第十四話『息子』
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八十七夜の空を照らす稲光を目印に、俺たちは駆け抜けた。生気の感じられない森を突っ切る。道中の弱い魔物を蹴散らしながらひたすらに念じる。
間に合え、間に合え、間に合え。俺を信じて待ってくれている人たちに、その答えを示せ。
森を抜けた先に二人がいた。どちらも倒れている。焦げた地面と血溜まりが、そこで起きた戦闘の凄絶さを物語っている。そしてそれはまだ終わっていない。敵と思しき人物が二人を見下ろしている。彼らは半透明の膜のようなものに覆われていた。敵が血まみれの手を振り上げる。
「二人を救い出すぞ!」
「バウアッ!」
その手首に、ラリスが牙を突き立てた。敵の体はその勢いのまま枯れ枝のように飛んでいく。大きくもんどりを打ち、転がりながら砂埃を巻き上げて倒れ込む。
俺とアサヒが後に続いた。大股に踏み込んで振り下ろした剣は、膜に傷一つ付けることなく防がれる。敵の背後に回り込んだアサヒが胴体を狙うも、拳は同様にピタリと止まってしまう。ラリスの牙は届いていたはずだ。渦巻く情動を見るに、敵が攻撃を認識できるか否か、といったところだろう。
不可解なのは、それで団長とヒロミさんまで守られていることだ。敵に二人を害する意志はない。かといってこの膜を解くつもりもないようだ。
敵を挟んで斬撃と打撃を繰り出す。いずれも通用しない。剣が弾かれたと同時に膨れ上がる敵意を感じ取り、俺は受け身を構えた。鈍く重い衝撃が、腕と腹を突き抜ける。
すかさず放ったアサヒの回し蹴りが避けられる。ラリスの突進も食い止められる。しかし、アサヒが踵に引っ掛けた剣の先端を、敵は見切れなかった。俺が突き飛ばされながら前方に放り投げていた剣だ。
切っ先は肩を掠める。敵の腕がだらりと下がった。ラリスが柄を咥えて俺のもとに持って来てくれる。即席の行動にしては上手くいった方だろう。だが、同じ手は食らわないはずだ。敵は得体の知れない怪物。何をどのように察知しているのか見当もつかない。
「みんなで突破するぞ! 赤き心を灯せ!」
「「「うおおおおおおおぉぉぉぉっ‼」」」
戦場は、突撃する団員たちの鬨の声で満ちに満ちていた。かつてないほどの活気と熱気に溢れ、焚かれた香料の香りと煙が炎に照らし上げられる。戦意の足音が地盤をどよめかせる。心臓の高鳴りが太鼓を鳴らす。神聖で超現実的な空気の味は儀式に似ていた。
意識の深い部分で繋がった高揚感に衝き動かされ、闘志は陽炎のように揺らいで尾を引く。俺たちは一気に駆け出し、地響きを足音に押し寄せる。
闘志の波濤に呼応する形で敵が形相を変えた。広げた腕に倣って周囲の土砂が捲れ上がり、砂嵐と化して視界を覆い尽くす。足が、嘘みたいに地面から離れた。突撃の陣形は瓦解し、無力にも宙に投げ出される。細かい土塊や石が肉を抉る。飛んで来た仲間の重量はそのまま武器となり、骨を砕き内臓を押し潰す。
圧倒的な脅威の前で、俺たちは結末も知られずに散る虫けらに過ぎなかった。
「僕の手に掴まって!」
「こっちは大丈夫! 彼の方をお願い!」
そんな中でも、団員たちは互いの力と魔法を用いてなんとか切り抜けようとする。まだ諦めていない。その心が踏ん張りを支え、砂嵐から抜け出すのに功を奏した。そうして砂嵐の向こうで目にしたのは、巨大な滝だった。
息を整える暇もない。感情が荒ぶってもはや何も感じない。夢を見ているみたいだった。
異様な光景だ。切り貼りした絵のように、山岳の一帯に脈絡もなく滝が出現した。剥がされた地面の下で澄んだ水が流れている。ぱっくりと割れた足場は断崖と化し、それを底の見えない地底へと流し落とす。衝撃の音すらも聞こえない。
地層から過去の景色を掘り出した。そんな比喩的な表現が許されるほどに、八十七夜が出鱈目な理屈の上に成り立つ魔境だと考えることもできなくはない。しかしこれは誇張が過ぎる。おそらくはハルと同じ類のものだろう。
ここにはかつて滝があったのだ。今は埋もれたはずの地形を、敵が呼び起こした。これもある意味では時代のやり直しといえるのだろうか。
「気ぃ付けや! 激流に呑まれたら終わりや! 誰も引き上げられへんで!」
ナオキ分隊長の言葉に応じる声はない。敵の姿が見えなかった。全員が耳をそばだてて周囲を窺っている。水流の中に潜ったか、空に飛び上がったか、いや——
「——足元だ!」
地面を突き破って、岩石が隆起する。黒くひび割れた内側に覗くのは琥珀のような何かだ。しかし古くより生命を寄せ付けないとされてきた魔界で、まともな化石などあるはずがない。案の定、それはどろりと溶け出して異形を成した。殺意で肉付けされた屍人だ。
