間章 『千重の栞』
1
魔法はどこまで使用者の記憶に依存するのか?
例えば、毒を生み出せる人間に、別の薬物を追加して性質が変わったものを飲ませたらどうなるのだろう? 獣と同じ速度で走る人間に、暗示をかけて遅いと認識させたら?
ある日、記憶を失った人物が被験者として志願してくれた。友人によると、彼女は火を操ることができたという。手のひらから火を出したり消したりするほか、友好的な人物に対してはその熱ささえも無害なものに変えられた。火災事故で幼少期の記憶を失くす前は、それを利用して貴族たちを相手に炎のドレスなどを仕立てる仕事をしていたらしい。
私は彼女に、今ここで火を出してほしいとお願いした。彼女は何の気なしに手をこちらに向け、誇らしげに微笑んで見せた。手のひらには何もなかった。私がそれを指摘すると、彼女はむっとした顔でさらに手を近づけてきた。やはり火は見えない。
しかし、彼女は自身の手のひらの上に絢爛な炎が舞っているのだと主張した。嘘や虚勢を張っているようには見えなかった。少なくとも彼女の目には本当に火が映っているのだ。
今度は木の枝や落ち葉を集め、そこに火を放ってほしいと言った。彼女は相変わらず透明の焚火を幻視していた。しかもパチパチという音まで聞こえるらしい。私はその炎に薪をくべた。「うわっ!」と大きな声を上げて彼女が仰け反った。「いきなりそんなことをされたら私も制御が利かなくなるので止めてください」と言われた。
次に、彼女が見ていないところで焚火を別の人間が熾したものに置き換えた。今回の火は私にもきちんと見える。実物だからだ。少しして彼女を呼び、それが先ほどのままだと偽って操らせた。
彼女は最初、戸惑いを見せた。首を傾げ、掛け声を繰り返して何度も挑戦しているようだった。しかしいくらやっても意のままに動かせないと知ると、ひどく混乱した。火を動かしている感覚があるのに、目の前の火は微動だにしない。やがて半狂乱になって叫んだ。
時間を置いて彼女が安静になったのを見るや、私は謝りに行った。すると彼女は言った。
「ああ、国王様。先ほどは大丈夫でしたか? 私が炎をあまりに大きくしすぎたために……申し訳ございません。今度は気を付けます。でも、これで証明できましたよね」
2
私が王権を引き継いでから、ようやく魔法の研究は軌道に乗り出した。特に魔女と呼ばれ恐れられていたオリエ婆の貢献は偉大だ。むしろ今までどうしてこうも無関心でいられたのか、王国のお偉いさん方に問い質したいほどだ。
魔法は人々の生活を変える。実際、変わった。個人の能力は魔法の優劣に置き換えられ、身分の序列も世代ごとに浮き沈みが激しい。魔王が降臨した五百年前より酷い有り様だ。
これは人間には扱い切れない代物だ。魔王がもたらした負の遺産だ。『祝福』だの『奇跡』だのと呼び方にこだわる前に、その危険性を自覚しろ。自分たちが持っている得体の知れない力は、無から降って湧いたものではない。
魔法を知ることは、全てを知るということだ。私たち自身を知り、世界の構造を知り、魔王を知るための究極的な解になり得る。だから私は研究を続ける。偽りの歴史が決定付けた運命の時が来るまでに、魔法を解明して穏やかな平和を迎えるために。
その根本にあるのは記憶だ。記憶が人を形作る。愛、感情、価値観、動機、信念など、ありとあらゆる無形の輪郭を縁取り、色付ける。脳に潜む宇宙だ。
また、記憶は大地にも宿る。砂や死骸、歴史や文化などと一緒に様々な記憶が地層を形成し、積み重ねられていく。過去の景色は地に埋まっているだけで消えたのではない。
そしてそれらは五百年前に世界を揺るがした魔王の降臨、ひいては同時多発的に起きたとされる魔法の集団覚醒に一つの答えをくれる。逸話が正しければ、かつての流刑地——今でいうところの八十七夜——は尋常ならざる量の怨念や殺意、要するに感情を伴う記憶を孕んでいたのだろう。
