【16話】烙日
薄曇りの空。月は雲に隠れ、空は暗く沈んでいる。
街の喧騒から離れたその場所に、足音だけが響いていた。
咲凪の問いかけと、追いかける足音が辺りに響く中、翔真はそれに反応したかのように突然足を止めた。
だが、翔真は咲凪の方を振り返らなかった。
ただ、ピタリと足を止め、その場に立ち尽くしている。
「はぁ……やっぱり、聞こえてないか。全く……どーしちゃったの。」
咲凪はため息混じりに小さく呟き、翔真の少し後ろまで駆け寄ると、そこで足を止めた。
手を伸ばせば、すぐに触れられる距離。
咲凪はそっと翔真の肩に手を伸ばそうとした。
すると……何かを察知したかのように、翔真は首を僅かに傾け、耳は不自然な角度で“外側”へと反り返った。
(……なんか……また様子が変?)
咲凪が不審に思っていたその時――
ギチ、ギチ……バキバキバキ……
彼女の背後から異音がした。
骨がねじれて、折れるようなそんな音だった。
咲凪がその音に驚き、振り返って視線を向けると、
暗がりの中で、倒れていたはずの通り魔の男がゆっくりと身を起こしていた。
「う、そ……アイツまだ、動けるの……!?」
――しかし、彼もまた様子が変だった。
よく見ると、腕は逆方向に折れ曲がり、片足はぶらりと引きずったまま。
壊れた身体を無理やり動かしているようだった。
だが、痛みなど意にも介さぬ様子で、彼は地面を這いずるように此方へと向かって来ようとしていた。
男はのらりくらりと横に揺れながらも確実に咲凪の方へと歩を進めてきていた。
足を引きずるたびに、ぐしゃり、ぐしゃりと水を踏んだような不快な音が響く。
以前の男よりも、動きは鈍い。
何か“別のもの”に突き動かされているかのように、不自然な動きで、何より不気味だった。
咲凪は思わず一歩後退る。それでも男は止まらない。
壊れた身体を引きずりながら、咲凪の目の前までにじり寄ってくる。
「俺……は、……生まれ……変わった」
しわがれた声が、喉の奥から漏れた。
その声は、さっきまでの男の声では無かった。
まるで複数の声が重なっているかのように、耳にまとわりつく。
咲凪は思わず息を呑んだ。
男の口元は反復するように左右に動いている。目は虚で、焦点は合っていない。
咲凪の目の前まで迫ると、焦点の合ってなかった目が彼女の方に視線を向ける。
「これが……これが本当の俺なんだ……やっと……やっと気づいた……」
くぐもった声でそう言うと、男は再び身体を引き摺りながら、咲凪の方に手を伸ばした。
「こ、こっち来ないで…!!」
男に向かって叫ぶ咲凪の声は震えていた。
心臓が暴れ回るように脈打ち、手が小刻みに震える。
咲凪に男が手を伸ばし触ろうとした瞬間、男の全身の皮膚が膨れ上がった。
盛り上がった皮膚が今にも破けそうに引きつり、服の背面が裂けていく。
内側からせり上がってくる何かが、徐々に形を成し、皮膚の下で蠢いていた。
「な……っ、ちょ、ちょっと……!?」
咲凪は驚きのあまりに思わず後退ったが、脚がもつれてしまい、後ろにいた翔真の背中にぶつかりそうになった。
「きゃぁぁッ――!!」
反射的に声を上げたその時――突然、翔真が動いた。
翔真は、咲凪の存在など眼中にないかのように、サッと横に交わした。
咲凪は後ろに倒れそうになる直前で、何とか体制を立て直した。
その直後、咲凪を見て翔真はこう言った。
「……邪魔だ。退け」
翔真のものとは思えない、低く、無機質で冷たい声。
(…………え?)
