【14話】天啓
「やめて!お願い、もうこれ以上傷つけないで!」
そう叫びながらも、咲凪の手は震えていた。
彼女は翔真を救いたい一心で、通り魔に立ち向かおうとしていた。
しかし男は、咲凪の言葉に耳を貸さず、再び包丁の刃先を咲凪へ向けた。
男が包丁を咲凪に向かって振りかざそうとした瞬間――
突如として、周囲の空気が一変し、轟音とともに強烈な風が吹き抜けた。
桜の花びらが、ふわりと宙を舞い、街灯の明かりが明滅する。
通りの電線が唸りを上げて揺れ、
パリンッ!と、何処かの窓ガラスが音を立てて砕け散った。
吹き荒ぶ風は咲凪達を中心に包み込むかのように、
激しく渦を巻き始めた。
「な、何……!?」
咲凪が驚き、目を見開いてその光景を見上げると、同時に通り魔の男も何が起こっているのか理解できず、包丁を振り翳すのを止めた。風はますます激しく、勢いを増し、吹き荒れていた。
咲凪はその場に立っていられず、強風に煽られて後ずさりしながらも、咄嗟に近くにあった建物の所まで走り、壁に背をつけてしがみついた。
男も風に煽られ体勢を崩し、その場に転倒した。
必死に地面にしがみつきながら頭を上げると、目を細め、不快そうに顔をしかめた。
その時――空が“呻いた”。
地上に地鳴りのような重たい音が響くと、頭上の雲がひとつ、ふたつと崩れ、天の中心を軸に渦を巻きはじめた。
渦の中心から空が、まるで生き物の皮膚のように脈動し、裂け目を広げていく。
直後――裂けた空に、巨大な“碧翠色の眼”が現れた。
その瞳はただ静かに、上空から下界を見下ろしている。
目の縁には焔の様な光輪が揺らめき、そこから無数の碧翠色をした光が彗星の様に地上に降り注いだ。
――――
─放課後、熾埜は美緒とクレープを食べ、少し遊んでから別れた後、バスに乗って自宅へと帰っていた。
バスの車窓から、夜の街が流れていく。
ひとり掛けの席に座る熾埜は、スマホを片手に推しのMAHIROのクラスタをぼんやりと眺めていた。
ふと、何か眩しく光った気がして顔を上げる。
窓から外を見ると、
……空が、変だった。
高台の向こう――遥か上空
空は嵐のように暗雲が立ち込め、渦巻いていた。
その渦の中心にある“割れ目”の向こうから覗く、巨大な碧翠色の光。
よく見ると眼の様にも見える。
「……なに、あれ……」
反射的に窓に手を添えた。
言葉にならないざわめきが、胸を満たしていく。
(一体、何が起きてるの……?)
夜の街灯が遠ざかる中、バスは静かに坂を下っていった。
――――
─時環駅前付近。
燦斗は駅前にあるスタジオを出て、帰宅途中、
モデル仲間の赤坂 凛々愛と共に高架沿いを歩いていた。
燦斗は肩にジャケットをかけ、キャンディを口に入れ舐めながら歩いていた。
隣に居る凛々愛はスマホで撮ったオフショットを眺めながら笑っている。
「マジ燦斗ってさ、何でも似合うよねー
今日の服とか結構難しそうなやつだったじゃん」
「モデルやってんだから、服着こなせんのはあたり前だろ。」
そう言うと燦斗は凛々愛のスマホ画面をちらっと見た。
画面には燦斗の変顔写メが表示されていた。
「……って、オイ!そのオレの事故写メはよ消せ。delete!delete!」
「えーやだ。こんな良い写メそうそう無いもん、永久保存版ー!」
二人がふざけ合いながら話していたその時――。
風の流れが変わった。
ぴたりと音が止み、空気が張り詰める。
次の瞬間、異様な程に空が明るくなった。
燦斗がふと顔を上げ、見上げると
上空に、円状に“裂けた空”と、焔のように燃える巨大な碧翠色の光が浮かんでいた。
「……。」
言葉が、出なかった。
凛々愛も異変に気づき、手元のスマホから目線を外し空を見上げた。
「なになに、アレ……どうなってんの?」
空から降る、無数の碧の光と中心の光る何か。
眩く煌めく光をよく見ると、眼のようにも見えた。
その異様な光景は
――この世界が、異物に“覗かれている”ようだった。
燦斗は、その眼から目を逸らさずに呟いた。
「……気持ち悪ィな。なんか……視られてる気がする」
――――
─観栄町にて。
