【12話】緋昏
―四日二十時過ぎ。時環市、九馳中華街。
朱塗りの牌楼をくぐると、赤い提灯に照らされた通りに、ぎっしりと軒を連ねる中華料理店や雑貨屋が並んでいる。湯気を立てる屋台からは、花椒や五香粉の香りが夜風に乗って漂い、通りを行く人々の足を止める。
この街は中国との縁が深く、時環市の代表的な観光地の一つでもある。
その一角に建つ年季の入った雑居ビル。その五階に鴛ノ屋 宰は住んでいた。
窓は開け放たれており、夜風がカーテンを優しく揺らしている。ベランダの外からは、中華街の灯りがぼんやりと見えていた。
室内ではニュース番組が流れ、キャスターの落ち着いた声が静かに響いていた。
『……昨夜未明、時環市青瀬町にある百目木海浜公園の駐車場で、若い男性が死亡しているのが発見されました。遺体には複数の裂傷があり、警察では─』
ベランダの外に立ち、宰は空を見上げ、星を眺めながら、夜空を一眼レフカメラで撮影していた。
「ツーチャン!!またテレビつけっぱナシ!観ないなら消して!」
そう言いながら調理台の前に立つ男――張 允傑。通称ユン。
宰と同い年で、同じ屋根の下に住む相棒でもある。
「ちゃんとニュース聴いとるけん、消さんでって!」
宰がそう言いながらベランダから半身だけ室内に顔を出す。
キッチンから油の弾ける音が聞こえた。室内には辣油と花椒の香りが漂う。
「あと少しで出来るから、さっさとカメラ置いて手ぇでも洗っとけ!」
フライパンの底を叩くような大きな金属音がユンの声に重なった。
「おーおー、わかったって……。ええとこやったとに」
ぶつぶつ言いながらも、宰はカメラのレンズキャップを閉め、首から外すと室内に戻ってきた。
足元に転がるクッションを避けながら、宰はテレビの方に視線を向ける。
テレビに映っているのは、公園の駐車場に引かれた規制線と、マイクを構えた女性キャスターの姿。
『最近多発している殺人事件との関連性や、特殊な手段の有無については、現在も慎重に調査中との事──』
「異人ん事を、表沙汰にせんのばみると警察も怪しかよな」
宰はそうボヤきながら、ソファへと腰を下ろした。
深く沈むクッションに体を預け、カメラをテーブルの上に置くと足を投げ出す。
キッチンから湯気をまとって出てきたユンは、手にした木ベラを軽く振りながら、近づいてきた。
「ちょっとー、今からお皿持ってくるんだから、カメラ、テーブルに置いたら邪魔だよ」
そう言ってテーブルを見た瞬間、ユンは叫んだ。
「おい、机に足のせんな!」
バチンッ!
