第六話『新たな時代の魔王』
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「ほら嬢ちゃん、遠慮せず飲んだ飲んだ! 兄ちゃんも一気にぐいっと行っちまいなぁ!」
「ごめんなさい。私たち、まだ未成年なのでお酒はちょっと……」
「へぇ、未成年⁉ てっきり大人かと思ったじゃねぇか! 最近の若者はみぃんなこんな大人びてるのかよ? へへっ、おっさんにゃぁ見分けがつかねぇなぁ! ガハハッ!」
「村長が復活してる……」
寄せ集めて一体化したテーブルを大勢で囲み、騎士団と村人たちが杯を交わす。テーブルの上には、混然とした匂いを貫いて存在感を主張する燻製のニシンや、ごろごろと原形の残った野菜スープ、心なしか抵抗のあるミルクラムのステーキなどが並び、それらの隙間に誰かのグラスが無秩序に散りばめられている。
俺の飲んでいた葡萄ジュースはどこに行ったのだろうか。これは……ワインだ。
「おい、それはわ、私のだぞ……」
テーブルに戻そうと伸ばした腕が横から掴まれ、素早くグラスを抜き取られた。「あっ」と取り返す余裕もなく飲み干した団長が、次の得物を求めて眼光を瞬かせる。
醸造所の話が出た時から片鱗を覗かせていたが、まさか数杯でここまで蕩けるとは。普段の冷徹な姿を知っているとその変わりようは別人並みだ。
「……ヒロミさん、こんなに飲ませていいんですか?」
「本当は駄目なんだけど……最近、みんな張り詰めてたしさ。景気付けってやつだよ」
騎士団のほとんどは、というか俺とアサヒ、そしてユナの三名以外はみな成人済みだ。普段こそ儀式や祭りなどの特別な場合を除いて飲酒を制限されているが、だからといって酒に弱いというわけでもないらしい。
「てゆーか……ヒロミ! 婚儀はいつ挙げるのよ…!」
「えっ⁉ アマ姉と副団長、ついに結婚するんですか⁉」
「アマネ。それは魔王を倒してからって話だったろ」
「きゃーっ!」
黄色い声を上げてアサヒがはしゃぐ。彼女は以前から大人の人間関係とやらに憧れており、身近な例として団長とヒロミさんの進展をいつも気にしている。恋愛に興味があるのかと聞いてみたところ、他人の一喜一憂する様子を眺めているのが一番楽しいのだという。
まあ、騎士団の団長と副団長の恋愛となれば団員の誰もが気になるところではある。かくいう俺も、二人の関係を陰から応援している人間だ。
「それより、あんたらはどうなの? アサヒ、アキラ!」
「あの、俺たちは結婚どころか付き合ってもないですよ」
「そうですよアマ姉。アキラとはただの幼馴染で戦友なんですから」
団長がかっと目を見開いて拳をテーブルに打ち付ける。
「うそ⁉ 付き合ってもないのに、いつもべったりして手とか繋いじゃってるわけ⁉」
「いや、あれは別に……いつもじゃないですよ」
「そうそう。それに手を繋ぐなんて普通じゃないですか」
「じゃあ他の男……ナオキでも?」
「や、それは普通に無理です」
テーブルの向かい側からくしゃみが聞こえる。
「まあとにかく……持てるものは手の届く場所にある内に持っときなさい。うつつを抜かしてると、いつか急にいなくなるわよ」
「いなくなるって……」
「男なんていつどこで裏切ってもおかしくない生物なの。……ねえ、ヒロミ?」
「え?」
魔王討伐に向けた真摯な話かと思いきや、想定外の角度から飛んできた鋭利な視線を受け、ヒロミさんが目を剝く。団長はびしっと指先を彼の顔に向けて言う。
「聞いたんだから……遠征の前日に、修道士の女性と一緒にいたんだって? 彼女、普段から無口で無表情なのに、その日に限ってはやたら恥ずかしそうに顔を伏せていたって……しかも、ずぶ濡れだったそうじゃない。二人で何をしてたのかしら?」
あっ、と声が漏れた。団長の視線が突き刺さる。
