【13話】境界
―二十時過ぎ。龍禧家にて。
台所からは、煮物の鍋がコトコトと、心地よい音を立てていた。
「んー、今日はいつもより味が染みとる気がするねぇ」
ふふ、と小さく笑いながら、翔真の祖母は木べらで鍋をゆっくりかき混ぜていた。
居間に置かれたテレビからは、賑やかな声が聞こえる。
テレビの音声を聴きながら祖母は手際よく出汁を足していく。
一方、祖父は縁側に座っていた。湯呑を片手に、何となく空を見上げていた。
外は、風ひとつなく、張りつめたような夜だった。
星はまばらに瞬いていたが、月はまだ昇ってこない。
そのとき――
「ニャー」
縁側の奥から猫の鳴き声がした。
鳴き声のした方を見ると、庭の片隅にくすんだ灰色の毛にしっぽの曲がった猫が居た。
たまに、ふらりと家の敷地に入り込んでくる野良猫だった。
「……またおまえか。妙な時に来るもんやな」
猫はまっすぐに祖父を見つめている。
まるで何かを伝えようとするかのように動かず、その場で座ってこちらを見ていた。
祖父はしばらく猫と視線を交わしたまま、ふぅっと、ため息をついた。
「……なんや、今日は胸騒ぎがするな」
湯呑をそっと縁側に置き、ゆっくりと立ち上がる。
猫の近くに寄ろうと、敷居を跨いで軒下まで出た。
台所から、祖母の声がした。
「お父さん、ちょっとこっち来てくれる?塩加減足らんかもしれんけん」
その声に、台所の方を見ていつもの調子で答えた。
「おう、待ってろ」
そう返した後、もう一度庭の方へと目をやる。
さっきまでいたはずの猫の姿は、もうどこにもなかった。
猫のいた所に寄ってみると、何かが落ちてた。
それは灰色の毛束――さっきの猫の、毛だった。
風が吹き、庭の草花をそっと揺らす。手のひらに拾い上げた灰色の毛束が、ひらひらと舞い上がりそうになるのを、そっと包み込むようにして握った。
「……あの子、戻ってきたんかねぇ」
祖父は目を細め、一瞬だけ真剣な表情を浮かべた。
そして何事も無かったかのように縁側を後にし、居間に戻る。
障子を閉めかけたその時、ふと思い出したようにつぶやいた。
「……翔真と咲凪、あん二人、今日はえらい帰りが遅かの」
祖母は台所から顔を出しながら、のんびりとした声で応えた。
「そういや今朝、言うとったよ。今日は二人で寄り道してくるって」
お茶を注ぎながら、小さく笑う。
「もうあの二人も高校生やしねぇ。部活に、友だちに、色々ある年頃たい。帰りが遅くなることくらい、あるやろう」
祖父は「ふむ」と呟き、台所にやってくると、もう一度庭の方へと目をやった。
「……そうやな。そがん心配せんでも、ええか」
夜の帳がゆっくりと降りていくなか、家の中には、炊きたてのごはんの匂いと、春の夜風と、あたたかな気配が満ちていた。
――――
――どれくらいの時間、眠っていただろう。
静寂の中で、翔真はふと、目を覚ました。
だが、目覚めた此処がどこなのか、彼には理解できなかった。
身体を起こすと妙な違和感を覚えた。
空にあるはずのものが地にあり、地にあるはずのものが天にある。
まるで天地が逆転した鏡のような世界に立っていた。
(――俺は……死んだのか?)
その言葉が浮かんだ瞬間、胸の奥に鈍く重い痛みが走った。
身体の感覚は薄れているのに、その問いだけが鮮烈に突き刺さる。
翔真が心の中で呟いたその時――
空間がわずかに震え、目の前に水面のような波紋が広がった。
暗く深い藍の空間に、やがて一つの“影”が浮かび上がる。
その影は、翔真の姿によく似ていた――
しかし、何処か顔つきが違っていた。
重く、冷たい。生きているのかすら分からない虚ろな瞳が、翔真をじっと見つめている。
影が音もなく翔真の目の前に現れたかと思うと、次の瞬間、その漆黒の身体がしなやかに跳ねるようにして距離を詰めてきた。
「──ッ!」
翔真は反射的に身を引き、地を蹴る。間一髪、影の放った拳が風を裂いて翔真の肩をかすめる。肌に走る冷気のような感触。
影は無言のまま、流れるような動きでさらに打ち込んでくる。鋭く、そして正確。型など存在しないが、すべての動きが本能的な殺意に満ちていた。
動きは自分に似ている――。
いや、それ以上に、今の自分では到底敵わない速度と精度を持っていた。
反転した世界で翔真と影は幾度となくぶつかり合った。
影が繰り出してくる怒涛の攻撃を必死にガードするも、影の拳が肋に入った瞬間、肺の中の空気が一気に抜けた。
「ぐ…………はっ!」
咳き込みながらも、翔真は後ろに転がって間合いを取り、立ち上がる。
影がふたたび構えもなく近づいてくる。今度は翔真の方が先に動いた。拳を握り、渾身の力を込めて影の腹部に向かって突き出す。
しかし――影はその拳を受け止め、掴んだ。
翔真の目の前で、黒い指が、彼の拳をじわじわと締め上げていく。
「……っ、…………離せ!!」
翔真は全身の力を込め、もがきながら、影を振り払おうとした。
だが、掴まれたままの腕が軋み、骨ごと握り潰されそうなほどの圧力がかかっていた。
だが、影の掌はまるで鉄の枷のように、彼の拳を離さない。
影がゆっくりと顔を近づける。
――その顔には感情が無かった。
翔真の視界が揺らぐ。
感覚がじわじわと失われていく。血が止まり、指先が動かなくなる。
(……俺は、ここで終わるのか?)
