【10話】泡沫
―舞ノ濱高校・校内学生食堂にて。
昼休みが始まってすぐ、食堂はすでに生徒たちで賑わっていた。
ざわざわとした声と食器の音が混ざり合い、活気に満ちていた。
翔真は、瑛祐たちと席につき、荷物を置いた後、「ちょっと見てくる」と言って食堂の奥へと向かっていた。
トレーを手に、パンコーナーとカレーの鍋が置いてあるあたりを見て回っていると、ふいに前から来た誰かとぶつかりそうになる。
「あっ、ごめんなさ──」
「──あ……」
声が重なった瞬間、お互いの顔がはっきりと見えた。
「……天國さん?」
「え……あ、龍禧くん……?」
数日前の奇妙な出会いを思い出し、ふたりとも一瞬だけ固まったように立ち尽くす。
翔真は先に口を開いた。
「また会ったな!」
「う、うん!ビックリした!」
熾埜はそわそわと目を泳がせながらも、口元にはほのかな笑みが浮かんでいた。
翔真はトレーにメロンパンを載せつつ、熾埜の顔をちらりと見ながら言った。
「食堂、今日初めて来た?」
「うん、始めて!友達と一緒に来たの。……龍禧くんは?」
「オレも。ダチに言われて来てみた。結構いろいろあるんだなー」
「いっぱいあって迷うね〜、龍禧くんはメロンパン好きなの?」
「うん、好き。美味しいんだよなメロンパン」
「わかる!学食のメロンパンも美味しそう〜」
翔真は自然と笑みをこぼしながら、メロンパンの隣にカレーパンも追加する。
「天國さんは、もう決めたの?」
「うーん……まだ迷ってる。美味しいバナナマフィンがあるって聞いたけど、売り切れてたみたいで……」
少し残念そうに言う熾埜に、翔真が置かれたパンを見てから、こう言った。
「なら、今日は代わりに甘いのとしょっぱいパンはどう?バランス取れそうじゃね?」
「ふふ、なるほど~。じゃあ……このチョコクロと、ハムチーズパンにしよっかな」
トングでパンを落とさないようにトレーに必死に運ぶ熾埜の動作はやけに慎重すぎて、ちょっと変だった。
そんな様子を見て、翔真は思わずクスッと笑った。
「ふっ、……なんか、ウケる。」
「え?」
「いや、なんでもない!」
「え、私なんか変なことしてた?」
「気にすんなー」
「う、うん!」
そのタイミングで、遠くから「翔真ー!何女子と話してんだよー!」という声が飛ぶ。翔真は苦笑しながら肩をすくめた。
「ったく、うるせーな瑛祐。じゃあ、俺そろそろ戻るわ。またな、天國さん!」
「うん、またね!龍禧くん!」
翔真と別れて熾埜が席に戻ると、離れて見ていた美緒がにやにやしながら尋ねてくる。
「ねー、さっきの子誰〜?なーに話してたの?」
「え、えっと……メロンパンの話……!」
とっさにそう言うと、誤魔化すように取ってきたハムチーズパンを一口頬張った。
――――
―昼休みが終わり五時限目。
昼下がりの教室。単調な板書と、教師の声が淡々と響いている。
窓から差し込む光はやわらかく、生ぬるい春の風がカーテンを揺らしていた。
翔真は教科書を開いたまま、ふとペンを止めて視線を
黒板に視線を移した。その瞬間――。
(……ん?)
視界の端に、微かに“揺れ”が走った気がした。
黒板の表面が、ほんの少しだけ、波打ったように見えたのだ。
目の錯覚だと思い、もう一度よく見る。しかし今度は、確かに黒板の奥が深く、暗く、何か底知れないものが蠢き、渦巻いているように見えた。
(……これ、夢と……)
思わず息を呑む。昨日のあの夢。光の触手。
それとまったく同じような光が――渦の奥で、微かに揺れていた。
気づけばその光は、黒板の外に漏れ始め、翔真の机にまで伸びようとしていた――
「……龍禧!!」
――パシッ!