「アマネ。それは事実だけど、君が想像しているようなことは何もなかったよ。私はアマネのことが好きだし、他の女性に目移りすることもない。絶対にだ」
ヒロミさんはそれなりに名高い貴族家門の出で、騎士団内には時長の一人と血縁関係だとか、教会を建てた偉人を先祖に持っているだとか、出処の知れない噂まで流れる始末だ。
一年ほど前、とある貴族令嬢との婚姻話が舞い込んできた。本人曰く、その話は丁重に断り、家族にも家系を継ぐ気がないと伝えたのだそうだ。家のことは一人ずついる兄と姉に任せ、自身は魔王討伐の功勲を持ち帰る代わりに好きな相手を選ぶというものだった。
一方で団長は孤児院で育ったらしい。身分を見比べれば、その差は明確なものとなる。
「でも、あんたがそうやって甘い顔をしてれば、他の女なんていくらでも——んっ⁉」
目を半ば閉じかけた彼女の顔を引き寄せ、ヒロミさんは自分の顔を重ねた。
「信じてくれ、アマネ。覚えているかい? 昔交わした約束を」
「も、もちろん覚えてるわよ! 忘れるわけないじゃない! だって……だって、ヒロミがわたしに……ぐぅ」
「溶けるように寝た……」
徐々に沈み込みつつあった顔と声がとうとう途絶え、ついにはテーブルに突っ伏した。すやすやと寝息を立てる団長は、十年以上の付き合いでも初めて見る光景だ。遠征のために長年準備してきた疲労が溜まっていたのかもしれない。スケッチしてみたいという欲望を抑えてヒロミさんに目配せする。
「……ごめんね、二人とも。私はアマネを寝かせてくるよ。君たちもあまり遅くなりすぎないようにね」
ワインの垂れる口端を拭い、ヒロミさんが団長を抱きかかえて酒場を出ていく。
それこそ演劇の一場面のような展開に、アサヒが紅潮した頬を両手で包みながら静かに悲鳴を上げる。そして、それは彼女一人ではなかった。
「……なんだか、部外者が見てはいけないものを見てしまった気分です」
出口の方を見ながらおそるおそるやって来るのはアオゾラとダイチだ。それぞれジュースの入ったグラスを手に持ち、声を震わせる。
「そういえば、話があるって言ってたっけ」
二人が席に着く。大人たちは散々顔を赤らめて騒いでおり、こちらに絡んでくる様子はない。喧騒の隅で四人が集まった。ちなみにユナはとっくにご就寝中だ。
「はい。概要はアオゾラからお聞きになられたと思いますが、改めて詳しくお話させて……あ、僕も口調直していいですか?」
「もちろん。こちらこそよろしくね」
「はい……じゃなくて、ああ。よろしく頼むよ。じゃあさっそくだけど、僕たちの生い立ちについて話そう」
そうして二人は自身の過去を語ってくれた。
すでに聞いた通り、二人は赤子の頃から両親とは離れ離れになり、村長に拾われた。父親は考古学者の夢を志し、若くして村を出ていった人だということが後に判明した。
数年が経ち、父親がとある女性を連れて帰省した。妻となる人間だ。二人は学者仲間として共に遺跡の調査をしていたのだという。村に帰ったのは、外れに古代の宗教施設と見られる遺跡が存在していたためだ。
人狼の伝承と立地的な条件から、縁上麓は身内に寛大で、しかし外との交流を好まない風潮がある。ましてや、かつて仲間だった村人に人狼の嫌疑をかけなければならない。それはある種の裏切り行為にも近かった。
村を出るという選択自体は許容したものの、再びのうのうと戻って来たことには、村長を始めとした多くの者があまりよい顔をしなかったのだ。
彼が不安定な状態にあったこともその不信感を加速させた。以前の彼は活発で好奇心旺盛、まさに知的探求心の塊といっていいほどの青年だった。しかし帰って来た彼はどこか異常な様子だったらしい。普通に会話していたかと思えば急に全身を縮こまらせて痙攣を起こしたり、目を開けたまま気絶したりしたという目撃例が多く寄せられた。
