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みな誰かの裏切り者  作者: 森谷賢俊
第一章 『勇者が人々を見る時、人々は目を閉じる』
3/19

第三話『みんなの勇者』

 杖を地面に強く叩き付ける。風が吹き上がり、丈の長い礼服と髪がふわりと舞う。そういえば髪を切るのを忘れていたな、と意識の隅で思い出した。

 この目の弊害かは知らないが、俺は自分の外見にあまり興味を持てない。いつもアサヒに任せてばかりの髪も、しばらく多忙だったせいか腰まで伸びている。

 まあいい。この街の風を感じながらゆっくり考えよう。この場所とも、当分はお別れなのだから。


 自ずと足は軽やかな音律を刻み、高所へと俺を運んでいた。置物と木とを飛び乗って屋上に爪先を付ける。遮るもののない陽の光が、追ってくる青年に影を落とす。暗がりにあってもなおその獰猛さを失わない眼光が瞬く。


 俺は全速力で屋上から飛び下りた。吹き付ける風と明るい温もりを浴びながら演習場とは反対の方向に駆け出す。教会の見える公園を突っ切り、雑木林へ。

 自然には情報が多い。見え隠れする木漏れ日、踏み締める根の感触、騒がしい虫の呼び声、花の甘美な誘い。音を鳴らせば木々が応える。風は道を縁取る。全てが己の存在を主張し、俺の居場所を教えてくれる。これも立派な対話の一つだ。


「ああっもう、なんだよこの蔦は! 帰れ帰れってさっきから誰だコラッ! 風か⁉ やかましいぞクソが!」


 もちろん、対話を怠ったりやり方が分からなかったりすれば、それらは障害物となる。魔女の庭でもあるこの雑木林では特に自然との対話が重要になってくるのだ。比喩としても、それ以外でも。

 背後に新鮮な悲鳴を置いて俺は杖先で木の幹に触れる。やわらかく、ぼよんとした感触が返って来た。山火事対策として自ら水を吹く木は、十数年前に創られたものだ。実際に機能している場面を見たのは一度しかない。それも知り合いの調香師が祝福で火を熾した時に誤作——


「——うわっ」


 唐突に、顔をなにか冷たいものが襲った。いや、答えは分かっている。水だ。今しがた通りがかった木が吹いた水に、俺は直撃したのだ。

 目が開けられなくなること自体にあまり影響はないが、突然の出来事に足が絡まり、無理解が生じる。俺の認識が正しければ、この木は近くの炎の気配に反応して蓄えていた水を吹き出すという仕組みのはずだ。しかし今の場合はそれに該当しない。


「祝福か……」


 肌に感じる風と空気の冷たさから、火を生み出す類のものではないと分かる。仮に火の祝福だったら直接当てた方が効果的だろう。わざわざ水の噴射を引き起こしたのは、彼の有する祝福が火そのものでなく、木の活性化を促すような力だということの証左だ。


「変な小細工は逆効果かもしれないな」


 ここで時間を稼ぐという当初の予定をすぐに破棄し、俺は雑木林を脱する方向へ首を回した。演習場は視界が開けているため、逃げ場として相応しくない。教会および魔女の家の周りは仕掛けだらけなので論外だ。少しの間、葛藤が頭に渦巻く。

 計画は変更するが、これはこれで悪くない。むしろこちらの方が良い気すらしてきた。


 足裏で叩く大地が、土と草の柔らかいものからレンガの硬い感触に変わる。雑踏と雑音が前方から吹き付けるのと同時に、視界の情報量が途端に増え始める。しかしそれは精密さと正比例しない。左の頬に当たる太陽の熱は頻繁に見え隠れし、杖の反響もあちこちに枝分かれする。人通りが激しい街道だ。

