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みな誰かの裏切り者  作者: 森谷賢俊
エピローグ 『赤心の龍』
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第十五話『本物に近い勇者』


 目を覚ますと、滝口が間近にあった。俺は立ち上がる。

 途中まで手記を読んでいた記憶はある。いつの間にか眠ってしまったみたいだ。長い、長い夢を見ていた。途方もなく気が遠くなるほどの悠久の果てを見ていた。


「アキラ!」

「……うん、ただいま」


 地上に足を付ける。すかさず飛び込んだアサヒを受け止め、現実の感覚を取り戻した。こうして乗り越えて来た地層と時代の上に、俺が立っているということを実感する。

 実際の時間はあまり経っていなかった。負傷した仲間たちを安全な場所に移し、魔王城へ向かう人員を確認していたところらしい。三十八名だった遠征隊は二十四名まで数を減らした。それでもとうとう辿り着いたのだ。最後の決戦地が目と鼻の先にある。

 俺は遺灰と亡骸を安全な場所に保管し、ラリスに番をさせた。装備を整えて団員たちの前に立つ。


「みんな、腹ごしらえをしていこう。お腹空いてるだろ?」


 王都から戻る際、両親に渡されたものを懐から取り出した。シチューだ。大した量はないがパンと一緒に食べればそれなりに空腹を紛らわせられるだろう。

 いつかの記憶が蘇る。ひと月に満たない期間なのに、やけに昔のことに感じられた。多くの出来事があった。人生で最も濃密な三週間だったことには間違いない。あの時より傷は増えて装備もかなり欠けてしまった。総括し指揮を執っていた二人が戦線を離脱した。

 それでも、お腹が空いた時に食べるシチューは美味しい。まろやかで少し濃い塩味が身に沁みる。苦いコーヒーも今は喉を滑らかに流れていった。


「いよいよ最後の戦いだね」


 アサヒが傍に腰かけて目を伏せる。空を見上げ、傾けた体を後ろで支える手が触れた。

 高く聳えていた険峻な山々を越えると、その姿を現した夜空は、見慣れた色を瞬かせていた。決して手の届かない輝きを散りばめ、心をこうも魅了しておきながら、遠くから見ることしか許さないそれが憎たらしい。


「ごめんね、アキラ」

「うん?」


 指先が軽く弾む。心地好さげに、恥ずかしげに。


「アキラが人狼だって疑われた時さ。私、何も言えなかったから」

「謝るのは俺の方だよ。アサヒを傷付けたのは俺の方だし、そもそも人狼の疑いだって正しかったんだから。こちらこそごめん」

「それでも謝りたかったの。気持ちは正しさで片付けられないから」

「……じゃあ、受け取っておくよ。信じてくれて、ありがとう」


 かすかに潮の匂いが漂う。海が近いのだ。

 八十七夜(やそあまりななつ)の深奥、大陸における最東端に魔王の城は位置する。王国が定めた地名によると、ここは夜明けというらしい。魔界のくせに洒落ているなと思ったら、どうやら騎士団の前身となった古代の調査団とやらが付けた名前なのだとか。

 この地が魔に染まる前は、日の出を眺める特等席だったのだろう。


「アキラ。あのさ……アキラが人狼だってこと、私だけは昔から知ってたって言ったら……信じる?」


 俺は思わずアサヒの方を振り向いた。彼女はじっとこちらを見つめている。不意にそれが外され、上を向いた。俺もつられて空を仰ぐ。


「私ね、虹を見るのが好きだったんだ」


 生憎と暗い夜空は虹を映さない。代わりに見える星の光を、俺は目を薄めて想像した。


「雨はジメジメして嫌いだったんだけど、空が晴れて初めて綺麗な虹を見た時、すっごく感動してね。子どもだった私は、世界にある色は全部、あの虹から零れ落ちたんだって思ったの。私も虹みたいに色を分けて、人を元気にさせたいって心の奥で願った。そしたら発現したんだ、祝福が。ふふ、可笑しいよね。将来になりたいものが虹って」