また、特筆すべきは神に対する病的なまでの執着心だ。人が変わったように神話と神性の話題をまくしたてるその姿に、かつての家族と友人たちは自身の記憶を疑った。彼は自ら体験したという神との対話を根拠に膨大な量の日記を書いていた。もはや、その精神と両足は縁上麓とは決定的に異なるどこか遠くの領域へと達していた。母親も目に付く異常性こそ表さなかったが、彼を盲目的に肯定し、異教の神を信仰するという点で同類だった。
誰かがその神について問うた。彼は答えた。百代の神がこの地に眠っていると。
やがて家族までもが愛想を尽かし、誰も彼の存在を気に留めなくなった頃だった。ダイチとアオゾラが見つかったのは。二人は生まれたての命の咆哮を発していた。村の出入り口で酒を飲んでいた村長が何かの拍子でそれに気づき、数十分もかけて山道を抜け、月光も当たらない遺跡の最奥に辿り着いてようやく泣き止んだ。
村長の目の前で、両親が二人の赤子をそれぞれ両手に抱え、得体のしれない石像に向けて差し出すように跪いていた。声をかけたが反応はない。どちらもその姿勢のまま息絶えて硬直していた。村長はすっかり酔いの醒めた頭で赤子を持ち上げ、村に走って行った。
この時ばかりは村長の逸脱も有耶無耶になった。問題は赤子の方だ。片方ずつの腕をなくしている。欠損箇所は目立った傷跡もなく、まるで最初からそういう構造で産まれたのだといわんばかりの自然さを主張していた。
以降、村長のもとで預かることとなった二人はすくすくと成長した。二人が自ずから両親について疑問を抱くまで、村人たちは真相を語らなかった。それが恐れによるものなのか、配慮によるものなのかは知る由もない。知ろうとも思わない。
「なんて言ったらいいのか、分からない……」
酒を片手に聞いていれば、笑い飛ばせたかもしれない。だが幸いにも俺たちは素面だ。その話を聞き入れ、手を差し伸べるための理性を持っている。
「でも、まだ終わりじゃないの」
「僕たちは探してるんだ。あの遺跡に取り残して来たものを」
驚くべきことに、二人とも、失ったはずの片腕が今もどこかにあると確信している。彼らはまるで肩から下に透明の腕があるかのような幻覚を持っており、それが時おり、ここではない遠くの場所で物に触れている感覚すら覚えるというのだ。
その場所というのが、村長の見つけた遺跡なのではないかと彼らは推測している。
「僕たちは案内役で門番でもあるから、自分で抜け出す分には問題ない。ただ、二人で得体の知れない遺跡に行く勇気がなくて……かといって、他の人に頼めることでもないし」
「なるほど……だいたい分かった。協力しよう。アサヒも、いいか?」
「うん! それくらい、いくらでも手伝うよ!」
「ありがとう! 本当に助かるよ。昔から気になってしょうがなかったんだ。あの遺跡は何なのか? 僕たちの親はどうして死んだ? この腕はどこに繋がってる?」
「その答えが全部見つからなくてもいい。でも、そこに手がかりがあるって信じてるの」
遺跡探索の概要を決め、今晩中に行くことを決意する。できれば他の団員にもあまり知られたくない内密の作戦だ。宴会が終わり、全員が寝静まるまで待つ必要がある。
「それなら大丈夫だ。ちょうどいい区切りがある」
「そうだね。いつも異言爺の語りがトリの演目になるから」
「……異言爺?」
首を傾げるアサヒに、アオゾラが遠くを指差す。
「うん。ほら、あの隅っこに座ってるお爺さん分かる? あの人はむかし降霊術の達人で有名だったらしいんだけど、引退してボケちゃった今でも、たまにここで霊を降ろすの。酒場に来てるってことはきっと誰かを降ろすつもりだよ」
「降霊術……か」
遺族の霊を降ろし、生前の人格を再現して会話させてくれる職業があるということは知っている。人の多い王都では需要が絶えないのだろう。だがその実態は、どうとでも解釈できる演技や幻覚を見せる類の祝福などで騙しているに過ぎないと聞く。