団員たちは剣を振るい、人ならざる異形を斬り払う。水に赤い雫が混じる。今夜はやけに月が大きい。鼻腔を麻痺させる異臭が漂い、剣身に腐った脂と灰がこびりつく。勇敢だった鬨の声は、悲鳴に変わっていく。
俺は警戒を解かず、周囲を注意深く見渡していた。これらは注意を逸らすための妨害だ。肝心の敵と団長たちは別のどこかにいる。しかし、情動を探ろうにも屍人の気配が邪魔で感覚視野は混然としていた。およそ考え得る限り最悪の環境だ。
もっと強く感知できないか。そう考えた時、俺は祝福の発動に触媒を用いたことがないということを思い出した。発現したのが遠征の前日で時間に余裕がなかったのと、単純に必要性を感じなかったためだ。
ハルに言われた言葉を思い出す。『テメエの魔法は、本当にそれで合ってるのか?』。そもそも俺の祝福が、他人の感情を読み取るものではなかったとしたら。何かしらの記憶を想起することで、強化できるとしたら。
それは何だろうかと考えてすぐにやめた。大切な思い出や忘れられない出来事は多くあった。だがどれか一つでも欠けたら今とは違う自分がいただろう。特殊な出生も、獣の肉体も、神となったかつての道筋も、全てが正真正銘の月次アキラだ。他人を見ようとする前に、俺はまず俺自身を知らなければならない。
見たくないものや見えないものにも目を向ける勇気を。そう思ったところに、ふと光明が差し込んだ。
「アキラっ‼」
月が、落ちて来る。いや、白く発光する膜を纏った敵が俺の後頭部へと。
見ていたはずなのに見えていなかった。それを駆け寄るアサヒの視点で気付いた。反対の方向からラリスも飛び込んでいる。だが間に合わない。避けられない。
振り返ろうとした瞬間、何かの違和感が背筋に横たわった。アサヒの視界に映る敵、首元で切り揃えられた髪の向こうに覗いた顔が、こちらを見やる。アサヒを飛び越えて、俺の意識に、真っ直ぐ。松の葉を彷彿とさせるような、濃密な緑を湛えた瞳の奥が煌めく。
どこか懐かしさを孕んだ記憶が流れ込む——。
アキラ。アキラ。
あなたは自由に育ちなさい。好きなものを見て、好きな所に行って、好きな人と付き合って、幸せになるのよ。
遠い感覚の向こうで、とても暖かく穏やかで慈悲深い声音が降って来る。上下に揺れる視界。背中を叩く手。身体を包む温もり。子守唄。
「ら、ららら~」
場面が切り替わる。陽光に照らされた草原はざわざわと波打ち、見えない何かが走り抜けていく。舞い上がる花びら、滴り落ちる露の玉。蝶の羽ばたき。自然の言語が空気を満たす。虫のさざめき。鳥は群れて大きな影を落とす。屹立する岩に打ち寄せては還っていく波濤の音と潮の匂い。夕暮れが差す。自分の手は赤い。互いの尾を追いかけて狐が走り回る。流される鴨の子。夜空に指で線を引く。月明かり。空は巡り、木々が衣替えをし、目線が高くなっていく。握った指は震えていた。
走馬灯。大地の記憶。そして、それらを包み込む偉大な温もりの。
「……お母さん?」
一瞬だった。迫っていた月がシャボン玉のように弾ける。放り出された敵の体を俺は咄嗟に受け止める。あの時とは目線の高さも手の大きさも何もかもが違う。けれど、俺は勇者になる前からその温もりを知っていたはずだ。
「アマ姉! 副団長!」
すぐ傍では二人を受け止める声が聞こえた。腐臭が消え、団員たちの悲鳴も止む。急な静寂の訪れに、頭がついていけない。ただ驚きと安堵が胸を満たす。
「そっか。こんなところに、いたんだ……」
先代国王、千住アスカ。行方不明で忘れ去られた人物は魔界にいた。
明確に血統を引き継いでもいなければ、その顔と声で育ててもらった記憶もほとんどない。ハルに彼女との関係性を提示された時はまだ半信半疑だった。しかし実際に会って、触れてみて確信した。彼女は俺の家族だ。
「あが、がぅっ」
彼女の肩が不意に震え、暴れ出した。押さえつけようにもまるで小さな嵐のように腕の中でのたくる。わずかな隙間から抜け出した彼女は、そのまま走り去る。向かう先は激流のその先だ。
「ま、待って!」
呼び止める声も空しく、彼女の姿はごうごうと流れ落ちる滝の向こうへと消えてしまった。反射的に俺も飛び込もうとすると、後ろから肩を掴む手があった。
「アキラ君⁉ どういうつもりや⁉」
「ナオキ分隊長。あれは多分……あの人は、俺の生みの母です」
団員たちが目を見開く。それが指し示す意味に、彼らはまだ気付いていない。話すべきか少しだけ迷った。隠し事は、もういいだろう。さっきの記憶は、俺がこの土地にあてられて見たものではない。彼女と共にいた頃の記憶だ。