「そんなもんだよ。俺だって虹の隙間を通れると思って追いかけてたし、その時の将来の夢は勇者だったな。本当になれるとは思ってなかったけど」


 ささやかな笑い声が俺たちの間に木霊する。確かにアサヒが魔法の触媒として使う香水は、土や植物を連想させるものが多い気がする。あれは雨の匂いだったのか。


「でも私、祝福はあんまり使わなかったの。子どもながらにそれが稀な力だってことは薄々気付いてたから。そのせいで怖がられたら嫌だなって。そんな中でアキラと知り合って、目が不自由だって知ってから使うことを決心したんだ。

 やっと人の役に立てる。どんな反応をするんだろう。喜んでもらえたらいいな。そんなことを思って使ったら、自分でも加減ができなくて。……五感を共有するどころか、私の意識そのものがアキラに入っちゃったの。

 そこで、アキラの身体が私とは根本的に違うことに気付いた。これは人間じゃない。人の形をした別の何かだって。祝福は時間経過で勝手に解除されて戻れたんだけど、そのことだけがずっと頭に残ってたんだ。人に化けた狼が人を襲うっていうお話の絵本が家にあったせいで、余計怖くなっちゃって」


 俺のなかで燻ぶっていた疑問が、唐突に開錠される音がした。


「あっ! もしかして、一時期、アサヒが家に籠って出てこなくなったのは……」

「うん。そのせい。あの時は混乱してて、周りの家族とか友だちも、全員偽物なんじゃないかって妄想してた。祝福は当然封印。私だけ本物の人間。誰も信じられない。ずっと騙されてて、いつか食べられちゃうんだ。嫌だ、嫌だって。なんとか平和に過ごせる方法を考えたの。でも熟考は答えを導いてくれない。答えの候補を増やすだけだった。なんかもうどうでもよくなって私は外に出た。いっそ仲間のフリをしとけば食べられないかもって」


 一息の呼吸が挟まれる。感情を込めた迫真の口調というわけでもないのに、淡々とした言葉は静かに頭に染み込む。追想がぽつりぽつりと思考を湿らせる。


「で、ある日、私が持ち出した剣のせいで、アキラが勇者だってことが明らかになった。最初は人狼じゃないんだって安心したけど、アキラが大人たちの期待に押し潰されそうになってるのを見て、すごく心が痛くなったんだ。それで私、重要なのは見た目とか生まれじゃなくて中身なんだって思い直したの。アキラが私と違うからって、何か悪いことをしたわけじゃない。そもそも私が本物だっていう証拠もないんだし」


 彼女は後ろ手に爪をつつき、躊躇いがちに指を絡めてくる。


「でも自分の内面って自分じゃ案外分からないもんでしょ? だから今度は疑いが捩じれてさ、むしろみんなが普通なのに、私だけ、自分が人間だと思い込んでる外れ者かもしれないって思い始めて……キリがないよね。まあ、病んで塞ぎ込むほどじゃなかったけど。それでも大きくなって分隊長になっても、なんならほんの数日前まで、漠然とした不安が心の片隅にあった。アキラが人狼だとして、じゃあ私は一体なに? 人間って、なに?」

「……」

「だから、アキラが自分の正体を知っても受け入れて戻ってきてくれて、すごく、すっごく嬉しかったんだよ私は。おかげで私も自分に向き合える、そんな勇気が出てきた」


 肩より少しだけ長く伸びた髪を揺らしてアサヒが振り返る。素直に褒められてなんだか気恥ずかしさを感じ、俺は目を逸らした。薔薇を思わせる甘さのなかに清涼な香りが通る。


「そういえば、副団長、言ってたね。アキラに監視を付けるって」

「まあでも、元からずっと一緒にいるしなあ。結局いつもと同じじゃない?」

「同じじゃないよ。私がアキラを監視するんだから、アキラも私のこと、ちゃんと意識しないと」

「別に、隙を見て逃げ出すつもりなんてないけど……」


 仮に逃げ出したとしても、それっぽい理由を付けて庇ってくれる様子が目に浮かぶ。そういう人たちだ。


「大義名分もできたとこだし、頑張っちゃおうかな」アサヒが立ち上がり、ぐっと背筋を伸ばしてこちらを見下ろす。「アキラが、もっと私に盲目になれるようにね」


 彼女に手を引っ張ってもらって俺も立ち上がる。握った手は温かくて柔らかい。


「だから、いつもと同じなんだって」




 大地を踏み締める咆哮が、夜の静寂を切り裂く。

 松明を持って蛇行する列は、さながら炎を纏った龍のようだ。重たく沈んでいた微睡みの淵を燦然と灯し上げ、勇猛と犀利を以て叩き起こす。


「我らはラビオ騎士団

 円環を敷け 刻の針のうつろいを掲げよ

 前進は天照らす左目となり

 夢想は月読みて右目となれ

 四季と想の巡る上随(かみながら)