聞こえた言葉の意味は分かるのに、心がそれを拒絶していた。
咲凪は何も言えず、ポカンと口を開け、ただ呆然と翔真を見つめていると
彼は咲凪の前に一歩前に出て、前を見据える。
その動きには、迷いも戸惑いも一切無かった。
そして翔真の視線の先――そこには異形と化した通り魔の男が居た。
口は大きく裂け、眼球は半分溶け落ちたように垂れている。
皮膚は膨張と収縮を繰り返し、背中からは骨のようなものが突き出ていた。
男は翔真の方を見て笑っていた。
喉の奥から鳴り響くかのような濁った低音。
「……その目……あの“女”に……似てるな……」
掠れた声で、そう呟いた。
「何も言わずに、じっと……俺を見てた……あの時の、あの目と同じだ……」
背から伸びた骨のような突起が、かすかに揺れる。
その動きに呼応するように、皮膚の下で何かが這い回った。
ひび割れた唇の隙間から、黒い液体が滴る。
「やっぱり……お前もそうなんだろ? 俺を、壊したいんだろ……?」
だが――翔真は、依然として何も話さない。
蠢く様に動いていた男が、突然止まった。
何かに気づいたかのように、鼻をひくひくと震わせると、表情がぐにゃりと歪んだ。
「……アア……アアア……!!」
喉の奥から、笑うような、啼くような、奇妙な音が漏れ出す。
垂れた眼球をギョロつかせ、裂けた口をさらに開き、話し始める。
「心の底じゃ、俺みたいな奴を出来損ないだと思ってやがる……!!」
男はずるりと地を這いながら、翔真へとじわじわ距離を詰めていく。
その動きは、まるで獲物に近づく捕食者のようだった。
「……俺にはもう、選択肢なんて残ってねぇんだよ」
男の背から生えた突起が、螺旋を描きながら変形し始めた。
「……俺の何が悪かったのか……教えてくれよォォォおおおお!!」
男が狂ったように叫ぶと、背から伸びた螺旋状の突起がしなり、勢いよく翔真へと突き出される。
しかし、翔真はその場から一歩も動かず、そっと目を閉じていた。まるで眠っているかのようで、静かに呼吸をしているだけだった。
背から伸びた螺旋状の突起が、口のように開き、黒い瘴気の様なものが漏れ出た。
その瘴気は周囲の空気を汚染し、アスファルトを溶かしていく。
敵を前にしての無防備とも思える仕草に、咲凪が思わず声を出して叫んだ。
「翔真っ――!!」
男が拡がる瘴気と共に翔真を呑み込もうとしたその瞬間――
突如、足元から吹き上がるような風が翔真を包み込んだ。
腐れた瘴気を押し返すように、逆巻く風が渦を巻き、
翔真を包み込んだ。
その渦の中心。
地を叩き割るように、眩い閃光が炸裂した。
閃光の痕に刻まれたのは、鋭く輝く六角形の陣。
陣の中心から奔る六つの“脈動”が雷鳴のような轟音と共に、濁流の様な勢いで広がっていった。
同時に右手の甲には光る紋様が脈動するように浮かび上がっていた。
翔真の目が、ゆっくりと開いた。
――その瞳には、六色の光が混ざったような煌めきが宿っていた。
「な、ん……だ……?」
突起は翔真の目前で止まっていた。
まるで、目に見えぬ何かに押し戻されたかのように。
男が震える。
その狂喜に満ちていた顔に、初めて“怯え”が浮かぶ。
「…クソ、なんなんだよ……ッ!?」
男は、必死に翔真を飲み込もうとするが何度も攻撃を弾かれ彼に触れることが出来ない。
「……当たってるはずだろ!なんで……届かねぇんだよ……ッ!この……クソガキがァァァァ!!」
男はそう言うと、狂ったように身体をしならせ、腕が伸ばした。
関節の無いその腕は、蛇のように翔真に絡みつこうと迫る。
だが、光の陣に触れた瞬間、焼け焦げ溶けた。
「ア゛ァ゛ァ゛ア゛アアアアアアアアアアアアッッ……!!」
苦痛に悶えながらも、地を這うように、ぐにゃりと崩れかと思えば、再び形成され男が迫る。
脊椎が反転したようなその背は、骨の音を立てて蠢き、再び翔真に襲いかかった。
翔真は、掌を男の方に向ける。
「……触れるな。」
次の瞬間、右手の甲の紋様が爆ぜるように輝き、掌から燃え盛る焔が噴き出した。
放たれた焔が、男の身体を焼いた。しかし……
男の身体は、焼け落ちたはずの部分を黒い繊維のような瘴気で再構築し、崩れた頭部から、再びぎょろりとした眼球が覗いた。
「テメェなんかに止められてたまるかよ…!!まだ、こんな所で終われねぇんだ俺はッ……!!」
触手のように増殖した突起が、一斉に翔真へと迫る。
その動きは、まるで狂った人形のように滑らかで不気味だった。
「……遅い。」
そう呟くと、翔真の足元に雷が走る。
瞬間、彼の身体が一閃の稲妻となって消えた。
次に見えた時、翔真は男の背後に立っていた。
両手を空に向かって振り上げ、地面に落とすかの様に勢いよく下に向けると、空が裂けるようにして雷が、男に向かって落ちた。
「ぐあァアアアアアアァッ!!」
男の身を雷撃が穿ち、その動きが一瞬止まる。
しかし、まだ男は倒れない。
再びぐにゃりと骨を捻じ曲げ、今度は口から瘴気を霧のように吐き出しながら跳びかかった。
蠢く触手、逆関節の脚、無数に割れた口腔が獣のように開く。