容赦なく宰の脛を木ベラで叩いた。
「いってぇぇぇっ!!!ちょ、……お前、マジで少しは加減せぇや、アホ!!」
宰は脛を押さえながら、ソファの上で身をよじった。
その様子を見てユンは鼻で笑いながら、肩をすくめて言う。
「机に足のせる方が悪いね。あんな立派な家で育ったクセに、全く品が無いなオマエは。」
「うるさか!……家の話はすんな」
宰が少し声を荒げると、ユンは一瞬だけ目を細めたが、それ以上は突っ込まず、笑って流すとキッチンに戻った。
煮込んでいた鍋をいったん脇に寄せ、火力を落とすと、話を続けた。
「そういや、今日来た客が話してたよ。さっきの事件で殺されたの……ウチの常連サンかもしれないね」
「……常連さんやったんか。気の毒にな。」
「ったく、次はドコに出てくるか、分かったもんじゃないネ」
コンロの火を止める音とともに、鉄鍋が置かれる重い音が響く。
「ハイ、飯できたよ。ツーチャン、シャオ呼んできて」
香ばしくも刺激的な香りが一気に部屋に広がったり湯気を立てながらグツグツと煮えた麻婆豆腐を手際よく皿に盛りつけた。
「はいよー」
そう言うと宰は立ち上がり、隣の部屋のドアを軽くノックした。
「おーい、シャオー。ごはんばい、ごはんー」
「ハーイ!」
明るい返事が返ってくると、勢いよく引き戸が開いて、パジャマ姿の小さな女の子がぱたぱたと走ってきた。
「シャオ、おなかぺこぺこ!」
「おお、そんなにお腹すいとったか。今日のごはんはまーぼーどーふ、らしかけん、ちょっとシャオには辛いかもしれんな〜?」
宰が笑いながら言うと、シャオは、ぱっと笑顔で答えた。
「だいじょーぶ!シャオ、からいのへーきだよ!」
シャオはぱたぱたと小さな素足で廊下を走り、リビングへと向かった。宰もその後ろ姿の後を追う。
ユンは麻婆豆腐を盛った皿をテーブルにそっと並べ終えると、二人に言った。
「ほら、熱いうちに食べて。冷めたら美味しさ半減するから!」
シャオはテーブルの端に手をかけて勢いよく椅子によじ登ると、目の前に置かれた真っ赤な麻婆豆腐を見つめて、目をきらきらと輝かせた。
宰は椅子に座ると、テーブルに置かれた皿からシャオの分をよそってやる。
「ほい、シャオの分。あちぃけん、ちょっとフーフーしてから食べんとよ」
「うん!わかったー!いっただっきまーすっ!」
シャオは小さな手を重ねて、そう言うと勢いよく麻婆豆腐を一口食べた。
「……ん〜〜っ!やっぱユンにぃのごはんおいしー!」
「さすが!シャオはよく分かってるね。たくさん食べなよ?」
少し誇らしげに言うと、すかさず宰の方を見て言った。
「さぁさぁ、ツーチャンも早く食べて!今日は気合入れて作ったから、残すのナシ!」
「おいおい……脅しか?」
宰は苦笑いを浮かべながらも、シャオの満面の笑みにほだされ、アツアツの麻婆豆腐を一口食べる。
「……っぐ!?……辛あああああーっ!!」
あまりの辛さに、口の中に強烈な衝撃が走り、咳き込みそうになる。
慌てて水を取ろうとした宰に、シャオが無邪気に水のコップを差し出す。
「ツーチャン、みずっ!」
「うぅ……ありがと、シャオ………」
ゴクゴクと水を飲み干し、ようやく落ち着いた宰の顔は、汗と涙でぐしゃぐしゃだった。
それを見ていたユンは、ニヤニヤと笑いながら話しかける。
「はははは!ツーチャンはホント辛いの弱すぎるね〜!子ども以下よ」
「絶対、オマエらの舌がおかしかだけやろッ!!」
宰が涙目になりながら言い放つと、ユンはけろっとした顔で答えた。
「今日は、花椒ちょっと多めに入れたからね。風味が引き立ってるでしょ?」
「ちょっとってレベルやなかやろがぁ!! 舌しびれて喋れんごとなっとるんやが!!」
ユンは苦笑いを浮かべたまま、宰の方をちらりと見ると、急に鋭い目付きになった。
「……残したらどうなるか分かってるよなぁ?」
「こんな辛いの、どうやって食うんや!!!」
そう叫ぶ宰をよそに、ユンは視線を横にやると、麻婆豆腐をモリモリと頬張るシャオに優しく声をかけた。