 ()(とき)(みち)を切り拓き

 天地の知る辺をいま示さん

 赤き心をその手に灯せ」


 魔王が居を構える紡錘城(つむしろ)は、山とほとんど同化した自然の要塞だ。常夜の色を吸い込んで黒く淀んだ山肌に、細長い城がもたれかかっている。それでも見失わずに済むのは天を突く周囲の岩稜が鈍く煌めいているためだ。風化した黒曜石のように鋭い鏡面が光を乱雑に跳ね返し、歪な輪郭を見る者の心象に突き刺す。

 龍は、それを真っ向から叩き伏せた。衰えることの知らない火勢で闇を干上がらせ、征途を開鑿する。大いなる息吹が門を貫いた。


「怯むな! 進め!」


 硝子の砕け散る音が反響する中に雄叫びが雪崩れ込む。勇者たちの行進は、いくつかの扉と壁を突き破った先でようやく止まった。最も広く、何もない吹き抜けの広間だ。全面を覆った氷が、距離と方向の感覚を狂わせる。

 俺は団員たちを制止し、アサヒと手を繋いで前に出た。壁の亀裂が天蓋まで走ってぼろぼろと崩れ落ちる。砂埃の中を、透き通る月差しが垂直に落ちて来る。


 月次(つきなみ)アキラが、そこにいた。


「世界の平和について話し合いに来たよ。初めましてじゃないよな、本物の月次アキラ」

「……これが話し合いの態度か? 原始の時代にまで戻したつもりはなかったのだが」


 呆れたように頭を掻きながら彼は玉座から立ち上がる。継ぎ接ぎの襤褸を纏い、杖を突く様はひどく緩慢だ。目が不自由だからではなく、単純に身体を支えるための動作に思えた。顔もどこか疲弊気味で年老いて見える。


「さっそくだけど、君は魔王じゃないんだよな?」

「ああ。魔王は千住(いにしえ)アスカ……俺たちの母親が殺した。俺が勇者としてここまで辿り着いた時には、すでに城はもぬけの殻だったよ」


 彼は特に隠す様子もなく答えた。それが受容の態度を示しているのかどうかは、まだ測りかねない。


「じゃあ、なんでそこにいるんだ? 王都に帰らないのか?」

「王都にも王国にも俺の居場所はない。お前なら分かるだろ。裏切られたからだ。歴史に、民に、仲間に。……そして他でもないお前にだ、逆景色(にわたずみ)ユウヒ」


 震える手で一直線に俺の隣を指す。アサヒは目を逸らさずに向き合っていた。


「最初の時代で、俺はあらゆる期待と信頼を背負って勇者を全うした。全うしようとしたさ。でもお前らが俺を突き放したんだ」

「気持ちは分かるよ。俺は人狼ってことで散々な目に遭ったけど、それがなくてもここに来るまでのどこかで、勇者信仰のしわ寄せは来てただろうね」

「お前は悪くない。俺たちは被害者だ。無垢で無知で無責任な奴らの贄だ」彼はこちらへ手を伸ばす。「今すぐにそこから離れろ。そいつらはお前を道具としてしか見てない」


 その目は、最初に出会った時のハルや百代の神に似ている。復讐の目だ。

 本物の月次アキラがそういう考えを持っているだろうことは簡単に予想できた。俺の記憶のなかに彼のものはほとんど褪せて残っていないが、過去に何度か接触した際の言動からある程度は察せられる。