バイクの整備を終えた煌希と後輩の久賀 流惺が店の外に居た。
煌希はタオルで手を拭きながら、静かにシャッターを下ろしていた。
すぐ横には、工具箱を片付けていた後輩の流惺。
「片付け終わりました。黒埼先輩、あとは――」
「流惺、先に上がってろ。あとは鍵だけ閉めとく」
「ハイ!先輩、お疲れっした!また明日お願いします!」
「おう、お疲れ。」
流惺は煌希に向かって元気に挨拶し、近くに置いている自分のバイクの元に駆け寄っていった。
去っていく流惺を横目に、煌希は腰のポケットからタバコの箱を取り出す。
バイクのオイルの匂いが指先に残っていた。
タバコに火をつけようとしたその瞬間――
夜空が突然、眩い光に包まれた。
二人は空の変化に気づき、上空を見上げた。
見上げた先、夜空が“裂けて”いた。
その亀裂の奥。
燃え盛るように耀く巨大な碧翠色の光が目に差し込んできた。
余りの眩しさに直視できず、少し目線を下に向ける。
「……おいおい……何が起きてる?」
そのまま火をつけずに、タバコを口から外し
上空を睨む。
流惺はバイクの荷台から取り出したヘルメットを被るのを止め、手に持ったまま煌希の元へ戻ってきた。
「ちょっと…先輩!!…なんか、空ヤバくないっすか!?アレ……。」
「ああ、いい気はしねーな……。」
(ここんとこずっと――ロクでもねぇことばかり起きやがる。)
そう思っていた直後、上空から無数の碧翠の光が、街へと降り注いだ。
――――
─時環市・九馳の裏通りにある、小さな雑貨とアパレルの店「Lián Rouge」。
店内には、ほのかにエッセンシャルオイルの香りが漂い、木製の棚には海外から仕入れた手作りの雑貨やレトロな服が並んでいた。
「宰くん、今日は先に上がっていいわよ。こっちは閉めとくから」
そう言い奥から顔を出したのは店主の奥さん。
隣では、無骨な雰囲気のご主人がレジの所で座りながら伝票をまとめていた。
「了解です、ありがとうございます!最後、あの棚のとこのマネキンだけ直してから帰りますんで!」
「気が利くねぇ。ほんと助かるばい、ありがとう。」
宰は手際よくウィンドウ越しのマネキンを整えた。
ふと、ガラス越しに外を見た瞬間――彼の動きが止まる。
「…………へ?……」
思わず変な声が出た。
まるで幻想世界のように、夜空が碧翠色の光に包まれ、遥か上空に円状の奇妙な眼のようなものが浮いている。
「うわ、なんやアレ……!!プロジェクションマッピング? いや、にしてはデカすぎるよな……?」
宰が一人で騒いでると、奥さんが声をかけてきた。
「宰くん? 急に1人で騒いで。どげんしたとね」
「ちょっと、頼子さん見てくださいよ!ほら外!
なんか凄いことなっとって……あ!これは写真撮らんと!」
宰は外に向かって指差しながらそう告げると、
店の奥に走ってロッカーに置いてたカバンの中から一眼レフカメラを取り出した。
一体何事かと店主の老夫婦が見にきたときには、宰はもうドアを開けて、外に出てカメラを構えていた。
宰は一眼レフを持ち上げ、静かに光の方へレンズを向けた。
カシャ。
「……綺麗かねー、ほんと。まるでファンタジー映画の世界みたいやん」
宰は何枚か撮影した後、撮ったばかりの写真を確認しようとカメラを操作した。
一枚目、二枚目――
少し引き目で撮影した淡く輝く空と、天空から疎らに降ってくる光の筋が写っている。
幻想的で、美しい写真だった。
だが――三枚目の写真で、宰の指が止まった。
それは、光の中心部をズームして撮影した写真だった。
裂けた夜空の中心、碧翠色した煌めく――“巨大な眼”。
「これは………眼?」
画面の中に写った碧翠色の「眼」と、宰の視線がぴたりと重なった。
その瞬間、ゾクリと背筋が凍った。
その眼はこちらを覗き込んでいる様にも見えた。
「なんか……見られとる気がする」
ぼそりと呟きながら、宰はカメラの画面から視線を外し、空を見上げる。
そこには、さっきと変わらぬ異常な光景――
幻想的で綺麗だが、何処か不穏な空気が漂っているのを、なんとなく宰は感じ取っていた。
――――
─時環市・港坂の高台付近。