「シャオ、今日も保育園たのしかったか?」
シャオは口いっぱいに麻婆豆腐を詰め込んだまま、目を輝かせて答えた。
「うんっ!お絵かきした!あとねー、ブランコもしたよ!」
「そっか!今日も楽しく過ごせたならよい!」
ユンはそう言って、柔らかく目を細める。宰も口元を緩め、静かに笑っていた。
──そのときだった。
シャオはスプーンを持つ手を止め、ぽつりと呟くように言った。
「……ねえ、ママはいつかえってくるの?」
唐突に放たれたその問いに、食卓の空気が少しだけ静まった。
宰は手を止め、そっと視線を落とす。ユンも一瞬だけ箸を浮かせ、宰と目を合わせると、ゆっくりとシャオの方を向いて話した。
「……ママはね、シャオがいい子にしてたら、きっと会えるよ」
そう言うと彼はシャオの頭を優しく撫でた。
宰も椅子から身を乗り出し、そっとその小さな頭に手を添える。
「そーそー、いっぱい食べて、ちゃんと寝て、元気でおらんとね」
シャオはこくんと小さく頷くと、再び麻婆豆腐に夢中になり、もぐもぐと食べ始めた。
―半年前。彼らの師匠であり、シャオの母である楊 静華はある任務を境に姿を消した。
二人に何も言わずに─娘一人を、残して。
宰とユンはシャオの世話をしながら、彼女の行方を探し続けている。
夜の中華街に風が吹く。遠くでまた、サイレンの音が鳴り響いていた。
――――
クロノスタジアムを後にした翔真と咲凪の二人は、並んで歩きながら自宅に向かっていた。
少し肌寒い夜風が吹き抜け、咲凪の髪をふわりと揺らした。
「……もうすっかり夜だね」
咲凪がふっと笑い、翔真の方を見ながら言った。
「なんだかんだで、けっこう喋ってたしな」
翔真もつられるように笑いながら返した。
街の明かりが次第に遠のき、ゆるやかな風が二人の制服の裾を揺らす。
二人は、いつもと違う帰り道を歩いて帰っていた。
街灯はまばらで薄暗く、人通りもないが、自宅へは早く帰れるルートだった。
周囲にはいくつかの倉庫や資材置き場が点在し、造成地の外れのような場所。
足元のアスファルトは、ところどころ割れ目があり、道路は綺麗に舗装されていない。
車が通ることも無く、静かだった。
風が吹き抜けるたび、フェンスの金網が軋む音がしている。
「……ちょっと、寒くなってきたね」
咲凪がそう呟いたその時――。
「ジャリッ」と何かを踏みしめるような音がした。
「……?」
咲凪が音に反応し、足を止める。
確かに乾いた足音が、背後から聞こえた。
翔真も足を止め、振り返って確認する。
――だが、そこには誰も居ない。
「……気のせいか?」
そう言った瞬間、反対側のフェンスから再び物音がした。
突如、暗がりの中から現れたのは、息を荒げ、フードを被った一人の男─。
なぜか服は乱れ、ところどころ破けていた。
その手には、鈍く光を反射する“何か”が握られている。
「…………ちょうど……#∅@!!……」
男はボソッと呟くと突然、手に持った何かを突き出しながらこちらにゆっくりと近づいて来た。
手に持っていたそれは――包丁だった。
男が包丁を手にしてる事が分かると、翔真は咄嗟に咲凪の肩を掴み、後ろへ押しやった。
咲凪が後方によろめいた後、男はさらに距離を詰めてくる。
「……は?ちょ、おいおい、マジかよ……!!」
翔真が戸惑う様子を見せると、男は手にした包丁を突き出すと、低く呟いた。
「殺れば……報酬が貰える。……お前一人でも刺して殺せば……俺は金を貰える……!!」
翔真は思わず一歩後ずさる。
男の表情には、どこか焦りと切迫感のようなものが滲んでいた。
顔色は青白く、目の奥は血走っている。
(コイツ正気じゃねぇ……マジでヤバいやつだ……!)
男は歯を食いしばり、包丁を力強く握り直した。拳は震えていたが、その目に迷いはなかった。
「……一人でいい。……金の為なら俺はなんだってする!!」
そう言うと、男は狂ったかのように駆け出し、手にした包丁を振り上げた。
鋭い刃先が、一直線に翔真めがけて迫る。
シュッ――!!