霊の存在を真っ向から否定したいわけではない。ただ、にわかには信じがたい話だ。
「それ、ダイチは信じてるのか?」
小さい声で聞くと彼は口を開けかけ、少し考えてから表情を改めた。そして俺の意図を察したふうに頷く。
「僕は本当だと思ってるよ。まあ、話で聞いてた通り、神がなんたらってことしか言ってなかったけどね。でもそれを聞いて、僕は父さんに会わないとってより強く思えたんだ」
彼の目には、顔も知らない親に会えた喜びと、その実態が外聞の悪い話と同じだということに対する失望とが、透けて見えていた。
「おおゥ、お客さん方! 縁上麓名物の、ひっく、異言爺が気になるかァ? 気になるよなァ? そうかそうか! そいつァよかった!」
「そ、村長」
前触れのない登場に俺たちは思わず肩を震わせた。両手に杯を携えた村長は、真っ赤になった顔を近づけて肩を組んでくる。強烈な酒の臭いが鼻についた。ダイチたちとの会話は聞かれていないようだ。
「あんの爺さんはよぉ、死んだ人を体のなかに蘇らせることができるってこったァ。どうだァ? すごいだろォ? そろそろ始まるからよォ、一回くらい聞いてけ聞いてけェ」
「その話ならもうしたよ」
「あァ? そうかァ? まァ、異言爺はああ呼ばれちゃァいるが、村のやつらの間じゃ結構当たってるって評判なんだ。ん~どれどれ……おっ、あそこに跪いたババアがいるだろ? ありゃァ、酒に酔い潰れたんじゃァねェ。異言爺を崇めてるんだよ。なぜかって? 爺がババアの死んだ孫を蘇らせたからさァ」
その言葉通り、黒い喪服に似た装いの老婆が老人に向けて両手を擦り合わせている。他にも、異言爺の足元にグラスを置いていたり、遠くからしきりに見てはそわそわしていたりと、それらしき人物は散見できた。酔っているような雰囲気ではない。
「よっぽど強く感銘を受けたんですね」
「あそこまでのはさすがに一部だがなァ。他のやつらも半々ってとこよォ。俺はまァ、酒の肴にゃちょうどいいってェとこだなァ。奇跡の夜を待つ、迷える羊……ま、酔える羊ってなァ! なんちゃってェ!」
「は、はあ……」
「難しく考えるこたァねェ。救いを信じりゃァ楽になれるんだぜ。神や霊がどうとかは見栄えを良くするための肉付けさァ。……どうだ? そう考えりゃァ、酒も一種の宗教だと思わねぇかァ?」
「村長! いい加減にしてってば!」
さすがに勇者本人にする話ではない。場所が場所なら侮辱の罪に問われかねない発言だ。
アオゾラに耳を引っ張られながらも村長は器用にグラスを傾けた。豪快な一杯を飲み干し、ぷはぁと一息吐いた顔が歪む。
「誰をいつ降ろすのか分からねぇとこが難点なんだなこれが。あんにゃろォ、十回中六回は昔惚れてた女を降ろしやがるんだぜェ。そのくせ毎回ちょっとずつ内容の違ェこと違ェこと……あーあ、俺のおふくろも早く降ろしちゃくれねェかなァ? どうせなら聖女みたいな感じでちっとばかしいじくってよォ! ガハハハハ!」
なんとも返答に困る言葉と酒臭い口を適当に押しのけ、件の老人を見返す。名物という言及に違わず、すでに多くの人が老人の周りを囲んでその瞬間を待っていた。
「ねーむれー、ねーむれー、ゆーめのなーかへおーいでー」
誰かが音程の外れた唄を口にした。酔った勢いで大声を上げただけかと思いきや、それに応える声が続く。
「「おーとなーはみれなーいゆーめだけどー、こーどもはみーるのさそーのゆめをー」」
「「「そーこはみーんなのあーそびばさー、せんぞもゆーしゃもせーぞろいー」」」
酔っぱらいたちの催促する声援が酒場に響く。声は徐々に伝染し、共鳴し、誰も彼もが口を揃え、肩を組み合う。