 彼は勇者にも魔王にもなれなかったただの人間だ。まだどちらにも染まり切っていない。だからこそ、俺は魔王がいないと知っていながらこうしてこの場に立ったのだ。


「いいや、違うよ。俺たちはかけがえのない仲間だ。互いに信頼し合ってる。裏切られることなんか、ない」

「裏切るさ。俺は何度も見てきたんだ。煮え湯を飲まされて無様に死んでいった月次アキラを。勝手に期待して勝手に失望して、都合よく切り捨てる奴らの本性を、何度もな」


 俺は首を横に振る。


「月次アキラ。魔王は死んだ。世界は平和になるための覚悟が出来ている。だからもう戦う必要もない。俺は、俺たちは君と話をしに来たんだ」


 彼は鼻にしわを寄せ、露骨に不機嫌な顔をしてみせる。決して悪くない反応だ。話を聞く姿勢があるということなのだから。


「まず、お互いの目線を同じ高さにしたい。俺も君も、答え合わせが必要なはずだ」

「答え合わせ? 俺が知らないことを、お前が知ってると? 逆ならともかく」

「そういうことだ。君は他人の信頼を知らない。これからそれを理解してもらえるよう、説得するつもりだ」

「ふん……好きにしろ」


 俺は頭の中で推論を構築する。話す内容は、みんなにもすでに伝えてある。


「俺が聞きたいことは一つ。どうして時代をやり直すんだ? 君の言うやり直しは、時間を遡ってるわけじゃなくて……そう思わせてるだけだろ」


 彼の眉がぴくりと動く。否定の声はない。


「疑問だったんだ。時代をやり直してるのに、どうして消えたはずの記憶が俺や人々を惑わすんだろう? 記憶や想いは時を越える? それはそれで詩的だけど、多分違う。時間はずっと進み続けてるんだ。だから実際には今までの記憶が全部積み重なってる。やり直されてるのは表面的な記憶の方だ」

「よく分かったな。正解だ。俺はこの大陸全土に同じ時代の景色を思い出させることで、疑似的に時を戻してる。記憶はあらゆる所に宿るらしい。壊れた建物や死んだ人間もそれで元通りだ。世界そのものが思い込むわけだからな」

「その手段は?」

「夢だ。あそこは意識の垣根を壊し、記憶を整理するための力場だ」


 やり直しの詳細までは知らなかったが、それが魔法の効果的な媒体なのだろう。曰く、魔法は明確に定義されない。曰く、人間には過ぎた代物だ。勇者信仰という偽の宗教を生み出すために、王国全土の歴史的な認識を改変した前例だってある。

 縁上麓(えんじょうろく)角干(すみぼし)で経験した記憶の共鳴もこれではっきりした。異言爺は死者を呼び寄せるのではなく、過去のやり直しの記憶を自身に被せただけだった。百代教は古代の宗教ではなく、道を踏み外した俺が時代の最後に築く新興宗教だった。角干の暴動も同じだ。元より関連する記憶の多い住人たちはもちろんのこと、記憶に敏感な俺も一緒に巻き込まれた。


 ともあれ、やり直しのからくりは明らかになった。同時にそれは直接的な時間の遡行と別の意味を指し示してくれる。


「ただ、そうやって錯視させてるだけとなると、一つ矛盾が生まれる。君が外からやり直しを観測してる限り、新しく始まる過去の景色からは月次アキラという人物がいなくなるんだ。その空白を埋めるために、自分になりきってくれる分身を作った。……人狼の分身を」


 それが俺という二人目の月次アキラの正体だ。おかげで出自がかなりややこしいことになってしまった。

 そして実はもう一人、やり直しにおける例外がいる。千住アスカだ。彼女は記憶を完全に維持する魔法によって暴走する特異存在と化していた。矛盾が露呈しなかったのは、その凄まじい執念から始終魔界にとどまっていたためだ。世界が何度もやり直されていくなかで、月次アキラの他に唯一、地続きに時間感覚を保っていたのが彼女だろう。保っていたという言い方はやや不適切かもしれないが。