その地に堆積した記憶を喰らって初めて魔法を発現させた人物が魔王と呼ばれた。圧倒的な脅威が人々の不安を煽り、さらには当時の国王による勇者信仰の後押しもあって、人間の意識は大地の記憶と結び付いた。魔王の降臨、信仰の刷り込み、魔法の覚醒……その時代を境に、人類は全く別の存在へと変わってしまったのだ。
王族の執り行ってきた儀式が記録された古い文献によると、この国は勇者信仰よりも遥か昔に土着の信仰形態を有していたという。虚往、移記など表記に揺れが見られるが、内容はおおかた同一だ。
——あらゆる人と場所に記憶が宿る。
ただそれだけを標榜し、体系的な教義や天地の創造主も設けず、それは明確な信仰の形もないまま受け継がれてきた。文献は私の手の届く範囲だと王族由来のものが唯一だった。分かりやすい神像や神殿が遺されていないため、民間の領域でも研究が進んでいない。
これはあくまでも私個人の解釈だということを記しておく。その上で勇者信仰と最も異なる点を挙げるとするなら、それを信じたからといって救済があるわけではないということだ。それは人々の悩みに究極的な答えをもたらさない。当然、乗り越えるべき試練もない。空気のように、時間の矢のように、目に見えずとも常に人々と共に在り続ける。
何もないそれは、何でもある後発の信仰に易々と塗り潰された。記憶の性質は捻じ曲げられ、人為的な奇跡を起こすための舞台装置と化した。記憶を引き継ぎ操る術を持つ王族の特殊性は、本来、記憶の均衡を保つためのものだったのではないだろうか。特殊性を持っていたから王族に祀られたのか、王族だから特殊性を持ち得たのかは議論の余地がある。
ともあれ二十九代目以降の歴代の国王たちは、その大々的な茶番に同意したらしい。魔王という強大な敵を前にして、土着信仰を歪めても構わないと判断したというのか。
だとしたら私は先祖たちに謝罪の言葉と唾を吐き付けてやらなければならない。
私は御免だ。
6
魔王に対抗するための方策として、考えられる案は二つある。
一つは赤子に強い刺激を与え、突出した魔法の発現を促すことだ。ひどく身勝手でおぞましい。本来ならば受けるはずのない非自然的な刺激を受けて育った子が、王国の歴史を背負って魔王を倒しに赴くほどの精神状態でいられるだろうか。そうして得られた平和を是とする正義が、魔王を悪などと貶められるだろうか。
二十八代目の国王が、記憶と魔法の関連性にどこまで気付いていたのかは確かめようがない。だが、結果的に勇者に対する信仰が根付いたことで、王国は未来の救世主を出迎えるための輪郭を形作った。世界が勇者の誕生を祝福し、鎧を着せ、剣を持たせるだろう。
言うまでもなくそれは呪いだ。運命を縛り付け、檻の中へと誘い出し、平和の道具として最も愛らしく着飾り、使い潰して見殺しにする。一つ目の策とどう違うというのか。
加えて私は疑問を提起したい。仮に人々の想いが特殊な力を発現させるとして、それが人間の尺度でいう強さに繋がるのだろうか。それほどまでに単純で都合の良い理屈がまかり通るなら、別に勇者がいなくとも危機に際して特異的な存在が現れるはずだし、それは魔王側にとっても同じだ。
ゆえに私は二つ目の策を選ぶことにした。それは世界を裏切ることだ。
現在、私には二人の息子がいる。信仰の結実たるアキラと、愛の結実たるハルだ。生まれはどうあれ、どちらも私の大切な子だ。世界の犠牲にすることはできない。
二人はそれぞれ信用できる人に引き取ってもらうことにした。我が子らには、世界を救ってほしいという期待も、信頼も、強要もしない。虚栄の伝統は途切れ、皆の望む勇者は誕生しない。ハルは王の血を継ぐ後継者となるが、勇者にはさせない。存在自体が隠匿されたアキラにも、王族としての立場を捨てて、ただの一般人として生きてもらう。