 ここを視覚に頼らずに走るのは難しい。数多の音と匂い、光、そして人の気配が無造作に乱反射する。自然と質を異とする別世界の秩序だ。


「待ちやがれ! オイっ!」


 平穏な街並みに猛々しい声が突き刺さる。距離はそう遠くない。足取りに戸惑えば捕まるのは一瞬だ。騒がしくも忙しないこの場所では、感覚よりも記憶が際立つ。

 日頃からラリスと一緒に散歩する道、いつも洗剤を入れ過ぎるおばあさんの家のベランダ、王国に伝わる伝説の剣を玩具にせがむ子どもたちの遊び場、物心ついた時からずっと放置されている広間の隅の盛り上がった石畳——どれもが俺にとっては馴染み深く、目で見るまでもなく分かる記憶の断片だ。


 今日のように天気が良い昼下がりの噴水の前には、愉快な道化師が現れる。わずかな静寂の後に訪れる歓声を傍目に、左側の緩い坂を駆け上がれば音の密度がより濃い場所が出てくる。

 大げさな宣伝文句と数字の羅列が行き交う狭い路地だ。人は少ないが、彼らは不都合なことに商品を足元に展開している。踏み違えれば多額の弁償金を請求されるだろう。だから俺は、それらを見下ろす街灯の上を飛び移って先へ進んだ。乱暴な罵倒と、神経質な掛け声が下から聞こえる。


「——っせえな! 踏んでねえっつってんだろうが! 邪魔だ!」商人たちの手を振り払い、ハルが鬼の形相でこちらを睨む。「……ていうか、テメエもなに平然と民を盾にしてやがんだ! それでも勇者かテメエ⁉」

「さっき君が言ったんだろ。使命なんて放り捨てろって」

「こんのヘリクツ野郎……っ!」


 彼は無差別的な悪人ではない。鋭利な憎悪を向ける先は決まっており、その復讐の対象に、市民は含まれていない。額を掻きながらそう直感していた。

 怒れる猛獣を引き連れたまま、街灯からベランダへ、ベランダから路地を一つ隔てた家の屋根へ、屋根から階段の手すりへと順々に飛び乗る。


 風を切り、人混みを飛び越した先に広がるのは王都の城下町を一望できる高台だ。高台の横には塔がくっついており、その頂上を見上げれば鐘楼の鈍色が鋭く陽の光を跳ね返している。勢いに任せて頂上に足をかけ、持っていた杖を突き出した。

 鐘の音が重く波打つ。それは鳥の羽ばたきを止め、いつも通りの日常を謳歌する人々と街を叩き起こした。何事かと空を見上げる数々の視線。強かな反動に腕が痺れ、耳が虚無に浸る。

 そして風の流れに身を投げ出した。足下を支えてくれる地面が消え、視界に王都の景色が満ちる。世界の輪郭を感じる。自由の鼓動を感じる。


 俺は息を大きく吸った。


「王の馬鹿野郎————っ!」


 内臓も魂も全てを吐き出してしまうつもりで、喉を切り破り叫び放った。

 反響するな。真っ直ぐ飛んでいけ。民よ、全て聞き届けて受け止めろ。


「ケチ! ハゲ! ボケ老人————っ!」


 両腕を思い切り広げる。視線と風が顔に当たる。

 凄まじい速度で地面が近付き、人々のざわめきが膨れていることくらいは見なくても分かった。杖を一瞬だけ塔の壁の凹凸に引っ掛け、弾かれた勢いを利用して空中で姿勢を変える。足を下に向けることに成功した。あとは壁を蹴り付けて木の枝を掴み、手首を捻りながら川に身をねじ込む。

 数秒間の浮遊感、やがて薄い板を割るような着水の衝撃。身体はたちまち上下のない空間に投げ出された。冷たい感触が全身を包む。手足を懸命に動かして光を感じる方へ這い上がる。


「ぷはあ!」


 新鮮な空気が心地好い。水を含んだ髪と礼服はずっしりと重く、俺の身体を再び引きずり込もうとする。適当に水気を絞り、顔を拭う。


「ハッ! 今のは良かった! ちゃんと言えるじゃあねえか、見直したぜ」

「え?」


 感嘆を湛える声があった。思ったよりも早い到着だ。まさか、同じように飛び降りたのだろうか。息は切れている。しかし彼が現れたのは街の方からだ。近くに着地の衝撃を和らげてくれるほどの深さの水源はない。俺の逃走経路を予測できていたのでなければ、その答えは一つだろう。

