第二話『盲目の奴隷』
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玉座の間には厳かな雰囲気と絨毯が敷かれていた。馴染み深い騎士団の面々がせっせと動いて準備している。話し合う声はなく、多くの足音と物音、そして右側の窓から斜めに落ちる光筋だけが上質な糸の隙間に沈み込む。
祭祀や儀式の際によく用いられるこの空間は細長い聖堂のような形をしており、奥に祭壇を置いている。それ以外の装飾はほとんどない。狭い面積に対して大勢の人がぶつからずに動けているのはそのためだ。
そもそも、規律正しく動くことは騎士団にとって難しいことではない。鎧の代わりに礼服を身に着けた団員たちは、連携をとりながら着実に場を整えていく。
かちゃかちゃと順々に進められるそれは料理の感覚に似ていた。
定刻まで大きな余裕を持たせて、準備が完了した。それを示すように、十二ある分隊が玉座を向いて隊伍を組み始める。団長と副団長を中央先頭に、分隊はそれぞれの冠する数字が低い順に右から整列する形だ。いくつもの部品が破綻なく噛み合う音がする。心地好い音律だ。
やがて、重々しい足取りが不規則に響いた。振り返るまでもなく場の空気が引き締まる。険しい眼光と相応の年輪のシワをその顔に刻んだのは、時長と呼ばれる重臣たちだ。分隊長と同じく十二名からなる彼らは騎士団に属さず、文官や国営施設の管理人など特別な権威を握っている。隊伍の左右を挟んで六名ずつ立ち並んだ。
そこに、舌打ちが二つ。ちょうど俺がいる右の壁際で、隣り合った老婆と身なりのいい紳士が睨み合っている。前者は孤児院の院長と宮廷祝福師を兼任する通称『魔女』、そして後者は教会の神父さんだ。日常風景なので誰も指摘しないが、時と場所くらいは弁えてほしいものだ。
衣擦れすら憚られる時間が流れた。どれほどの静粛が続いたろうか、太陽と時針が中天を指し、鐘の音が鳴る。今までの全てを黙って見ていた国王が袖で風を切って立ち上がると、蝋燭の火が掻き消えるかのように、太陽の真下に位置する玉座の間はしばし暗がりを宿した。
島樹の国、五十七代目国王、千住トモヒト。
百を下らない視線が、赤と白の礼服に注がれる。王は口を開ける。
「——勇者よ、前へ」
段取りとして決まっていた言葉に、しかし鼓動が激しく揺すぶられた。この感覚だけは何度経験しても慣れることがない。全ての視線が今度は俺の方へ向けられる、その前奏だ。
俺は思い切り目を瞑り、感覚を絞り込んだ。一拍の深呼吸。瞼を上げた時、目の前には俺と同じ背格好をした影がいた。それに向かって心のなかで話しかける。
「呼ばれてるぞ、勇者」
『いやお前だろ。現実逃避すんな』
同じ顔と声で、影は呆れたように返した。
「幻影本人にそれ言われることあるのかよ……現実見たら、お前消えるだろ」
『そっちの方が精神的には健全なんじゃないか? 目が悪いからって、そう軽々と幻を呼び出すんじゃねぇよ。こういう時だけ便利だな』
「めっちゃ言うじゃん」
停滞した時間感覚のなかで、二人だけの会話が行き交う。出来るだけ外部の情報から目を逸らして影に集中すればそれが途切れることはない。
「とにかくさ、いつもの頼むよ」
『我ながらめんどくさい奴だな……』
頭を掻きながら影が先行して列を出る。俺もその背中を追いかける。
足を踏み出すと同時に、どっと混色の視線が全身に突き刺さった。痛いというより重い。
いや、彼らが見ているのは勇者(影)だ。そう言い聞かせて俺はその後ろをついていく。