「つまり記憶は全部消えずに残ってる。その積み重ねが結果を変えたんだ。俺はもう迷わないし、自分を否定しない。俺はみんなに望まれて俺がなりたい勇者になれた」

「やり直しが始まれば、どうせまたすぐに忘れて迷うだろうさ」

「そうかもしれない。でも最終的には辿り着くはずだ。今いる仲間たちと一緒に、こうしてこの場所に」


 本来の月次アキラと、人狼の月次アキラは分離した。数多くの失敗と絶望を経験し、その上で希望を見出したのはこちらの方だ。俺と彼はそれぞれの解答を持っている。


「月次アキラは裏切られてなんかない。それを知ってほしい。君が人々を信じ切れなかったから、自ら可能性を閉ざしたんだ。答えてくれ。時を戻して、何をする気だ?」


 月次アキラはしばし黙ってこちらを見つめ続けた。彼が何を思っているのか、今の俺には分からない。魔法は意識的に使わないことにした。

 相手は自分自身だ。この世で最も遠い他人に、真っ向から挑みたいと思ったからだ。

 ため息を吐く音が聞こえたかと思うと、彼はひどくつまらなさそうな表情で顔を斜めに傾け、こちらを見下ろした。


「無いと言ったら、お前は信じるか?」

「ないって、何が?」

「お前が期待してるような、ご大層な理由なんか無いって言ってるんだ。目を醒ませよ勇者。お前もさっき言ってただろ。魔王は死んだ。輝かしい英雄譚の最後を飾る立派な悪役なんてもういないんだ。時を戻す理由? 別に戻さなくたって構わないさ。俺を裏切った奴らを殺したいとも思わない。そもそも戻りたくもない。強いて言うなら、存在しない魔王に怯える阿呆どもが可笑しいってことくらいだな」

「……本気で言ってるのか?」

「なら話は終わりだ。お前は話し合おうなんてほざいておきながら、所詮は自分の用意した答えが返ってこないとそれを否定する。自己満足のごっこ遊びはお仲間同士で勝手にやるんだな」


 襤褸がばさりと翻る。明確な拒絶の意思が背中越しに伝わって来る。

 急な反応だった。俺としては、今のが本心だとは思えない。何か裏があるはずだ。


「アキラ」それを呼び止める声があった。「待って。過去に何があったのか……あなたの時代の私が何をしたのか、今の私は知らない。でも信じてほしいの。私が月次アキラを心から信じてるってことを」


 胸に手を当ててアサヒが訴えかける。月次アキラは何も言わない。振り向きもしない。アサヒの足音が一歩ずつ場内に響き、近寄って行く。

 手を伸ばせば触れる距離になって彼女は立ち止まった。


「私ね、相手を知るための第一歩は、自分を知ってもらうことだと思うんだ」


 そう言ってアサヒが手を差し伸べた。鼻をくすぐるのは、ほのかに漂う爽やかな香り。甘味と酸味が調和し、背中越しにそっと寄り添う。

 月次アキラが悪鬼の如き形相で素早く振り向いた。すぐに後ろへ飛び退り、身を屈める。右手は胸元を強く握っていた。


「お前、なにをした……っ!」

「聞こえる? 私の鼓動の感覚を、あなたに共有した」


 大きく目を見開き、彼は玉座の後ろから何かを引き抜いたかと思うと、アサヒ目掛けて振り下ろした。アサヒは動かない。微笑んだままの顔に鋭利な影が落ちる。


「ちぃっ!」


 影は寸前を横切り、衝撃が床を抉った。飛び散った破片が月の眼下で舞い上がり、横顔を照らす。睫毛が微かに震える。

 振るわれたのは剣だった。粗く鈍い音から、それがすでに腐食して壊れかけのものだということが分かる。さらに随所には、騎士団規定の支給品とは異なる装飾があしらわれていた。陽光を失い、歳月の波に蝕まれてはいるが間違いない。勇者の信仰と共に王国に代々受け継がれて来た遺物だ。


「祭礼の剣……もう一つあったのか」


 よく考えてみれば、実在しない伝承の象徴として準備された剣が、五百年もの間、本来の輝きを保つことは困難だ。王族の魔法を以てすればあるいは可能かもしれないが、状況を鑑みるに、勇者を見分けること以外に特殊な仕組みなどないのだろう。


「おい、このくそみたいな音を俺のなかから消せ! 耳障りだ! さもなくば心臓を引き裂いてでも——」

「——いいよ、アキラになら。でも」

「っぐ…………ぁぁ‼」


 月次アキラが飛び掛かる。暗がりの中に無数の銀閃が迸り、さながら太陽の周りを巡る星のようにその肌色の光を刃に映しては消えていく。アサヒは踏み込む。首筋に当たりかけた軌道が直角に曲がり、錆びた切っ先が虚空を引っ掻く。