 俺は焦らずに黒眼鏡をかける。


「……便利な祝福だね」

「手の内は明かさねえよ。黙ってオレに捕まれ」


 ハルが距離を詰める。確かな足取りには疲労の気配がない。

 ちらと窺うと、剣の輝きは鞘に付いた水滴を淡く照らしていた。そろそろ時間のようだ。


「にしても、テメエ、さっきのは聞かれちゃマズイんじゃねえか?」

「ああ、それなら君が言ったことにするから大丈夫」

「は? ——っづあ!」


 呆けた隙を狙い、俺は剣を振るった。儀式用の、それも鞘に入ったままの剣だ。本来ならば大した打撃にもならないが、それを奪い取ろうとしていたハルの手は反射的な防御姿勢との齟齬をきたし、硬い音を立てて弾かれた。骨に響くような感触に、思わず俺自身も顔をしかめる。


「クソが……いい加減に、しろ、よっ!」


 手数に任せた攻撃が来る。感情的で焦りの目立つ動きだ。かなり動揺しているらしい。荒々しい性格だが、案外こういった闘いには慣れていない様子だ。

 俺は意識して冷静を保つ。なにも、考えることは多くない。腕や胴体を狙った手は受け止め、剣を掴もうとした手は叩く。これだけだ。

 それを両手、杖、剣の鞘で不規則に切り替えながら打ち返せば、相手は瞬時の選択を次々と迫られる。左と右がごっちゃになり、拳と手のひらが絡まり、攻と守が逆転する。


「ふ——っ」


 冷静を保とうとする頭とは裏腹に、心臓は脈打ち、身体の末端に熱が灯っていく。額に火花が散る。目で見なくても相手の一挙手一投足が解る。数秒後の姿が脳内に投影される。もはやそれは単純に見えているということ以上の超感覚だった。

 数十回と打ち合う音が連続した末に、ハルの左手が危うげながらも鞘の中心を掴んだ。

 俺は、すでに意識を剣の柄に向けていた。頭のなかで考えていることが言語化されるより先に、身体が動く。剣を勢いよく引き抜くと、ハルの身体を支えるものはもうない。


 鞘だけを掴んだまま彼が背中から倒れ込む。

 俺は返す刃をその首筋に突き付ける。

 両者の動きが止まる。

 散る葉が顔の間を過ぎる。

 剣身は、暗く沈黙していた。


「……負けだ」


 ハルが両手を上げて降伏の意を示した。俺は深く息を吐き、立ち上がる。熱はいつの間にか全身に広がっており、汗が背を伝う。水に濡れた部分と区別がつかない。勝ったは良いがとても不愉快だ。


「誰か落ちたぞ! こっちだ!」

「さっきの叫びはなんだ⁉」

「魔物の侵入か⁉」


 頭を整理する暇も与えずに、騒ぎを嗅ぎ付けた人々の足音が近付いて来る。

 心臓は鳴り止まない。ハルと闘っていた時と同じ高さで鼓動する。


「あれっ、勇者様だ! その前にいるのは……ハル王子?」

「でも、今って儀式の時間じゃなかったか? なんでここに?」


 続々と、声と足音が近くに密集する。驚き、疑い、心配する視線。ざわざわと不躾な注目が、いつもの嫌な感触が全身を撫でまわす。


『失望、されちゃうな』


 俺の形をした影が囁いた。こいつは俺が思っていることを包み隠さずに言ってしまう。


『俺の出番か?』


「いや、いい」


 手で払うと影は消えた。

 そもそも、この事態は俺が自ら招いた結果だ。元よりこうするつもりだった。今さら引き下がれない。太腿を強く叩いて勇気を鼓舞する。


「俺を見ろ。俺も、見るから」

「……あ?」


 俺は杖を持った右手を前に出し、周囲に聞こえるように地面を叩いた。


「俺は——俺は、月次(つきなみ)アキラ。騎士団の分隊長で、……勇者だ」


 人々のざわめきが徐々に小さくなる。普段は口数が多い人でも、勇者の伝説の前では自ずと口を噤んでしまう。それが、古来、この国に根付く勇者信仰だ。今だけはその偉大さに感謝しなければならない。