夜の坂道を白のロールスロイス・ゴーストがゆっくり登っていた。
その車の中には、神来社学園の制服を着た高校生――鴛ノ屋 律騎と、運転席には、品のある執事が座っていた。
白手袋をはめた手で丁寧にハンドルを操作しながら、落ち着いた口調で律騎に言葉をかける。
「坊ちゃん、本日もお疲れ様でございました。塾はいかがでしたか?」
「ありがとう、順調だよ。進度も予定通り。」
律騎は短く答えると、窓の外へと目を向けた。
坂を登り終えると、眼下に広がるのは、一面に広がる夜景。
屋根の連なりと急傾斜の坂道にそって滲む建物の光がまるで星座のように浮かんでいた。
その合間を縫うようにして灯る街灯やネオン、港に面した埠頭の灯りが、海面にきらきらと反射している。
「……やっぱり、この街の夜景は特別だな」
律騎がそう小さく呟くと、運転手の執事は少し微笑んだ。
――その時。
雷が激しく光ったかのように夜空が眩く閃いた。
まるで空全体が白く塗り潰されたかのような閃光に、
律騎は思わず身を引き、目を細めた。
「っ……」
瞬間的な光に、瞳が焼かれるような感覚と光の残像が視界に残る。
「………………何が起きた?」
運転しながら、執事が答える。
「ええ、夜空が激しく光りましたね。雷、にしては雷鳴が聞こえてきませんが。」
律騎は、思わず前の座席に手をかけて身を乗り出すように窓の外を見た。
すると、夜空に裂け目のような亀裂が走り、その奥に、脈動するような“光”が現れた。
それはやがて形を変え、ひとつの巨大な“眼”となる。
焔のようにゆらめく光輪をまといながら、ゆっくりと上空から地上を見下ろしていた。
その異様な光景を目の辺りにし、律騎は驚愕していた。
「……あれは…一体、何なんだ…只事では無いぞ……。」
震えるような律騎の声に、執事がバックミラー越しに視線を送る。
すぐに車を道脇に停め、助手席側のドア越しに律騎の方へと上半身をひねり話しかけた。。
「……坊ちゃん、大丈夫ですか?」
律騎は問いかけに返事もせず、ゆっくりとドアノブに手をかけ、無言のまま車外へと降り立った。
冷たい夜風が、頬を撫でる。
路肩の石畳に革靴の音が鳴り響く。
律騎は小さく息を吐くと、正面を向き夜空を仰いだ。
裂けた空の奥から覗く、碧翠色の巨大な眼。
焔のような光輪を纏いながら、あの眼はまるで意志を持ってこちらを“観察”しているかのようだった。
「……幻覚じゃ……ないよな……」
律騎は、無意識に胸元に手を当てていた。
心臓の鼓動がいつもより速く、強く打っている。
理屈では説明がつかないような現実とは思えない光景。
だが確かに――今、この目で見ている。
執事がそっと車から降り、律騎の傍へ近づく。
その背中を一歩後ろから静かに見守るように立ち止まり話しかけた。
「坊ちゃん。とりあえず自宅へ戻りましょう。今夜は少し……風向きが悪い」
落ち着いた口調だったが、その声音には、僅かに緊張が滲んでいた。
律騎は言葉を失いながらも、燃えるようなその“眼”から目を逸らすことができなかった。
少し間を置いて、執事の方を見ると返事をした。
「……ああ。分かった。」
そういうと、二人は再び車に乗り込んだ。
車は、静かに高級住宅街が立ち並ぶ団地の中を抜けていった。
舗装された道路に並ぶ街路樹は、夜風にそよぐこともなく、空気そのものが止まってしまったかのように静まり返っていた。
律騎は、窓の外に流れていく住宅の明かりをぼんやりと見つめた。
耳を澄ませば、どこかで犬の鳴き声がかすかに聞こえる。
その鳴き声は、空に浮かぶ“眼”に怯えているようにも思えた。
――――
――時環市全域に渡り、“空の異変”は観測されていた。
空に浮かぶ眼はただ静かに、街を見下ろしていた。
街に降り注いだ碧の光の粒は、地表に触れると霧のように溶けて消えた。
それは世界の“終わり”を告げるものなのか、新たな世界の“目覚め”なのか、誰にも分からない。
その夜の出来事は、多くの人々の脳裏に、“得体の知れない異様な光景”として、焼き付いていた。
やがて、夜空に浮かんだ碧翠色の眼はゆっくりと消えていった。