それでもこめかみを小突く視線があった。だが、不快ではない。
「大丈夫だよ」
二分隊の前を通る時、先頭に立つアサヒの、白く透き通った瞳がそう言った気がした。視線を外したのはその瞬間だけだった。俺は長く息を吐きながら国王の前まで歩く。
『ちゃんと見て真似ろよ。——赤き心をその手に灯せ』
「赤き心をその手に灯せ」
影は俺の理想通りに動いてくれる。あれが本物の勇者だと思って、そのまま真似するだけだ。何も難しいことはない。
儀式用に作られた刃のない剣が、二振り、腰元に掛けられている。まず右手で左の剣を抜き、切っ先を天へ向ける。それを縦に構えたまま、ゆっくりと顔の前の高さまで持ってくる。
次に左手が右側の剣を掴む。抜き出した剣は大きく反時計回りに弧を描き、足元に来たら手首を返して同じく顔まで持ってくる。互いの柄頭が触れ合って一本の長い直線をなす。
それを見計らい、裏で待機していた者が細い紐を引いた。玉座の後ろの壁に被せられていた布が外されて光が差し込んでくる。同時に鼻腔をくすぐるのは甘い白檀の香り——アサヒと一緒に調合したもの——だ。少しだけ気分が和らぐ。
演出として焚かれた煙が揺蕩い、視界を覆う。真っ直ぐに差し込んだ光はそれを貫き、掲げた剣先へと届く。影の姿はすでに見えない。自分の姿も隠れると思えば負担は少ない。
光が剣に満ちていく。鋼とは異なる半透明な材質で鋳られた剣が陽の光をその身に蓄えると、まるで俺が光の束を素手で掴んでいるようにも見える。俺は両手を少し傾け、右手の剣で十時の方向を、左手の剣で二十分の方向を指した。これは天体観測に用いる円環型の機器を模した形だ。
ざっ、ざっ。
絨毯を靴裏で叩く音に集中する。それは玉座の方から発せられ、徐々に近づいて来る。国王が煙を晴らし、騎士団の徽章を掲げて出て来たら俺は剣を納める。脳内の想像は完璧だ。音もなく消えた影に内心で拍手を送りながらその時を待つ。
「……?」
ふと、足音がしていないことに気付いた。煙はいまだ晴れず、王がその姿を見せる気配もない。いつからだろうか。ちょうど今だった気もすれば、すでに十秒以上が経過している気もする。
分からない。冷たいものが首筋を伝う。俺が何かを間違えたのか?
直前までの行動を思い返し、何度も合っていることを確認する。大丈夫だ。この状況で間違っているとしたら、それは王の方だ。
自身の不遜な考えに脳内で言い訳をするのと瞬間を同じくして、硬く弾ける音が響いた。
音の出処はすぐに分かった。この時間この空間において、唯一、光を通す入り口——玉座の後ろにある窓だ。無数の光を細やかに反射しながら、飛び散ったガラスの破片が煙を突き破る。光の粒が、あるいは波が吹き抜けた。
小さな破片が絨毯の柔らかさに埋もれる中、一つの足音だけは不躾に鈍い衝撃を知らせた。明らかに王のものではない。何者かが侵入してきたのだ。
「よお、ハリボテの王サマ。それと盲目の奴隷ドモ」
男の声だった。刺々しく、所構わず周りを威圧する凶暴性。年齢と背丈は俺と同じか少し下くらいだろう。声そのものに祝福由来の特殊な作用はないように思える。すでに催眠にでもかかっていたら話はまた別だが。
「くだらねえごっこ遊びはそこまでだ。全員、オレを見ろ」
「もう見ているよ」
俺が緊張と動揺で動けないでいる間に、四つの気配が空を切って迫った。その勢いで煙が吹かれ、侵入者の姿を白日の下に晒す。長い外套を被り、顔を隠した青年が、陽光を浴びて佇んでいる。
そして彼の眼前には死が突き付けられていた。