子守唄を連想させる詩だ。それでいて、どこか儀式の詠唱にも思える重なりが空気を揺らす。老人が、開けているのか閉じているのか分からない目をこすって立ち上がった。
「んー……む」
合唱が止まる。老人は天を仰いだ。淡い灯りに照らされ、細かいシワの数々が浮かび上がる。腕を広げる。ますます宗教的な雰囲気が色濃くなってくるように思えるのは、先ほどの話を聞いたせいだろうか。
腕を下ろすと、今度は壁際に立てかけてあった杖を取り、床を突き始めた。顔は上を向いたまま、口端からは始終寝言のような声が漏れ出ており、どこか都合のいい場所を探して杖先を動かす。誰も何も喋ろうとしない。数秒間の沈黙が漂う。
寝言と杖の動きが不意に止まった。「おっ」と期待の歓声が上がる。
「ああ、ああ。——む、どこだねここは?」
しわがれた声が言葉を紡いだ。
男は手を顎に持っていき、虚空を掴んだ。理解ができないとばかりに戸惑いを見せる。肯定的に解釈するとすれば、降ろした霊は生前に長い髭を蓄えていたのだろう。
「あの……あなたは、どちら様ですか?」
観客の一人が問いかけた。男はそちらを向き、酒場を見渡し、再び観客へ視線を戻す。
「今は、何年かね?」
「王国歴で千と十七年です。あの、あなたは」
「ふむ……?」
自らに突き刺さる視線を意に介す素振りもなく男は考え込む。もったいぶるようなその態度に、人々の我慢が募っていく。酒と夜の宴で昂っていた熱気が、かろうじて場の均衡を繋ぎ止めていた。
そんな中、俺は額にぴりりとした違和感を覚える。どうやら俺の祝福は、彼が先ほどまでの老人と同じ人物だということを否定しているようだ。この祝福に人を見分ける力があるかは不明だが、少なくとも、彼から発せられる情動と思考の色の変貌がそう思わせる。
客観的な見方をするにしても、曲がっていた背筋が伸び、立ち居振る舞いや呼吸の癖にも明確な差が表れている。もしもそれら全てを計算しているのだとしたら、あの老人は降霊術師よりも王国随一の演者として名を馳せるべきだったに違いない。
「ああ……よもや、この時代にもたれかかることができるとはな。会えて嬉しいぞ、我が子よ」
依然として男の目が天井の一点から離れることはない。男の声もまた、嗄れていて聞き取りづらいものだった。誰に向かって何を言っているのかなど、知る由もない。
しかし、余計なものの一切を無視して突き進む通りの良さが、広い酒場の隅々までその震えを届かせる。
端的にいえば、まるで俺の目の前で直接話しかけられているかのような感覚だった。
みな揃って身を硬くし、息を潜め、次の言葉をただ待ち構える。もはや誰も、男に野暮な質問を投げかける気を持っていなかった。
「……む? なんだ。ずいぶんと矮小な身で生まれたのだな。実に……実に残念だ」そうして吐き出すため息だけが元の老人の姿を彷彿とさせる。「足りていなかった。こうなると知っていれば、もっと王国を追い込んでおくべきだったな。やはり騎士団を潰せなかったことが響いたか……」
言葉が宙を舞う。煙草の煙と共に人々の頭上を巡り、何らかの形になりかけては、掴み取る前に消えてしまう。
お馴染みのことだと言っていたダイチやアオゾラも、村長も、怪訝な顔をしていた。理由は聞かずとも明らかだ。これはいつもと違う。誰かの家族でもなければ知人ですらない。
「それにどうやら余のことも覚えていないようだ。ああ、失敗した。誰の仕業だ? どの代が、余の悲願を断ち切った?」
ふっ、と火種が生き出づる。それは男から立ち昇る気配だ。音も熱も持たない。しかし感情の発露だ。黒々しい激情が熾り、天井の灯りが不規則に揺れる。
風、ではない。見えない何かに首筋を吹かれている。
男の影が不気味にたなびく。激情の熱にまるでそぐわない寒気を感じた。
「憤懣遣る方ないが、今さら遅い話よな。年代から察するに……五十六代目辺りか。余計なことをしてくれたものだ」