したがって、これは国王としての責務でもなければ、研究者としての好奇心でもない。
これは私の夢だ。私があげられるのは、限りなく普遍的な、人としての生だけだ。
たくさんの景色を見せよう。色んなことを経験させよう。我が国が築いてきた正しい千年の歴史が、偏りのない大地の記憶が貴方を包み込む。
それ自体が魔法の由来となるか否かは関係ない。ただ、旅がしたい。
勇者どころか騎士にすらならないかもしれない。アキラに至っては自身の素性に辿り着くことすらないまま生を終えるかもしれない。
仮にそうなって世界が魔王に滅ぼされるのだとしたら、それも悪くないだろう。護ってもらうことにしか希望を見出せない人類など滅んでしまえばいい。
だが、生憎と私は国王だ。恨みつらみを並べても民を見殺しにはできない。
勇者信仰を白紙にした代価として、責任を取る方法は一つだ。
私が、魔王を殺す。
28
魔法をより効率的に、効果的に行使するための触媒を実用化した。魔法の種となった特定の記憶を刺激するというものだ。騎士団長である夫も気に入っている。
私は王族なので、物心ついた時から特殊な魔法が備わっていた。明確なきっかけというほどの記憶はない。まあ、記憶を刺激するという点では必ずしもきっかけである必要もないだろう。脳は欲しい記憶だけを正確に思い出すようにできていない。関連するものを同時に掴み取って引っ張り上げるのだ。
私は幼い頃に一度だけ魔法を使ったきり二度と使おうとしなかった。自分でも制御ができなくなると分かっていたからだ。
しかし、今は自らの意思でそれを解き放とうとしている。愛しい我が子を守るためならば、地獄をも厭わん。私は歴史を否定し、世界を捨てた極悪人。信仰が産んだもう一人の魔王。
白く染まった八十七夜の空を眺めて、静かに子守唄を口ずさむ。母の胸のなかで眠っていたあの頃の記憶を。
「——ら、ららら~」
469
世界は喧騒に包まれていた。
数時間前のことがありありと思い出せる。劣化も差異もない。全ての記憶が水平に存在する。今までの連続的な瞬間の一つ一つを、それに付随するあらゆる思考を同一線上に浮かべられる。過去と現在が同化していた。
私の意識は現在に留まっていなかった。魔法を発動して以来の全ての時間において、私は同時に存在する。それらを今も同じ鮮度で見て感じて反応している。
秒ごとに異なる感情が混ざり合って私を掻き乱す。意識が無数に分裂したみたいだ。二万八千百四十秒目の私が過去の選択を後悔し、九千三百八十回目の瞬きがその場面を切り取って覚える。後悔する自分が永遠に在り続ける。
その記憶は、思い出にならない。
8128
あれ、現在は何処だったっけ?
本来ならすぐに忘れるはずの感覚が残留している。私の腕は、火に触れた時の最高温度に焦がされ続けている。一方でとうに冷めた状態で周りの外気にも触れ続けている。
完全瞬間記憶。
それは私のなかで膨大な量の記憶を溜め込む。忘却しながら生きる普通の人間の一生分の記憶を、これから何個も何個も溜め込み、その分だけ魔法を発現させるだろう。
これこそ人の身に余る力だ。しかし魔王を倒すには事足りる。
いずれ、人格は破綻して意識も消えてしまうだろう。言うことを聞かずにここまで付いてきた愛するあの人が、魔王を倒した後の私を介錯してくれることを願う。そして何よりも、私の大切な子らが、健やかで幸せに育ってくれることを心から願う。
誰もあなたに役割を押し付けない。でも、もしも自由のなかで、それでもあなたが他人を救うことを選ぶのなら。その時は私とあの人のことも、救ってほしいな。
私は、それを…………見届け、られ、な……いか、ら……………………
8589869056
最期の瞬間に、懐かしい唄が、聞こえた気がした。