「動かないで。貴方はすでに四度、殺されている」
青年のうなじに裏手で真剣をあてがう細身の女性は、冷たく低い声でそう言い放った。長い藍の髪が慣性で刃に乗り、その鋭利さと共に艶めいて枝垂れ落ちる。彼女こそがラビオ騎士団を束ねる紅頂点、黄玉アマネ騎士団長だ。
さらに副団長のヒロミさんと第二分隊長のアサヒ、そして時長のなかで唯一の武闘派たる神父さんが、青年を囲うようにして各々の武器を構えている。それぞれ首筋、右腕、足首、胸部——無力化を狙い定めた一撃の寸前の姿勢は、まるで彫像のように美しく、紛うことなき致命の瞬間とその造形を切り取っている。
「……ああ、そうかよ」
青年は手に持っていた短剣を落とした。四人の殺意に曝されて最も簡単なのは両手を挙げることではなく、自身の武器を手放すことだ。彼の選択は正しい。その判断力があって、どうして儀式中の玉座の間に突っ込んできたのか。
「まあ落ち着けよ。オレだって話し合いをしに来たんだ。用があるのはテメエラもだが……一番はそこでふんぞり返ってる王サマなんだからよ」
「君、立場を分かっているのかい? 君はもう死んだ身なんだ。弁明とか説得とか、そういう過程をとうに過ぎている」
「だったらさっさと殺せばいいだろ、副団長サン。それが出来てねえのが何よりの証拠だ。テメエラの正義感が形だけってことのよお」
「ここは儀式の場。自分の死体も片付けられない人間に死ぬ資格はないわ」
「そして、テメエラには人を殺す勇気と名分がない」
挑発の目つきで団長を睨み付けながら、青年が身じろぎする。手が刃に触れかけたが、紙一重で回避した。いや、回避したのは刃の方だ。ヒロミさんが剣の位置を一定の間隔で保って当たらないようにしている。
「ハッ! ほら見たことか。結局、これも全部見かけだけの演出ってことだろ。何の意味もねえ。失せろ」
「……全員、武器を下ろして」
静かな命令に三人が応える。青年の目前から武器が離され、鞘の中に戻る。一触即発の空気がわずかに霧散した。
「どうした、素手で取っ組み合う度胸もねえか? 剣を握るだけなら赤子だって出来るぜ」ひらひらと手を振りながら、青年は居丈高に歩き出す。「素直で結構。テメエラは黙ってオレの言葉を聞いてりゃいい」
「貴方の言う通り、わたしたちは貴方を殺せない。ヒロミ、目を」
「あ? な——ぁっ」
藍の髪が再び靡いたかと思うと、それはふわりと青年の頬をくすぐった。至近距離に刺すような視線が迫る。掴まれたと、おそらく彼がそう気付いた時にはすでに身体が宙を舞っていた。団長は全身を低く滑り込ませながら半回転し、そのまま青年を背中越しに投げ飛ばす。
だが、為すすべもなく床に顔面から落ちゆく青年の姿を、ヒロミさんの体で視線が遮られた国王は見ることができない。思わず見惚れるほどの美しさと目を逸らしたくなるような痛々しさがぶつかり合い、ぐしゃりと鈍く響く。
咄嗟に青年は鼻を押さえるが、指の隙間から零れ落ちる血を止められない。
「ぶがっ……いっ、イカレてんのか、アマぁ……っ⁉」
「絨毯と同じ色だし、目立たないでしょう? まだ死んでもいないのだから、あとで掃除しておきなさい」
「ヂィッ……」
団長が手を鳴らすと、ようやく場が正しく混乱し始めた。ざわざわと騒ぎが膨れ上がり、鎧を纏った兵士たちが青年を連れ出そうとする。
「オイ放せ! やめろ、クソ! オイっ!」
大柄の成人男性が五人がかりで彼の頭と四肢を掴む。それでも彼は暴れ回り、段々と大きくなる怒号が玉座の間を満たす。