「急になんだよ? テメエの顔と名前ぐらい、誰でも知ってるだろうが」


 怪訝な顔をするハルの背後には、多くの目と耳がある。ざっと見たところだと二十人ほどだろうか。

 この辺りの人々にとっての水源は、広場にある上流の方だ。山の斜面に面したここは道が一本しかなく、幅も狭い。どのみち、帰りの上り坂を重い水を担いで戻るはめになるため、もっぱら洗い物や水浴びの場として使われている。大勢は来ないだろうと予想していた。

 二十人という数は、その予想より少し多かった。


「みんなも知ってると思うけど、俺たち騎士団は明日未明、遠征に出る。魔王討伐のために」


 快晴のもと、昼下がりの暖かさはどこに行ったのか、今は俺の声だけが空しく響いて霧散する。誰も聞いていないのではと錯覚するほどの静寂は、むしろその逆だ。

 俺の言葉には字面以上の重みがある。

 口ごもるな。唇の震えを悟らせないように。胸を張って自身の無力を語れ。


「ただ……実を言うと、俺は勇者じゃないと自分で思ってるんだ。もちろんみんなの期待を裏切るつもりはない。逃げるつもりも、毛頭。でもその偉業に足る器があるかと聞かれたら、どうだろう。よく……わからない」


 何度も何度も考えては口に出せなかった想いを吐露する。いつも脳内で添削して整えているはずの言葉選びや言い回しが、こういう時に限って思い出せない。だがこの期に及んで止まるわけにもいかない。沈黙を埋めるように、俺は言葉を継ぐ。


「あなたたちの信頼がこわい。世界の命運を分ける救世の主役が、なんでよりにもよって俺なんだって死ぬほど思った。みんな、まともに会ったこともない俺なんかに命を預けてる。……どうかしてるよ。こんな——」

「——撤回してください」


 喉が、息が詰まった。

 緊張の糸で保たれていた雰囲気を切り裂き、人混みの中から姿を現したのはまだ十歳ほどの少女だ。


「今の発言は、いくら勇者さま本人といえど到底許されざる内容です。撤回を」


 形の不揃いな髪に、あまり裕福とは言えそうにない簡素な服装。幼く鼻にかかった声。

 しかし、毅然たる態度で言い放ったその顔に冗談や侮辱の色は見えず、あくまでも純粋に、勇者信仰を尊ぶからこその言い様だということが伝わってくる。幼いながらも肝の据わった子だ。きっと頭の切れる才媛なのだろう。


 その後ろに老婦が立った。いや、立ったという表現はいささか適さないかもしれない。というのも、老婦はほとんど屈んでいるような姿勢にまで腰が曲がり、それを支える手と杖は小刻みに震えている。

 そしてだらりと垂れた反対の手には、擦り切れて原形も見取れない教典があった。


「勇者信仰は我が島樹の国に代々伝わる由緒正しき神話です! 初代国王、いにしえ様曰く——『千歳(ちとせ)の空が巡るころ、勇ましくも気高い救世の者が現れる。最も純潔な光がその者の手のなかで輝き、ともに先の見えない闇夜を払ってくれるだろう』と。

 知っていますよね? 先祖の方々が積み上げてくれた伝統や信仰も、全部が勇者さまに懸かっています。かつてよりこの大陸に巣食う魔王と魔物を倒し、我々に害為す悪を根絶する……そのためだけに先人たちが時代を重ねて備えてきたんですよ!」

「それが……それが重いんだ! 魔王を倒さなきゃいけないのは分かるよ。でも俺は、別に勇者じゃなくても倒しに向かっていた。誰でもいいだろ、そんなの! 平和になれるなら俺じゃなくても!」