「あなたはそうしない」


 彼女の顔がさらに迫る。足音が破片を踏み越えて近付いていく。

 月次アキラの体内では、なおも速まることのない心臓の拍動が刻まれ続けているはずだ。彼女は何も恐れていない。それが彼の精神を握り締め、重く深く押さえ付ける。


「やめろ! 俺を信じるな! あの時だって信じてくれなかったくせに! そんなことで騙せるとでも思ったか! 馬鹿にするんじゃない!」

「私を信じて、アキラ」

「俺を信じるなぁっ‼」


 圧迫された空気が、城を押し潰す。

 天井は跡形もなく分解され、ひび割れていた壁も瞬時に瓦解した。吹き抜けた風が足元を掬う。後ろを見れば、杖で踏ん張ることができる俺以外はみな地に膝や尻を付けている。

 数秒か数分が経った。地面の一点を見つめ、平衡感覚の回復を待つ。しかし何かがおかしい。ここらの山全体を揺るがす激震が止んでも、瞳孔の震えが止まらない。


「これは……魔法?」


 二つの目は世界をより濃く鮮明な色で捉えていた。人と物の輪郭線が強調され、瞼は目の前の景色を確かに刻み込む。頭が鋭く冴えて意識が浮き彫りになるのは、千住アスカの魔法による超感覚的な主観を彷彿とさせる。

 事実、そうなのかもしれない。おそらく月次アキラは俺たちの現在の記憶を刺激して知覚を暴走させたのだ。


「アキラ……」


 地を這うアサヒの傍を彼は通り過ぎる。そのまま俺の方へと歩き、錆びた剣を突き出した。長く、息を吐く。


「幻想に溺れるなよ、アキラ。俺は誰も信じないし、誰にも信じられるつもりはない」

「それは強がりだ! 君だって本当は、信じてもらいたかったんだろ! みんなに! もう誰も君を責めない! 楽になっていいんだ!」

「……手遅れだ。俺はこの身をもって経験した。目撃もした。何度やり直しても同じ世界だった。今回だってそう、それ以外の解はない。あると思うならそれは欺瞞と偽証に過ぎない」


 頭がクラクラする。慣れない解像度で世界の像を取り込む視覚に、脳が熱を出している。


「お前は、腰につけたその剣がどうやって作られたのか知ってるか? 手に持ってる松明は誰が発明した? 筆で絵や文字を描く以外のことができるか? ……どれも知らないだろう。必要がないからだ。剣は、ただ振るった時に敵を斬れさえすればいい。勇者はただ魔王を倒せればいい。できないなら勇者じゃないだけのこと。他の意味を、誰も考えない。期待しない。する気がない」


 杖にかけた体重が不意に傾き、俺は地べたに伏した。眩暈が酷い。起き上がり方が分からない。どこに、どの間、どれだけの力を込めればいいのか?


「この世は見えるものが全てだ。見えないものを見ようとするな。無意味に苦痛を引き延ばすだけだ」


 無慈悲な言葉が降り注ぐ。見つめ返す余力もない。状況は一気に不利に傾いた——


「——ように、見えるだけだ。まだ誰も諦めてない。立てなくても口は開く。俺だって根性で押し切るつもりはないよ。さっきも言った通り、君を説得しに来たんだから」

「負け惜しみを……」

「負け惜しみでも戯言でもいい。とにかく俺たちの声を聞いてくれ。……みんな、俺に、月次アキラに言いたいことが、あるだろ。それを全部ぶちまけてほしい」


 彼は肩を震わせた。錆びた剣を団員たちの方に向け、待ち構える。

 静かな時間が過ぎた。おそるおそるといった感じで、誰かが手を挙げる気配がした。


「アキラ分隊長。おれは昔、騎士になるのが夢でした。いざ大人になってみたら世界はそんなに甘くなくて……汗水垂らして必死こいて生きてくのに精一杯で……でも、勇者を見て元気を貰ったんです。こりゃ負けちゃいられねぇって。結局、こんな歳になるまで腰とか痛めながら鍛錬して、やっとこさ遠征隊の騎士になれました。見てくださいよ、この面子。華のある若者たちの中におっさんが一人交じってて場違いでしょ? でも恥ずかしいとは思わないし、後悔だってしてません。おっさんにも優しくしてくれる仲間たちに囲まれて満足してます。どん底で溺れかけてたおれを、あんたが救ってくれたんですよ」


 弱々しくも情けない声が寒空に響く。四分隊の末っ子、五十嵐レッカ。確かに、彼は今年で三十八にもなり、遠征隊の中で最年長の騎士だ。もちろん騎士団全体で見ればそれより上の団員は多くいる。経験豊富な熟年の騎士たちは今回の遠征で脚光を浴びることができなかったが、普段から教育や指導の方面で活躍する立派な支柱の一角だ。

