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みな誰かの裏切り者  作者: 森谷賢俊
第一章 『勇者が人々を見る時、人々は目を閉じる』
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第四話『息子』


 家に着いたのは、すっかり日が沈み、街の輪郭が緩やかに溶け込んだ頃だった。


「ただいま」

「ワウ」

「あら、おかえりなさい、アキラ。ラリスもね」


 最近はもっぱら騎士団の宿で寝泊まりしていたためか、家の温度と匂いがやけに懐かしく感じられる。扉を開けるや否や、なめらかなクリームの香りが鼻をくすぐった。大好きなシチューだ。


「手、洗ってからでしょ」


 背後からぷすりと言葉で刺され、鍋の中身を見ようとしていた手を直前で止める。母の支度している机の上には他にも色々な料理があった。いくつかの匂いが混ざり合って判然としないが、分かる範囲ではどれも馴染み深いものだ。

 酢と一緒に焼き上げた鶏もも肉のロースト、大きな葉の上にどろりと寝そべったオムレツ、にんにくとバターの染み込んだパン、トマトとチーズが交互に重なったサラダ——駄目だ、はやく手を洗って来なければ。


 言い表せない温もりに包まれて全身の力が緩む。ああ、朝の内に来ていればよかったな、と後悔した。

 数時間前に、街から少し外れた川で出会った信仰深い少女と一児の男を思い出す。ハルの言葉を思い出す。贅沢な料理の並ぶ机に、影は姿を現さなかった。

 手を拭きながら母の背中に言葉を投げかける。


「儀式、無事に終わったよ。ちょっと遅れたけど」


 母は他の人が見ても気付かない程度に口端を上げ、こちらを向いた。


「よかったね。今日は少し肌寒かったから。風邪はひいてない?」

「うん、むしろ暑いくらいだったよ」

「そう? でも、儀式ってほとんど動かないし、あの場所は無駄に広くて寒いって言ってなかったっけ?」

「あー……まあ、なんていうか、陽の光を浴びるわけじゃん。あれ眩しいし、結構暑いんだ」


 昼間の騒ぎは公表されていない。あの時に話し合った人たちにも、あまり口外しないでほしいとお願いしておいた。距離も遠いこの家で、勇者の家族といえどすぐに情報を仕入れることは難しいだろう。バレるなら遠征に旅立った後にしてほしいものだ。

 察しているのかどうか曖昧な、いつも無表情気味の母の顔が玄関の方を向いた。先にご飯を食べていたラリスも尻尾を振って歩いていく。少しして鈴が鳴り、扉が軋む。


「ああ、帰ってたのか」


 父が帰って来たようだ。手に何かを下げている。


「どっか行ってたの?」

「ちょっと彫り師のおっさんにな。ほら、これ貰って来たぞ」


 そう言ってずいと見せつけてきたのは、剣を腰に下げた男の木像だった。よく見ると足下には異形の怪物が倒れており、背景にも葉や藁の縄で独特の模様まで編まれている。

 これは、俗にいう勇者像だ。ああ、本当に朝の内に来るべきだった、と再びの後悔が襲い来る。

 どう考えてもただ貰ったものではない。おおかた、父がこの日に合わせて特注したのだろう。心なしか背が高いだけでなく、無駄に顔の辺りの彫りが深く、がたいも大きい。呆れと恥ずかしさでどうにかなりそうだ。


「要らないよ、こんなの」

「なんてことを言うんだ、アキラ! これはだな、素材にもこだわってて……ほら! この部分なんかうちの庭にある榊の枝が使われてるんだぞ!」

「ちょっと。もうご飯の時間なんだから、説明はあとでして。手も洗って」

「お先にいただきます」

「おーい!」


 息巻いて顔を押し付ける父とその胡散臭い説明を無視し、俺と母は食卓につく。五秒ほどどたばたと騒がしく走り回ってから父が席につく。洗った手を服で拭いたらあまり意味がないだろうに。


「ちゃんと見ろ! こことかどうだ? この額にある傷……あれはそう、昔、アキラが俺に走って抱き付こうとしたらタンスの角にぶつけた時のやつでな……」

「ふーん」

「外套は着せるかどうか最後まで悩んだんだよなぁ……なびかせたら絶対カッコいいんだが、戦闘時には邪魔になるから現実味がないというか……いやでも騎士団の制服は色付きじゃないと地味だし、ここは見栄え的にも捨てきれないなーって、思い切って街灯の背に騎士団の旗印まで入れたんだ!」

「そうなんだ」

「ああ、それと剣も迷ったんだ。儀式用の祭礼のがやっぱ良いけど、外套に加えてこれだとさすがに装飾が余計な気がするし……実戦用の無骨な感じの真剣の方が、なんかこう、ぐっと来るものがあるだろ? 鋼の質感というか、鋭い切れ味みたいな。質感で言えばこの黒眼鏡もそうだ! 内側の目が透けて見えるようにするか隠すかをだな——」