「よくないです! 勇者さま以外に、それを成し遂げられる人はいません! 勇者さまはわたしたちの特別なんです!」


 頭に血が上る。しかし少女に八つ当たりをしても仕方がない。彼女は何も間違っていない。

 これだから子どもとの対話は苦手だ。子どもを相手にしていると、自分の正しさを教えなければならないような気がしてくる。相手の言い分がどれだけ理に適っていたとしても。

 思い返せば、騎士団に入り、教会や孤児院の子どもたちと一緒にいた時もそうだった。自分が年上だというだけで偉い気がした。そんなことはない。


「俺の何が特別なんだ⁉ 祝福もまともに授かってない……こんな俺より強い人なら騎士団にいる! みんな、信仰に頼り過ぎじゃないのか⁉ 勇者だから魔王を倒せるんじゃなくて、魔王を倒した人が勇者になるべきだ! 本質を見失ってる!」

「本質は、教典と遺物が示しています! その祭礼の剣が陽の光を放つことが何よりの証、祝福を超えた恩恵に違いありません! 自分が特別じゃないなんて、特別な人が言っても何の意味もない! それは王国の歴史を否定する発言です! 勇者さまはもっと、選ばれた栄光と責任を自覚するべきです! 背負うべき責任すらも持てない空っぽの人なんて……そこらじゅうにいるのですから」


 そっと、老婦が優しく少女の頭に手を置いた。持っていた教典が落ちる。目は虚ろで口は何も言わず、ただ宥めるように髪を撫でる。毅然と開かれた少女の丸い瞳はかすかに震えていた。

 少し言い過ぎたかもしれない、と思いさしてすぐに感情を引っ込める。相手が幼いからという理由で一歩下がるのは、対話を諦めることと同義だ。


 目を逸らすな。向き合うべきだ。でなければハルに偉そうに説教をしておいて、勝負を持ちかけた俺の面目が立たない。

 しかし、これは感情の問題だ。正しいだけの理屈とはどうしても行き違ってしまう。


「勇者様。少しよろしいでしょうか」そんな中、列を割り、今度は一人の男が前に出た。「私は井渓(いたに)と申します。私には勇者様と同じくらいの息子がいます。妻は出産と同時に他界したので、男手一つで育てているところです。もし、息子が勇者だったら……そう考えると、誇らしくもあり、同時に心配でもあります。偉業を成し遂げることより、健康で幸せに長生きしてほしい。私と妻の特別なのだから、全員の特別になる必要なんてない。私はそう思います。……申し訳ありません」


 彼は丁寧な口調と振る舞いで、上げていた手をすっと下げる。その薬指には光るものがあった。そして、見つめる瞳のなかに、先ほどの少女と同質の感情が過る。


「勇者の使命を代わりに背負ってくれてありがとう、なんて口が裂けても言えませんが、私たちを護ってくださっていることに対する感謝の気持ちに嘘はありません。私たちが勇者様と同じ時代に立ち会ったからには、それを伝える役割があると思うんです。

 ただ……今は生活が苦しく、親子揃って祝福も地味なもので、家の外へ思いを馳せるだけの余裕がありません。国王様の統治がああだこうだと散々文句を垂れておきながら、私たちだって預言の上に胡坐をかき、先人たちの積み重ねたものを食い潰している始末です。おかげで勇者様への献納や応援物資は日に日に減っていくばかり……みな、預言の時さえくれば魔法のように全ての苦境が覆ると本気で思っているんです」

「そんなことは……」


 男は首を横に振る。


「情けないと心底思います。自分よりも若い子に世界の命運を押し付けるなんて、みっともないと思います。でもこうするしかないんです。盲目に信じていないと、足元が覚束なくなるから……」


 周りの大人たちがバツの悪そうな顔を並べる。細かい表情の変化や事情は分からないが、なぜだかその気持ちが自分のもののように胸を突いた。それは、ハルと打ち合っていた時の感覚に似ている。