 その点、彼は経験を語るには若く、最前線で剣を持つには年を取り過ぎていた。にもかかわらず遠征隊に加わることが出来たのは、ひとえに本人の努力の賜物だ。彼は誰よりも向上心と情熱に溢れており、目下の者たちへの尊敬を欠かさなかった。


 よく手を滑らせたり膝を打ち付けたりして身体の節々に傷を負う場面を、俺は見てきた。そして同じ数だけ、自ら鞭打って立ち上がる姿も。『勇者さまも頑張ってるんだから、おれはもっと頑張らないと追い付けないですよね!』と親指を立てる彼に、俺は本気で追い抜かれる未来を想像したことがある。彼の思い描く勇者像は他でもない俺自身だった。


 月次アキラは嫌な顔をした。


「アキラ先輩! あたしも、あたしも先輩に憧れて騎士団に入りました! アサヒ先輩と鍛錬に励む姿を見て、伝説の勇者も同じ人間なんだって知りました! それですごいなぁカッコイイなぁって思って、教会の修道士じゃなくて騎士団を選んだんです! おかげで苦手だった過去の記憶とも向き合えて、魔法が使えるようになって、色んな人の役に立ててる実感が今のあたしを生かしてます! 本当にありがとうございました!」


 花筺(はながたみ)ユナは、本来、捨て子だった。花や草で頑丈に編まれた籠の中で泣きながら海を漂っていたのを、近くの町の漁師が偶然見つけたのだとか。それまで、大陸の外側は果てしない大海原に覆われており、文明の芽吹いた場所はここだけだと考えられていた。彼女が誰も知らない遥か遠くの異国から来たのか、はたまた臨海部に住む人間が海に捨てただけなのかは分からない。ただ一つ言えることとして、彼女はよく笑った。


 そんな赤子を捨てた両親は見る目がなかったに違いない。彼女は自身を産んだ二人以外のあらゆる人々に愛されて育った。様々な人脈を跨ぎ、可能性を望まれて王都の孤児院まで辿り着いた挙句、こうして魔王討伐の騎士として選抜されるほどに恵まれていた。騎士団の中でも妹分としてとことん可愛がられ、稀有な魔法を発現させたこともあって重宝された。彼女の無邪気さと、出自を感じさせない元気溌剌な声援に何度励まされたか。


 月次アキラは顔を引き攣らせた。


「俺の話も聞いてくれよ! 幼い頃、死んだ兄ちゃんと約束したんだ! 絶対勇者になるって! 剣には選ばれなかったけど、ここにいるみんなが勇者だって言ってくれて嬉しかった! 家族の夢を叶えてくれてありがとう!」

「ワタシも! 今まで言いそびれたけどすごく感謝してるの! 田舎から出てきたばかりで右も左も分からなかった小娘に、パンをくれてありがとう! あ、アサヒ分隊長に殺されるから墓まで持っていこうと思ってたけど、どうせいつか死んで言えないなら言っちゃいます! あなたが大好きです!」


 わっと、月次アキラを褒め称える無数の声が、堰を切って飛び出す。性別も年齢も関係ない。長い時間を騎士団で過ごし、苦楽を共にしてきた仲間たちからの本音が、文字通り耳が痛くなるほど鳴り渡る。

 さすがに歯止めがかからないとしてナオキ分隊長が場を静まらせた。それでも余韻が耳鳴りに揺蕩っている。それを打ち消さない声量で彼が言葉を舌に乗せる。


「アキラ君。僕は副団長やアサヒちゃんほどに君のことを知っとるわけやないけど、君がどれだけ真摯に向き合ってきたかは知っとるつもりや。僕よりも若くて強くて最っ高にイカしてる君を見るたびに、自分が情けなく思えてしゃぁないねん。なあ、この恥の責任、いつ取ってくれるん? もっと惨めな気持ちにしてくれないと困るんや、こっちも」


 月次アキラは、口をわなわなと震わせていた。自身が引き起こした知覚の過剰摂取にやられたわけではないだろう。泣きそうな顔で、それらを跳ねのける理由を必死に探しているように見えた。