「テメエラはそれでいいのかよ⁉ ふざっけんな! オレは許さねえ! そいつの……禿げ頭のジジイのせいで、先代の国王は死んだんだぞ!」
やけに大きく響いた声に、嫌な沈黙が流れた。数十の視線は自然と一カ所へ——王の顔貌へと集まる。
目元は力なく垂れ込み、千波万波に揉まれて残ったシワが層を刻んでいる。すっかり色の抜け落ちた髪と曲がった首や腰も相まって晩年の老翁を思わせるが、その齢は百の半ばにも満たない。俺の父親とそう大差ないはずだ。
王は自身の頭に触れた。前髪から後頭部までを何度か手で確認して首を傾げる。色褪せて白に近い金の髪はまだ健在だ。禿げ頭という呼び方は不適切かもしれない。
ただ、重要なのはそこではないだろう。おふざけとも抗議ともとれないその反応をどう捉えればいいのか、こちらとしては測りかねる。王はあまり喋らないのだ。
「なんで母サンを殺したんだ、クソジジイ! 魔王なんかより、先に倒さなきゃいけねえクズがいるだろ! そこに!」
「言葉に気を付けろ、不届き者が! 暴れるんじゃない!」
青々しい怒号が響き渡る。場はすっかり異様な熱を帯び、事態は収拾される時機をとうに逸した。
「オレは千往ハル! 王の血筋を継ぐ男だ! オレを見ろよ……千往トモヒト!」
千住ハル、確かにその名は王家の一員だ。誰も正体に気付かなかったという衝撃と、彼の言い放った言葉が沈黙をもたらした。
先代国王、千住アスカ。彼女はおよそ十七年前に突如として失踪した。夫だった当時の騎士団長、月見里シュウスイと一緒に姿をくらましたことから、彼の拉致や暗殺ではないかと噂されている。未だに消息は掴めておらず、事の真相は不明だ。
そんな事件の責任をなすり付けられた国王は、大声に怯む様子もなく、何もない空間を見上げ、しばし思案したのち、合点がいったとばかりに息を吐いた。
「あぁ……確かに、母親そっくりだな……」
やや間のある抑揚の言葉に、空気は張り詰めていて重い。ひび割れた声がずっしりと鼓膜に沈み込む。突き刺さるいくつもの視線はその先を促す要因になり得ない。ハルの震える口が問う。
「何がだ」
「あやつも、生前はよく言っていたぞ……」
一呼吸、耳がひりつく。
「戯れ言を」
そして最も静かな瞬間が訪れた。
「は」
誰かが息を吐いた。周囲の人々も自身が思わず呼吸を止めていたことに気付く。ぷつりと、緊張の糸が取り返しのつかない段階まで引き千切られ、抑えつけられていたものが解き放たれる。むず痒い感覚に前髪が吹かれた。
俺は儀式用の剣を王に向けて投げつけた。
「——母サンに詫びろ、そしてテメエは二度と口を開くな」
兵士を突き飛ばし、ハルが王の目前まで迫っていた。冠を戴いた薄い金髪の前で火花が散る。派手な金属音が耳朶を叩き、空気が明らかな危険色に染まった。俺の投擲した剣に突撃を妨げられて彼が舌打ちする。その手にはいつの間にか短剣が握られていた。
「団長! 外へ!」
叫び、俺は駆け出した。まだ血も乾いていない絨毯を踏み締め、剣を拾って王とハルの間に身体を割り込ませる。
彼の注意が俺に向くが早いか、団長が背後から手を伸ばした。しかし、彼も同じ失態を二度と犯すまいとする勢いで振り向いた。翻った外套が彼の姿を完全に隠す。
「手品でもあるまいし、見えないだけでしょう?」
「……チッ、脳筋女め!」
死角から突き出された短剣の腹を手の甲で弾き、そのまま外套ごと腕を掴んだ団長が一瞬だけ俺を見る。俺は頷いた。
再びの投げは不届き者を割れた窓の外へと放る。投げ飛ばされながらも、赫怒を湛えたその形相が全てを睥睨する。黒眼鏡越しに照り付ける敵意と逆光を辿って俺も後を追った。窓際に飛び乗り、前屈みになりながら口笛を吹く。