横から肩を叩かれ、翔真ははっと顔を上げた。
「……え?」
そこには、いつもの教室と教師の姿。黒板は何の異変も無く、ただの数式が書かれているだけだった。
「午後の授業だからってボーッとするなよ。」
「……あ、はい…。」
しかし翔真の心臓は、まだドクドクと早鐘を打っていた。
(今の……なんだったんだ……?)
黒板に映った“異様な光景”は、確かにはっきりと見たはずだった。
(夢と……同じだった)
そう気づいた瞬間、背筋がゾクッとしてきた。
夢で見た、あの崩れる空、触れてきた光。あの痛み。
現実にはないはずのものが、授業中のほんの数秒だけ、確かにこの教室で見えた。
(あれは夢じゃなかったのか……?)
しばらくすると、チャイムの音が鳴り響いた。
授業が終わったことを告げるその音が、翔真にはどこか遠く、鈍く聞こえた。
――――
―十八時半過ぎ。
夕暮れの光が校舎の窓をオレンジ色に染めていた。
部活動が終わり、翔真は肩にタオルをかけながら制服に着替えて部室を出ると、正門前で咲凪がすでに待っていた。
「おーい、翔真ー!おつかれー!こっちこっち!」
「おつかれ。早かったな、もう来てたのか」
「うん、今日はちょっと早めに終わった。……おなか空いた!さ、行こ!」
咲凪はにこにこと笑いながら、リュックを背負い直す。
二人は並んで校門を出ると、自転車に乗ってゆるい坂を降りながらクロノスタジアム内にある角煮まんじゅう専門店、「角福屋」を目指す。
「限定の大トロ角煮まん、残ってるといーね!」
「お前、それが目当てで速攻部活切り上げたんじゃねぇの?」
「ち、ちがう!たまたま早く終わっただけだし!」
夕焼けの中、軽口を叩き合いながら、二人は坂の下まで一気に降った。
クロノスタジアムが見えてくる頃には、日もだいぶ傾いていた。巨大なサッカースタンドと、複雑に組まれたスチールの構造が沈みかけた夕陽に照らされ、金色に輝いている。
スタジアムの周囲には観光客や地元の人々が行き交い、にぎやかな雰囲気を醸していた。
――クロノスタジアム。
最近時環に新しく出来た、サッカーピッチ、ホテル、アリーナ、ショッピングモールの全てが一箇所に集まった大型複合施設である。
「いつ見てもデカいよね、ここ!なんか都会っぽいってかさ、時環感ゼロ!」
「たしかに。出来たばっかだから、まだ地元感ねーけど、これから時環もこういう施設がもっと増えてくれたら嬉しいよな!」
二人で軽く話しながら、少し離れたところにある角福屋の店舗へと辿り着いた。
「あっ、大トロ角煮まんじゅうまだあった!」
「良かったな、俺も今日はそっちにしようかな」
二人は店の前に並んでお目当ての大トロ角煮まんを受け取り、近くにあるベンチに腰を下ろす。
「……はふっ、んん〜、やっぱこれだねー!美味しっ!」
咲凪は頬を緩ませながら、満足そうにかぶりつく。翔真も一口食べ、目を細める。
「やっぱうまいな!……なんか元気でるわ」
「ね、元気でるでしょ?なんかさ、こういうのって、誰かと一緒に食べるともっと美味しいよね」
その一言に、翔真は少しだけ咳払いしてからうつむき、ぼそりと返した。
「……そうだな。」
ほんのわずかに照れたその横顔を、咲凪はちらりと見て、何も言わずに再び角煮まんにかじりついた。
夕日が山の向こうへと落ちていく。
淡い金色の光が、二人の静かな時間を優しく包んでいた。
ベンチから見えるサッカーピッチの中央では、シュート練習をしている選手のシルエットが、夕日に染まりながら動いていた。
観客席にはほとんど誰もおらず、静まり返っているのに、不思議とその静けさが重くはなかった。
むしろ、空っぽのスタンドが何か大きなものに包まれているような、そんな感覚を翔真は覚えていた。
サッカーピッチの方を眺めながら咲凪がぽつりと呟く。
「……また観に来たいな、今度は試合の時」
「だな!今度は試合の日チケット取ってさ、角煮まん買って、応援とかしちゃって」