「ふっ、ふざけるのも、大概にしろよ! 都合の良いことばっか言いやがって! 今さらそんなのが何になるっていうんだ! いまさら……っ」

「何かをやり直すのに今さらなんてないで。どんな時も今、やると決めたら今すぐや。君、ホンマは諦めたくないんとちゃう? だってそうやろ。わざわざ何回も時間を戻すなんて、未練を残した人間のやることやん」

「く……っそがぁ!」


 剣を握る手を真っ赤にして彼が睨み付ける。癇癪を起した子どものように、狙いもまともに定めず振るった切っ先は、アサヒの手を串刺しにする勢いで迫った。

 俺は、その合間に日の光を差し込んだ。


「月次、アキラ……」

「祭礼の剣は神聖な陽光を溜め込む。いや、これも偽の伝承だから……儀礼の剣と呼ぼう」


 ただ光を宿らせただけの剣身に、ぼろぼろの剣は折れて吹き飛んだ。渇いた音を立てて塵と吹かれ、夜の空へ消えていく。それを魂の抜けた顔で見つめながら彼は呆然と立ち尽くす。

 彼の胸のなかでは今もなお信頼の鼓動が脈打っているはずだ。


「……。っ…………」何かを言いかけた口はしかし言葉を持たない。「……お、おれは、どうすればいい? どうすればこの気持ちは救われる?」

「やり直すんだ。時間じゃなくて、君の心を」

「いっそのこと殺せよ……その剣で、この胸を! ……もう、終わらせてくれ」


 この鋭敏な感覚にも慣れてきた。歩いて動くことくらいなら出来そうだ。俺はゆっくりと立ち上がり、首を横に振って剣を鞘に納める。


「俺にとって戦闘は対話の場につくための準備だ。殻を破って目を合わせるためのね。君も、自分で自分を傷付けなくていいんだ。それが剣として振るわれる場所は、少なくともここじゃない」


 月次アキラは糸が切れたようにどさりと崩れ落ちる。立ち位置が逆転した。


「怖かったんだ、ずっと……。俺はこの世界の異物で、誰にも本心から歓迎されないんだと思ってた。俺が、見逃して……見ようとしてなかっただけなのか? ……誰かを信じたら、報われるのか?」


 蹲り、頭を抱え、くぐもった声でそう言葉を捻り出す。小さな声量だが、今までのどの言葉よりも俺たちの心に強く響くものだった。


「まずは立って、世界を見るんだ。色んな景色がある。色んな人がいる。自分以外の全ては他人だけど、そこから自分が見えて来る。報いっていうのはそういう対話のことじゃないかな」

「でも、こんな俺じゃ、もう正義の側には……」

「俺は正義に明確な形なんかないと思ってる。でも、悪がなんなのかは分かるよ。相手への理解を自分のなかで完結させることだ。だから俺が心がけることはただ一つ」言いながら彼に手を差し伸べる。「それは対話を切り捨てないように疑い続けることだ。正義が具体的にどんなものかは分からないけど、悪と反対のことをしていれば、俺は限りなく俺の正義に近づける」

「曖昧なまま疑い続けるのか? その詭弁を、死ぬまで? ……まともじゃない」

「それが俺の信仰だよ。勇者信仰なんかよりは、よっぽど楽で都合がいいだろ」

「はは……そりゃそうだ」


 神は信頼に宿る。信頼は自分一人では成し遂げられない。だからこそ人は共同体のなかで神を崇める。それが直接的な答えをもたらしてくれるかはまた別の問題だ。


「これは受け売りだけど……君は君を証明し続けろ。君が月次アキラだってことを、世に知らしめてやるんだ」


 勇者の伝承は存在しなかった。魔王は死んでいた。月次アキラは人狼であり、神であり、王族であり、勇者でも魔王でもあり、しかしそのどれでもなかった。時は遡ることなく進んでいて、記憶は全てを覚えていた。

 俺は最初から最後まで月次アキラだった。


「お前は勇者だよ。お前が月次アキラだ。俺よりもよっぽど、本物に近い」


 そう言って彼は俺の手を掴む。引っ張って体を起こすと、すっかり憑き物が落ちた彼の横顔に光が差した。

 永い夜が終わろうとしている。途方もない遥か水平線の向こうから、太陽の薄明かりが淡く、新しい空を照らし始めていた。


「いい名前だ」


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