「——母さん、このニンジン切れてないよ」

「わ、本当だ。二倍でお得だね」

「じゃあ父さんのとこに入れとくよ」

「え? あ、ああ……あれ、話聞いてたか?」

「全部聞いた。顔を不敵に笑わせるか哀愁を感じさせるかで、結局冷徹にきりっと決める感じにしたんでしょ」

「それまだ言ってない……」


 しょんぼりとした父は肩を落として壁際の棚に勇者像を置いた。大きさや材質の様々な勇者像が数十体も並んだ光景は、魔物も泣いて逃げる最強の布陣だ。

 食事を終え、体を洗ってさっぱりすると疲れがどっと押し寄せた。どちらかというと精神的に大変な一日だった。触発されたとはいえ、勢いに任せてあんなことを街中で言うなんて。

 ただ、言ってよかったと思っている。自分の気持ちを吐き出せずにいたら、遠征中もずっと燻ぶったままだったかもしれない。根本的な問題が解決したわけではないが、胸の重荷は、それでも楽になった気がする。


 散々昂っていた父はその反動か、寝室で静かに寝ている。あれで普段はおとなしい人だ。

 まあ、ずっと騒がれても困るので別にいいが、少し拍子抜けしたのも事実だった。もっと、大げさに心配されるものだと思っていたから。


「——アキラ。はい、おまもり」


 感慨と共に沈んでいく瞼を、不意に開けるものがあった。

 母に渡されたのは、硬く冷たい懐中時計のような小物だ。手のひらにすっぽり収まるが、長い鎖が垂れても引っ張られないほどの重みを感じる。適当に触っていると上蓋がぱかっと開いた。


「……なにもない」


 二枚貝を思わせるそれの中身は、ただの空洞だった。時計どころか歯車一つ入っていない。しかし入れ物として使うには小さ過ぎる。入れ忘れ、ではないのだろう。


「それはご先祖さまから受け継いだものでね。もちろん私も、私の母も、祖母も……そのまた母と祖母も持ってたんだって。だからアキラも」


 そう言う母の目はどこか遠く、遥かを見据えている。それは過去かもしれないし、未来かもしれない。


「そんなに古いものなの?」


 どの角度から見ても、錆一つない銀の表面は光を鋭く跳ね返す。とても年代物には見えない。その意図を含んだ言葉に母は首をゆるゆると振った。


「おまもり自体は新しく準備したものだよ。さっきの木像と一緒にね。受け継いでるのは、その中身。なにもないけど……なにが入ってるかはアキラが決めて」


 母の両手が、おまもりを持っている俺の手をぎゅっと包む。温かい体温と、かすかな震え。

 いや、これは俺のものか。祝福は答えを教えてくれない。呼吸する気配だけが素肌に生きた感覚を与える。

 しばらくして母の手が離れる。ただ、心なしかおまもりの重みが増した気がした。


「頑張ってね。二人で待ってるから」

「……うん」


 明日、魔王を倒しに行く。今になって初めて実感が湧いた。

 この時のためにずっと準備をしてきた。俺だけではない。時と場所を越えて色んな人々が祈り、願い、夢見てきた。俺が想像しているよりも多くの、この目に入りきらないほどの景色のなかで。


「ちょっと散歩してくる」


 おまもりを首から下げて立ち上がる。身体の芯が熱くて少し冷やしたかった。

 喧騒から離れた山道を、虫の鳴き声とラリスの息の音だけが照らす。裏山の空気は冷たく澄んでいて、火照った頬が心地好い。

 空しさと照れ臭さのある夜だった。この時間にだけは、世界は輪郭と距離を覆い隠し、俺の見る景色を他の人と同じものにする。


 丘の先端から街を眺めると、地面に沈殿した王都の黒い輪郭が鍋の底を思い起こさせた。

 ふとイメージが湧いた。俺は小屋から諸々の道具を取り出し、夜景がよく見えるところに置く。固まっていた筆を持ってきた水で解かす。やわらかい筆触りがいつもの感覚を呼び起こす。ラリスは足元に寝転んで鼻をひくつかせていた。


「平和だな。……護らなきゃな」


 ——数多の星はおぼろで、ほろほろと崩れながら一面の夜空に溶け出す。

 それは熱が通ったという合図だ。すぐに三日月のへらで掻き混ぜる。ゆっくりと、満遍なく。

 空がぐるぐると流転する。混ざり合った空は、静かで優しく、なめらかに夜を包み込む。

 朝日がやって来るのを待ちわびて、静寂しじまのなかで眠りにつく——


「……うん、完成だ」


 道具と出来上がった絵をせっせと小屋に仕舞い、一息ついてからラリスを手振りで呼ぶ。鼻先が青くなっていた。

 帰り道は、手は震えていなかった。




 その夜の夢には色が伴わなかった。透き通った意識を半歩ほど夢見心地に戻せば、記憶のなかに感じたのは誰かの声音だ。


「なんだっけ……あの唄……」


 もやもやした感覚がそれ以上の探りを拒む。次第に、何を思い出そうとしていたのかすら忘れてしまった。

 できるだけ音を立てないように騎士団の制服に着替える。何百回、何千回と繰り返してきたこの場所でのこの行為も、殊更、特別なものに思える。冷えた空気を軋ませながら、扉を開く。

 まだ日も昇っていない時間だが、そろりそろりと部屋を出ると父と母が待ち構えていた。


「いってらっしゃい」

「気を付けるんだぞ」


 俺はおまもりを首にかける。


「うん。いってきます」


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