歯軋りの音がする。とても近くからだ。村長だろうか。他の村人だろうか。
それら全てで、そして俺自身だった。四方からぎりりと軋む音が聞こえる。血の臭いと苦咽の色が混じる。
身体が震えていた。自分のものではない感情に野ざらしになり、祝福の捉える視界が黒く塗り潰され、衝動を抑え切れない。
「まあよい。よいということにしておこう。まだ、余の悲願はまだ消えていない。
ああ——我が子よ。己の輪郭を研ぐのだ。存在の意義を削り出せ。世界の記憶はあいまいのなかに宿る。ゆえにこそ、余は答えを示してやれない。思い出すのは自分自身だ。そのなかに、成すべき本懐がある」
硬いものを臼でひいているような、あるいは喉の奥で低く笑っているような、気味の悪い音が遠く響く。
「……楽しみにしているぞ。余の遺志を継ぎ、新たな時代の魔王となるのだ」
それを最後に、黒い気配が解き放たれた。空気が元の色を取り戻す。
止まっていた呼吸を自覚し、辺りを見渡す。みな、息も切れ切れに顔を見合わせる。
「いまのはいったい……」
「オレたち、どうなってたんだ?」
「頭が、痛い……っ」
集団で同じ悪夢を見ていた。そう形容するほかない異様の雰囲気だった。
それはわずか二分ほどの短い時間だったが、酷い夢を見た後の、空気の不味さがこびりついている。背中の脂汗に張り付いた服。うるさい鼓動。震える手。
「気持ち悪い……」
ある者は口を押さえて酒場から出ていく。ある者は壁にもたれて項垂れる。到底、酒を飲んで騒げる状況ではなくなっていた。誰が宣言するでもなく宴会は幕を閉じ、各々の疲労を引きずって解散する。
「ぐがァー」
相変わらずというべきか、村長は酒瓶を抱いて床に寝転がっていた。きっと明日になればこの事も覚えていないのだろう。なるほど、酒は確かに救済の一つなのかもしれない。
「とりあえず、わたしたちも解散しよ。ごめんね、二人とも。なんか嫌なもの見せちゃった。あんなの初めてだよ……うぅっ」
「そうした方がいい。村長は……別にこのままでもいいか」
胸元を撫でながら「でも結局、誰だったんだろう」と呟くアオゾラに、俺は居心地の悪いものを感じた。掴みどころのないあの異言を理解した人はいないだろう。俺にとっても全く身に覚えのない文脈と内容だった。しかし、俺は見た。相手の心模様を覗き見る祝福は見逃さなかった。あの時、あの男の感情が俺に向かって首をもたげていたことを。
散らかったグラスや食べ物の後片付けは翌日の仕事となり、俺たちもそれに乗じて酒場を出る。遺跡の調査は予定通り行うが、ひとまず宿に帰ったという認識を団員たちに与えなければならない。それから二人の案内に従ってこっそり抜け出せば——
「——アキラ」
ふと、呼ぶ声があった。とても優しく、馴染み深く、けれどもどこか寂しそうな響きを湛えた声があった。何の違和感もなく振り返り、「どうした?」と言いかけ、それが記憶と当てはまらないことに気付いて口を噤んだ。
それが彼女の声などと、なぜそんなふうに思ったのか。そもそもの性別も年齢もかけ離れているというのに。
「今日は、手を繋いでくれないんだね」
「……は?」
俺は、まだ先ほどの黒い感情にあてられているのだろうか。それとも様々な出来事で頭が疲れ果ててしまったのだろうか。意識の明瞭さを感じながらも絶句を禁じ得ない。
「アキラ、大丈夫? 手、握ろうか?」
俺の異変に気付いたアサヒが前方の玄関から手を差し伸べた。
本物、だよな?
一秒に満たない躊躇いののち、俺は向き直ってその手を掴む。いつもの温もりが、竦んだ足を動かす力を与えてくれた。
振り返るな。後ろを見るな。アサヒはいま目の前にいる。それが事実だ。
だから考えてはいけない。
声がした背後、荒れ果てた酒場にはあの老人しか残っていなかったことなど、考えても無駄に決まっているのだから。