広い敷地を誇る王城の果てまでその音は届く。飛び降りた先に、そいつはいた。
「バウアッ!」
「よし!」
駆け寄るラリスの口から杖を受け取り、三度、先端で地面を叩いた。ここはとても身近な空間だ。反響音と記憶を照合するのに時間はかからない。頭に思い描いた想像図が視覚に出力され、不完全な世界の像を補完し、結び直す。俺の目には、王城の敷地内の景色が鮮明に映っていた。
「邪魔するな! そこまでして国のイヌに成り下がりたいのかよ!」
景色の中心にひと際大きな色彩の塊があった。赤黒く煮え滾るそれは怒号と騒音を撒き散らす。
「君だって、伝えたいことを伝えられずに罪人になりたくはないだろ」
「馬鹿言いやがれ! 聞く耳がねえヤツには何言ったって伝わんねえ、よっ!」
力んだ声に合わせて首を傾けると、風切り音と共に何かが飛来した。背後の壁に突き刺さった音からして例の短剣だろう。そう簡単に自身の得物を手放すとは考え難い。もう一つ、いや、二つほどは隠し持っていると踏んで行動する。
「だとしてもだ。やり方ならいくらでもある。これは一番悪い方法だよ」
「だったら教えてくれよ! テメエラは、常に最善の方法で動いてんのか? 今回の魔王討伐の遠征、あのジジイが金をケチったせいでなかなか苦労してるらしいじゃねえか」
「……どこでそれを」
周囲に人影はない。この会話が誰にも聞かれていないということを確認する。
「巷じゃみんな言ってるぜ。あの王はダメだ、民に負担を課せてばかりで生活が苦しいってな。騎士団も例外じゃねえんだろ? 聞いた話だと、遠征の資金は時長頼り、しかも経由する村にほとんど無償で食と宿を提供させるんだと。勇者サマの力になれる栄光が報酬ってのはよく考えたもんだ。反吐が出る」
ハルの言葉は滞ることなくすらすらと流れ出る。彼が反抗的な態度を取ることは城内でも有名だ。そして俺はというと、口を挟むことができなかった。その反応から真偽のほどを察したのか、彼は唾を吐いて歩み寄る。
「テメエラは死ねって言われたら死ぬのかよ。偉いヤツの言うことは絶対か? あるだろ、不満がよ。自分の意見はどこに捨てて来た? テメエの命と世界の平和が懸かってんだろうが。あんな禿げ頭の言うことなんざ聞いてるうちにゃ無理だぜ、魔王討伐なんてよ」
ひゅんひゅんと、鋭利な小物が空気を裂いて回る音がする。言葉の鋭利さが増していく。
「クソみたいな詭弁家ドモは口がよく回る。だから同じ言葉じゃ歯が立たねえ。立てるのは刃だ」
「……君の言う通りだよ。王には、正直、不満がたくさんある。王にだけじゃない。俺は毎日心のなかで誰かに愚痴を言ってる。自分にもだ」
空気の質が変わり、ハルの瞳のなかに共感の色が差す。
「ほう? それがみんなに信じ崇められてる勇者サマの本音か? 人間らしくて結構じゃねえか」
「君は……いい人だな。気が合いそうだ。ぜひそのことをみんなにも伝えて……いや、やっぱりやめてくれ」
「窮屈なヤツだな。どうだ? 理解者ってことで、勇者の使命なんか放り捨ててオレと一緒に王を倒そうぜ」
「それはできない相談だ。暴力に頼りたくはない。対話を諦めたらいよいよ戻れなくなる気がするから。今、君と話していて改めて実感した」
「否定はしねえよ。だが対話を先に放棄したのは向こうだ! 誰も魔物を説得しようとは思わない。話が通じねえからだ。効果的な対処法は復讐すること。テメエラの掲げる正義だって、突き詰めれば悪への復讐だろ。オレにとっての魔王がアイツなんだよ!」