「ハハハ…!!スゲェ。この力……!!その程度じゃ、今の俺には効かねーよ…!!」
翔真は、わずかに息を吐いた。
「さっさと失せろ、目障りだ。」
次の瞬間、翔真の足元から水が湧き上がる。
濁流が渦を巻いて空中へと舞い上がり、男の身体を捉える。
しなやかに絡みついた水がまるで意志を持つかのように男を締め上げた。
その最中にも男は激しくもがいていた。濁流はそのまま畝りながら体勢を崩させた。
「クソがぁ……ッ! オレを“否定”すんなああアアアアアァァ――!!」
男の身体が地に落ちる寸前、脚部が伸びるように変形し、反動で跳ね上がった。
体勢を崩しながらも、今度は腹部から伸びた棘を槍のように突き出して翔真へ飛び込む。
男が体勢を崩した時には翔真は空中を舞っていた。
両手を広げると手元から白い霧が広がった。
気温が急激に落ち、男の動きが凍りつくように鈍る。
男の身体のが徐々に結晶化し、そのまま氷の塊のようになると、その身が氷と共に砕けた。
「……グアアアアアアアアアアッッッ!!!」
苦悶の咆哮を上げながらも、男はなおも動きを止めなかった。
関節の位置が入れ替わるような動きで、再び翔真に向かって突進してきた。
「……テメェのそのツラ見てると、ぜんぶズタズタにしたくなんだよ!!」
だが翔真は一切表情を変えず、
風に髪を靡かせながら、軽く足先で地を払った。
「ほら、楽にしてやるよ」
突風が巻き起こる。
巻き起こった風の刃は数秒遅れてから無数の斬撃のように飛んでいくと異形の男を切り裂いた。
「ぐがっ……がぁぁああああああッ!!」
男の口から黒い瘴気が漏れ出す。
膝をつきながらも、最後の力を振り絞り、切り裂かれた身体を再生しながら翔真へ向かうが――
翔真は男を見上げるようにして、地に手を触れた。
地面が裂け、複数の石柱が出現、男の動きを封じるように一斉に伸び、石の腕のようなものが異形の男の身体を地下深くに引きずり込む。
地の底に引きずり込まれながらも、男は叫んでいた。
「誰も……何もくれなかったくせに……俺だけが……ッ、なんで……奪われなきゃいけねぇんだよ!!」
男は、焦点のない“眼”を彷徨わせる。
その視線は、翔真の姿を正確に捉えてはいなかった。
――――
――幼い頃。台所の床に転がった包丁の鈍い光。
「金が無い。足りない……お前さえいなけりゃ!!」
母の顔が歪み、刃が振り下ろされる寸前のあの瞬間。
誰も助けてくれなかった。必死に母親から逃げ出した。
――児童養護施設を出された日。
「もう大丈夫でしょ。これからは自由に生きてね」
そう言われて、ひとり暮らしが始まった。
炊飯器もない、冷蔵庫の音がやけにうるさい部屋。
食パンをちぎって、水で流し込む朝。誰にも頼らず一人で生きる日々。こんな生活が一生続くのかと絶望していた時。
――多額の金が欲しくてホストとして働き始めた夜。
地べたから這い上がり、稼いだ金で顔を整え、客を増やし金を積ませ、誰よりも上に立った。
年収一千万。俺を見下していた奴らに、笑って見せた。
「好きって言ってくれたのに、どうして……」
太客だった女が豹変し、執拗に付き纏い始めた。
結婚の話を持ちかけられ、拒んだ途端、SNSで拡散され始めた嘘の悪評。
ナンバーワンホストだっただけに、その女の投稿したクチコミは、すぐさま話題になった。炎上する度、指名の数は減っていった。
――ストレスで胃を壊し、声も出なくなった夜。
病院代がかさみ、カードも止まり、電気も消えた。
生きてく意思も、笑う力すらもな無かった。
「誰でもいいから……俺を飼ってくれ……」
知らない女の部屋を渡り歩き、媚を売り、プライドを捨てた。
それでも、誰も俺に手を差し伸べてはくれなかった。
気がつけば男は、何かを感じ取り、空に手を伸ばそうとするような仕草をしていた。
「……俺…は………生まれなきゃ…良かった……のか?……母さん…………。」
その声を最後に、男の身体は石柱に封じられ、
瘴気ごと地の底に飲み込まれていった。
――――
―地面に落ちた愚者のタロットカード。描かれた絵柄は逆さになっていた。
地下へと引きずり込まれて行く男の姿が見えなくなると、黒い傘をさした男は肩をすくめて言った。
「……残念。君は“|逆位置の愚者。僕の“手札”にはなれなかったようだね」
そう言うと、男は傘の内側に仕込まれた小型端末に手を添え、誰かに通信を入れる。
「僕だよ。今回は失敗。……でも、収穫はあった。後は処理人に頼んでくれ」
通信を終えると、地上にいる二人の学生――翔真と咲凪の方を見た。
「まあでも、いいモノを見せてもらったよ」
月光が再び雲間に顔を出し、男の瞳がわずかに煌めいた。
「――それだけで、今夜は価値がある」
黒い傘をさした男はコートの裾をひるがえし、背を向けて鉄骨の隙間を歩き出す。
その場に残された、ただ一枚タロットカード。
誰の手にも拾われることなく、地に伏したまま風に煽られ、くるりと宙を舞う。
月光を反射しながらゆらりと浮かびあがり、空へと放たれる。
やがて、夜空の彼方へと消えていった。




