を染めるたび、濡れた髪の先から雫がぽたりと落ちた。
その手にそっと触れる。
反応はなかった。それでも、見慣れた掌は、確かにそこにあった。
***
(……これで、三度目…………。)
またしても身近な存在だった人が死んでしまった……。
だが、何故か泣けなかった。声も出なかった。
――決して見慣れたわけじゃない。
人が亡くなる事に慣れるなんて、そんなの間違っている。
でも、どこか心の中で「またか」と思ってしまった自分がいた。
煌希は、自分でも気づかぬうちに、拳を握り締めていた。
達也が目を見開き、彪人の肩に手をかけて揺さぶる。
「おい!!……彪人、大丈夫かよ!!……おい!返事しろ!!」
だが、反応はない。
岳が膝をつき、喉元に手を当てて脈を探る。
「……ダメだ。もう…………。」
岳が言い切る前に、達也が拳をアスファルトに叩きつけ叫んだ。
「クソっ……!!誰だよ……!!……誰が……っ!! 彪人を殺したんだよ!!」
その叫びには、怒りと、悔しさと、どうしようもない悲しみが混ざっていた。
拳から血が滲んでも、達也は気づかない。
歯を食いしばり、肩を震わせたまま、ただ地面を睨みつけていた。
その隣で岳は無言のまま、ただ彪人の顔を見つめていた。
彼の目元に手を置き、開いていた瞼をそっと閉じた。
少しして、岳は感情を押し殺した声で、言った。
「……達也、110番頼む。状況、俺が話すより、お前の方が向いてる」
達也は拳を握りしめたまま、俯いていたが、岳の言葉に頷くとスマホを取り出した。
「……わーったよ。」
岳は次に煌希の方を向いて言った。
「煌希、お前は救急車を呼んでくれ。……まだ“助かる可能性”があるかもしれねぇ」
その言葉に、煌希は驚いたように岳の顔を見たが、すぐに、頷いてスマホを取り出す。
「……ああ。分かった」
震える指先で番号を押す煌希の手元に、岳の声がかぶさる。
「状況の説明は任せる。……冷静にな。殺られ方が“普通じゃねぇ”ってのも伝えとけ」
岳の言葉に、煌希と達也はそれぞれ深く頷いた。
静まり返った駐車場に、二人の通話音が重なって響き始めた。
救急車と警察を呼んだ後、三人は静かに黙ったまま
その場に倒れている彪人を囲み、ただ立ち尽くしていた。
煌希は深く息を吐きながら、俯いたままの彪人の顔を見下ろした。
その瞼はもう閉じられていたが、まるで何かを“見てしまった”かのような、言葉にできない恐怖が焼きついたかのような眼差しだった。
(……彪人、お前は…誰に殺られちまったんだ……)
夜風がやけに冷たく感じた。
海から吹き上げてくる風が、潮の匂いを運んでくる。
街灯の下で揺れるヤシの木の影が、アスファルトの上、静かに揺れていた。