「私たちにできるのは祈り願うことしかないですが、そうしている間は心穏やかでいられるんです。配慮が足りず申し訳ありません。勇者様にとってそれが負担になるというなら、誰にも見られないところでやります。しかしそれとは別に、どうか感謝だけは伝えさせてください。勇者だからではなく、騎士団として国を護ってくださって……私の家族に今をくださって、ありがとうございます」


 そう言い、彼は深々と頭を下げた。他の人たちも、ちらほらと頭を下げている様子が見える。

 少女は、何かを強く訴えかけるように服の裾をぎゅっと握って、こちらを真っ直ぐに見つめてきていた。その視線を受け止める。黒眼鏡を外す。

 光が、差す。


「分かりました。俺も……自分も、配慮が足りてませんでした。ごめんなさい。みんなの勇者でいるのはこわいけど、使命を果たしたいとは思ってます! 本気です! だから絶対に逃げない!」目を瞑り深呼吸する。額に感じる熱が、すっと沁み込んで溶けた。「弱々しいことを言ってすみませんでした。もう、大丈夫です。きっと……いつか! 期待に応えてみせます!」


 意を決して開けた視界には、色彩鮮やかな模様が層々(そうぞう)に広がっていた。人々の不安や怒り、謝意、そして信頼が、ふわふわと漂っている。本来ならば見えるはずもなく、感じ取るには繊細過ぎる機微の数々だ。


 そこでようやく理解する。

 相手の考えていることが分かる祝福。字面ほどに万能ではないその力は、しかしこのためにあったのだと。

 俺は少女に近付き、膝を折り、目線を合わせた。潤んだ瞳に淡い色が差す。


「ありがとう。君のおかげで大切なことを自覚できた。俺は、勇者だ。絶対に魔王を倒してみせる」

「……そんな覚悟で、出来るのですか」

「今までと同じく、出来るって信じてほしい。俺も、俺を信じれるように頑張るよ。魔王とだって、今みたいに話し合ってでも解決してみせるさ。約束だ」


 小指を差し出し、しっかりと繋ぐ。これは戒めだ。


「チッ……」


 感動している横顔に舌打ちを吐いたのは、そばで黙って眺めていたハルだ。彼は剣の鞘を乱暴に手渡す。


「出頭する。煮るなり焼くなり好きにしろ」

「……え? 急にどうしたんだよ」

「別に。テメエを見てたら、なんだか自分が馬鹿らしく思えてきたんだよ。ほら、素直でいられるうちにさっさと捕まえろ」


 言いながら、ハルは両手を前に差し出した。


「いや、いいよ。言っただろ? 勝負に負けたら、出直して来いって」

「王への侮辱と、反逆行為だぞ。神聖な儀式の邪魔もした。自分で言うのもなんだが、野放しにしていいわけがねえ。そもそも、テメエの一存でそんなこと……」

「曰く、魔王は勇者にしか倒せない。つまり平和が訪れるまでは王も勇者を裁けない。俺が無茶を言っても大丈夫だ、たぶん」


 もちろん冗談だが、今回の件を丸く収めることはそう難しくない。問題なのは王や騎士団よりも時長たちの方だろう。なんとか遠征までにのらりくらりと言及を避け、世界平和を土産として持ち帰えるほかない。そうすれば彼らは、支援者としての報酬と時代の転換点という機会に乗じて、勝手に神経戦を繰り広げるだろう。


「正気かよ」

「結果的に怪我人もいないし、儀式は……またやり直せる。雨天で剣に光すら宿らない、とかよりは断然マシだよ」

「……テメエ、さっきとはまるで別人だな。うすら気味悪いぜ」

「感謝の言葉として受け取っておくよ」俺は陰った剣を鞘に納め、腰元に佩き直す。「ああ、でも、そうだ。怪我人は一人いたんだった。だから君にはやってもらわないといけないことがある」


 わずかに顔を硬くして身構えるハルに、俺は眼鏡を再びかけながら笑いかけた。


「絨毯の掃除はちゃんとしとけよ」


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