苦しみと怒り、焦燥が胸を駆け巡る――
(ダメだ……このままじゃ、、、……)
そう思った瞬間――。
キィン……
静寂な世界に
微かに、清らかな“音”が、響いた。
キィン…… キィン……
その音は翔真の耳ではなく、頭の中に鳴り響いた。
そして、彼の心の底に何かが触れた。
(……?)
言葉にならない感覚。
だが、何かに触れられた感覚は確かにあった。
自分の奥深くに、封じられていた――“何か”。
それを呼び覚ますかのように。
―ふと、翔真の意識の奥底に、次々とあらゆる“光景”が浮かび上がってきた。
産まれた時から一緒にいる咲凪や
面倒を見てくれたじいちゃん、ばあちゃん、
幼い時に見た、微かに覚えている父さん母さんの優しい笑顔。
小学生からずっと同じだった瑛祐や橙理。
まるで走馬灯のように、みんなとの思い出が脳裏に蘇った。
それは単なる記憶ではなく、まるで生きている証かのように、とても鮮明だった。
そして―どれもが今の翔真にとってかけがえのない“大切なモノ”だった。
(……俺は、まだ何も返せてない―。)
(みんなに“ありがとう”すら、伝えられてない……!)
少し視界が滲む。だがそれは涙ではない。
胸の奥で何かが脈を打ち、熱く燃え上がっていく。
(今ここで、何もかも終わったら――絶対後悔する!!)
翔真はゆっくりと目を閉じ、拳を強く握り締めた。
身体の中心が震えた。
まるで心臓とは別の“何か”が脈打ち始めたかのように。
そして―ゆっくりと目を開けた。
瞳の奥で、七色の光が揺らめいた。
空気が揺れる。
地の底から響くような低い唸りとともに、周囲には重力とは違う“圧”が生まれる。
翔真の身体に、静かに力が宿る。
握られた拳から、焔が溢れ出し、影に掴まれていた腕が、わずかに動く。
「……手ぇ退けろよ。」
翔真が影の手を強く握り返した。
碧い焔が影の手を灼き尽くしていく。
そして――影の手はボロボロと砂のように崩れ去った。
「……!!」
影が初めて怯んだ。翔真から少し離れ、距離を取った。
だが、翔真は目を逸らさなかった。
その瞳はまっすぐに、“影”を捉えていた。
翔真は無言のまま、影に向かって歩を進めた。
拳を握った瞬間、空気が呻き、僅かに空間が歪む。
黒い身体が膨張し、無数の腕のような触手を生やし、翔真を包み込もうとする。
だが翔真は、動じなかった。
次の瞬間、翔真の姿が消えた――
一拍遅れて影の前に現れると、拳が影の胸元へ突き刺さる。
――ドォォォォォォン!
振るわれた拳は、ただ一撃。
だがその一撃が、世界の“法則”すら軋ませるような重みを持っていた。
影の体が後方に弾け飛び、背後の虚空に深々と沈み込む。
衝撃で生まれた残光が波紋のように広がり、暗かった空間全体が明るく染まる。
地面には波紋のように七色の閃光が走る。
今までずっと無口で、無表情だった影が、始めて口を開いた。そしてわずかに嗤った。
「……ハハハ……やはり、な………」
「お前は、選ばれたんじゃない。……そうやって自ら……選んで征くのさ――。」
そう告げると、影は音もなく静かに黒い霧となって散っていった。
――まるで、自ら消える事を選んだかのように。
影が消え去ると、無数の光の粒子が、天からゆっくりと降り注いだ。
光の粒子は軌道を描きながら
赤、青、黄、緑、紫……幾つもの色が交差し、重なり、形を成していく。
やがてそれらは、空間を形成し、辺り一面ステンドガラスのように鮮やかな透き通ったガラスで囲われた空間へと変化した。
時間が止まったような静けさの中で、
中心にただ1つ、光の結晶が浮いていた。
結晶はかすかに音を立てながらゆっくりと回転していた。
幾重にも重なる色。
無数の層が絡み合い、中心には、どこか“目”を思わせる形が脈動している。
翔真は、輝く結晶に手を伸ばした。
それが何なのかも判らないのに、
翔真の指先は、躊躇なく、結晶の表面に触れた。
ピシ……ッ
一筋の亀裂が、結晶の内部に走った。
次の瞬間――
パリィィィィン……ッ!!
澄んだ破砕音が、空間そのものを揺らした。
七色の結晶は粉々に砕け、
その光の破片が空に向かって舞い上がっていく。
それと同時に、足元が、空間が、世界が――崩れ始めた。
目の前で世界が形を失い、色も、音も重力も失われて
すべてが幻のように消えていく。
翔真の足元が、ふっと抜けた。
気がつくと辺りは一面の闇に包まれていた。
重力も方向もなく、ただひたすら下へと引きずられていくようだった。
だが、翔真の中にはまだ“何か”が熱く滾るように燃えていた。
暗闇の底に落下していく中、深く目を閉じる。
……遠くで、誰かが自分の名を呼んでいる気がした。
――それはどこか懐かしい声。
(……誰かが、俺を呼んでる。)
真っ暗闇の中で、その声だけがはっきりと響く。
(……戻らなきゃ)
次の瞬間、暗闇の中に小さな光が現れた。
その光は、微かな輝きだったが、翔真が意識を向けるたびに少しずつ大きくなっていく。
まるで「ここだ」と導くように、暖かく揺れていた。
「俺はまだ……こんな所で終われない」
翔真はその光に向かって、ゆっくりと手を伸ばした。