「それ、ぜったい楽しいやつじゃん!」
ふたりは顔を見合わせて笑い合った後、そのまましばらく、何も言わずにサッカーの練習している選手達の方を眺めていた。
咲凪がふとスマホを取り出して時間を確認した。
「……あ、もうすぐ八時なるじゃん!」
「マジか!!そろそろ帰んねーとな。じーちゃん達に怒られる!」
「だね〜、今日はありがとう、翔真。なんか、楽しかったわ!」
「こっちこそ。角煮まん食えてよかったし。今度は休みの日にじいちゃんとばあちゃん連れて試合観に来るかー」
そう言って立ち上がる翔真の横で、咲凪もゆっくりと立ち上がる。
「ちょっと待ってて!」
帰ろうとすると、咲凪が急に足を止め、角福屋の店頭の横に置いてあるレトロな黒電話の前に駆け寄った。
「………?」
翔真は首を傾げたまま、その場に立ち尽くしていた。
そんな彼を横目に、咲凪はにやりと笑みを浮かべながら、黒電話の受話器に手を伸ばす。
「この電話、角福屋の社長さんに直接繋がるんだって!」
角福屋の横に置いてあった黒電話の近くには、
「この電話はかけると社長に繋がります。※会議中や、移動中等は出られません」と書かれたPOPが貼ってあった。
「え?マジでやんの?」
少し戸惑う翔真をよそに、咲凪は社長に電話をかけた。
横で咲凪の話を聞いていた翔真は、時々吹き出しそうになりながらも、どこか嬉しそうに見守っていた。
「……はい!また来ます!絶対に!ありがとうございました!」
ガチャリと受話器を戻し、咲凪は得意げな顔で翔真の方を振り返った。
「ちゃんと社長さんに伝えといた!」
「はは、社長さんでてくれたのか。そういうお礼とか直接言えんのなんか、お前らしいわ。」
咲凪は満足げに頷きながら、もう一度電話横のPOPを見た。
周囲の人通りはまばらで、夜風が看板の端をそっと揺らしている。
角福屋を後にして、二人はスタジアムの外周をゆっくりと歩き出す。
川面には街の灯が滲むように映り込み、静かに揺れていた。
遠くにある山の稜線には、うっすらと残照が差し、雲の切れ間からは金色の光が滲んでいた。
そんな風景を眺めながら、二人が屋外にあるエスカレーターに乗った、その時。
反対側の登りエスカレーターに、
雨も降っていないというのに、ひとり黒い傘を差した人物の姿があった。
傘の影に隠れたその人物は、
夜のネオンに照らされた煌びやかな風景の中で、明らかに浮いていた。
顔は見えない。
だが、常人とはどこか異なる――異様な雰囲気を纏っていた。
すれ違いざま、翔真はふと、その人物に視線を向けた。
すると相手も、見られていることを分かっていたかのように、ゆっくりとこちらに顔を向ける。
そして、目が合った瞬間――ニヤリと笑った。
その不気味な微笑みに、翔真は思わず息を呑んだ。
そのまま何事もなかったかのように、すれ違っていった。
エスカレーターを降りると、男は振り返り、片手で傘の柄を軽く回しながら微笑む。
「いいなぁ、キミたちは。……まだ選べる側だから」
そう呟くと、男は再び前を向き歩き出した。
翔真は、すれ違いざま、こちらを見て微笑んだ男に、どこか言いようのない違和感を覚えていた。
俯いたまま、ぼんやりと物思いにふけっていた翔真は、咲凪に声をかけられた瞬間、ハッと我に返り、顔を上げて前を向いた。
「……ん?翔真どうかした?」
「いや、なんでもない」
エスカレーターを降りると、二人は再び軽口を交わしながら、スタジアムの外へと歩き出す。
ネオンの灯りが滲む夜の街に、ゆっくりと夜風が吹き抜ける。
咲凪がふと立ち止まり、夜空を見上げた。
「……星、出てるね」
その声に反応し、翔真も咲凪の視線を追うように、ゆっくりと空を仰ぐ。
空を見上げる翔真の横顔を見て、咲凪はそっと微笑んだ。
街の灯りが、その横顔をやさしく照らす。
─こんな風に何気ない日常が、これからもずっと続けばいい。
翔真は夜空に浮かぶ星を見つめ、そう願った。