翔真は体をねじるようにして包丁を避けた。
だが、刃先はかすかに肩を掠め、鋭い痛みが走る。ジャケットの布地が裂け、じわりと赤い血が滲み出す。
「――ッ!…痛ぇ……っ!!」
その様子を見て、咲凪が声を震わせながら叫ぶ。
「――翔真、大丈夫っ!? ちょ、警察に電話しなきゃ……!いや、とりあえず、逃げよう!」
「……咲凪、先に逃げろ!!」
翔真の呼びかけに戸惑いながらも、咲凪はすぐに後方へと駆け出した。
翔真も男から逃れようと背を向け、走り出そうとした――その瞬間だった。
グサッ――。
鋭い衝撃が、背中を突き破った。
身体の奥、骨の隙間にまで、冷たい金属の感触が流れ込んでくる。
「ぐっ――がっ、は……ぁ……!!」
振り返る間もなかった。
男は背後から翔真の背中に包丁を突き刺していた。
「これで俺は、“金”が貰える……!なぁ……なあ!? 早く死んでくれ!!」
力を込め、さらに深く差し込んだ。
包丁は確実に翔真の体を貫いた。男の顔は狂気に染まっていた。
胸の奥が、ズキズキと脈を打つように疼いている。
夢と同じ。あの「光」に触れられた時と、同じ場所が熱くなっている。
翔真の叫び声を聞き、後ろを振り返った咲凪は驚愕した。
――翔真が、血を流して地面に倒れていた。
その背中には、深々と突き刺さった包丁。
「――っ!!……翔真……!?」
咲凪は思わず叫びそうになったが、その声を必死に飲み込んだ。
次の瞬間、勝手に足が動いていた。
身体は震え、恐怖で胸が締めつけられるようだった。
それでも――翔真を助けなくちゃ、という気持ちが、恐怖よりも上回っていた。
こちらに走って近づいてくる咲凪に気づくと、通り魔の男は翔真に突き刺した包丁を抜いた。
「あ゛ああああッッ……!!」
激痛が背中を駆け抜け、翔真の口から悲鳴が漏れる。
呼吸すらままならず、視界が歪んだ。肩が大きく揺れ、体中の力がまた一気に抜けていく。
――そして翔真は膝から崩れ落ちた。
血の匂いと鉄の味が、口の中いっぱいに広がった。
「っ!!……翔真ぁぁぁ!!!!」
咲凪は悲鳴をあげながら翔真の元へ駆け寄る。
男はスっと血に濡れた包丁の刃先を咲凪に向ける。
「……お前も……殺されたいのか?」
その一言に咲凪の足がすくむ。男が咲凪に歩み寄ろうとしたその時、
――ガシッ。
翔真は地面に倒れながらも、男の足首をしっかりと掴んでいた。
男は足元を見下ろし、憎悪に満ちた目を翔真に向けた。
「チッ……黙ってさっさと死ね!!」
怒りに任せ、手にした包丁をそのまま翔真の腕へと突き立てる。
肉を裂く鈍い音が響き、真っ赤な血が辺りに飛び散った。
「――ッあ゛あああああッッ!!!」
痛みが骨を貫くように襲い、心臓が激しく鼓動しているのを感じる。
血が滲み出し、手のひらに熱を感じた。
呼吸が乱れ、胸の中で激しく痛みがうずく。
その痛みをなんとか耐えようと必死に踏ん張るが、身体は言うことをきかない。
心臓からは血が止まらず流れ続け、腕は真っ赤に染まっていた。
それでも翔真は、咲凪を守ろうと必死だった。
徐々に意識が遠のき、今にも気を失いそうになる中、翔真の目に映ったのは――怯えた表情の咲凪だった。
怯えたその瞳を見て、必死に手を伸ばした。
だがその手は、届かぬまま、空を切り…地面に、力なく落ちた。