「だからといって、それをみすみす実行させるわけにはいかない。俺たちは分かり合える」
「誰が信じるかよ。オレの復讐を止めるんじゃねえ」
だから道を通せと、ハルは言外にそう示す。その心情も理屈も、単なる狂人の世迷い言には聞こえない。口調や見かけによらず、彼は心の奥底でひどく冷静な人間だ。
しかし、線引きの基準が相容れないことはもはや明白だった。彼の正義は、俺にとっての悪の領域に一歩踏み入っている。だから立ち塞がるほかない。
「俺は騎士団の一員だ。王を護り、君を止める」
「……どうやら、オレたちも言の葉よりこっちの刃の方が雄弁っぽいな」
開始の合図は、決闘や演習にあるような掛け声よりもずっと小さい音が告げた。耳と肌と文脈でそれを捉えれば、見えないはずの速度で飛んで来る短剣が視界に映し出される。姿勢を低くしてその直線上から逃れ、俺は距離を詰めた。
「気が早いって」
勝手に通じ合った気になられても困る。
俺は手のひらで彼の視界を遮り、一瞬の硬直の間に足を引っ掛けた。不意を突かれ、それでも耐えようとするもう片方の足を杖で払いつつ、腕に体重をかける。こうして直に触れてしまえば目で見るまでもない。近接戦闘は得意分野だ。
共に石畳の地面に倒れ込み、覆い被さる形で彼の動きを封じた。小さい武器を取り出す猶予も与えない。耳元で嗚咽が吐き出される。
「クソ……! 目が悪いんじゃなかったのかよ! それとも魔法か⁉ 聞いてねえぞ!」
「『魔法』って言葉は魔王を連想させて不吉だから、少なくとも王城ではちゃんと『祝福』って言ってくれ。それにそもそもの話、君には勝ち目がないだろ。玉座の間には騎士団と時長が揃い踏みしてる。全員の目をかいくぐって王に触れることなんて指一本できないよ。さっきのだって、俺が止めなくても他の団員が止めてた」
「ごちゃごちゃうるせえよ! 話はもう終わりだ!」
「俺はまだ終えてない。だから、君の復讐の理屈は俺に通用しない。聞いてくれ。一つ、勝負をしよう」
拘束を振り解こうと動く彼の関節を抑えつけながら俺は静かに言う。彼の冷静な部分はまだ残っているはずだ。
「君が勝ったら、王に会わせてやる。もちろん騎士団の邪魔なしにだ。だけど俺が勝ったら、君は出直してこい」
「出直す? 処刑の間違いだろ……っ」
「いいや、言葉の通りだ。そして、次は暴力以外の方法で王と対話しろ」
小馬鹿にするような笑いが零れる。
「……形になってねえな。もっとまともな嘘を吐けよ」
「君にだけ都合が良すぎるから? だったら安心してくれ。この勝負はちゃんと俺にも得がある。というか、むしろ君を利用させてもらう」
「ああ……?」
「俺と勝負をするか、無視して騎士団全員と戦うか。好きな方を選べ」
灰の瞳が真っ直ぐに射抜いて来る。怪訝な色と敵愾心、その向こうから覗くのは、好機を狙う理性の光だ。
「勝負の内容は?」
俺は腰元の鞘を軽く揺らす。
「さっき溜め込んだ光が消えるまでに、この剣を俺から奪うことだ。二本の内、片方でもいい。猶予はあと十分くらいある」
十分、それは人を理解するのに丁度いい時間だ。
俺は頷いたハルからゆっくり体を起こす。準備の時間を待たずに奪いに来るかと思ったが、俺が決闘の際に規定された距離を取るまで、彼は無言で待ってくれた。
腐っても王族だ。短気なところを除けば、割と礼儀を兼ね備えているのかもしれない。儀式中に奇襲を仕掛けた時点でそれもどれだけ納得できるかは怪しいところだが。
「それじゃあ始めよう」