「詳しくは後で話します。とにかく、もう敵意はなくなった……俺が気付いて、相手も俺に気付いたから」
「あー……んん?」
パクパクと何かを言いさしては言葉を紡げずにいる彼に俺は苦笑して立ち上がった。敵の正体が判明してもやることは決まっている。勇者として、騎士として、息子としてすべきことをするのだ。
「ごめん、みんな。ここは一人で行かせてくれ」
満身創痍の団員たちが、それぞれ肩を貸し、手を差し伸べて支え合いつつ俺の話に耳を傾けてくれる。
「俺たちが戦ってた敵は、先代国王の千住アスカだった。彼女は俺を、勇者を産んだ人だ。再びで悪いけど、もう一度だけ、俺に帰郷をさせてくれないか」
「た、滝の下にですか? 戻って来れなくなりますよ! あ、あたしも一緒に……あっ、でも転移の準備が……」
「ユナ。俺なら大丈夫だ。それよりも二人を頼む」
応急処置を施して寝かされていた団長とヒロミさんの方に手をかざす。二人は薄い膜に覆われ、激しい風がその前髪すら揺らせなくなる。
「よし……やっぱり使える」
「アキラ君、今のは?」
「やり直しのなかで、かつての俺が手に入れてた魔法です。色々と思い出しました」
「それは……思い出しても大丈夫なんやろね?」
「はい。心配してくださってありがとうございます。もう俺は俺を否定しません」
持ち上げた右手に力を込めると、そこだけ獣の毛が生え揃った。力を抜いて元の姿に戻す。人狼の身体も自由自在だ。それを見たナオキ分隊長も胸を撫でおろす。
俺の見るもう一つの視界が、俺を近くに収めた。
「早く帰って来ないと、先に魔王を倒しちゃうからね」
「ありがとう」
アサヒに頷き返し、俺は胸元のおまもりを握る。意を決して激流の先へ駆け出した。滝口を蹴って全力で飛び下りる。たちまち凄まじい風圧が顔に吹き付け、身体を浮遊感が襲った。底知れない暗闇は距離感を狂わせる。高度が下がっていくにつれて空気が冷え込み、地層に堆積された数え切れない量の怨嗟や絶望の感情が、代わる代わる耳元をよぎった。
やがて下の景色が見え始める。運悪く岩でもあったら終わりだ。運よりも先に飛び込んだ母を信じ、受け身を取って着水する。
衝撃はあったが、水の感触はなかった。何か柔らかいものに頭から突っ込んだみたいだ。
「ぷはぁっ!」
頭に上った熱を吐き出し、それが白く霧のように残留して気付いた。
雪が降っている。滝壺は青白く染まっていた。水が際限なく流れ落ちて来るはずなのに、やはり別々の絵を切り抜いて雑に張り付けたかのように、ある高度を境に唐突に凍っている。水流がどこかへ消えているのだ。
これは、この地層の持つ記憶だ。古いものから下に積まれると考えれば、凍った部分はいつかの冬の景色で、水が流れている部分はそれより後の季節なのだろう。
奈落の穴の闇は俺の頭上で夜空となり、地中の月が雪原を照らす。とても寒い日だった。
千住アスカが、淡い膜を展開してうずくまっていた。
吹雪く唸り声に、足音ともう一つの音が積もる。剣を地面に落とす音だ。俺は足首まで埋まる雪原を一歩ずつ近付く。
そして、膜の内側を足が踏み締める。
「……」
風と音が遮断され、より互いを意識しやすくなった。攻撃してくる様子はない。じっとこちらを見つめている。静寂だった。小さな息遣いだけが、時間の流れを教えてくれる。
彼女がどのような理由で魔界に来て時を過ごしたのかは分からない。正気を失ってしまった理由も、俺を産んだのなら手放した理由も。
ただ、すんなりと懐に入ることができたのは単純な理屈だ。月次アキラは、彼女が守る対象だから。
月明りを浴びながら、彼女は足元にある何かを大事そうに抱えていた。雪よりも色濃いそれは灰の塊に見える。今までの状況から一つの可能性に行き着いた。
「まさか、遺灰? ハルのお父さんの……」
一応は俺の父親ということにもなるのだろうか。彼女は否定も肯定もしない。意思疎通が不可能な状態だ。おそらく、本能や欲望に従って動物的に動いている。
その手が、俺の頭の上に置かれた。冷たくて固い。どこからともなく感情が溢れ出し、目の奥が熱くなるのを感じた。
「お母さん……っ」
ぼろぼろの手を両手で握る。温めるように、俺の存在を強く擦り付けるように、追憶の片隅に沁み付いた声の形をなぞりながら。
「ら、ららら~ ふんふ~ん、らららら~」
いつまでそうしていたのだろう。千住アスカの細く黒い身体は雪に埋もれ、枯れ木のように崩れかけていた。意識は、もうない。
凍えた時代のなかで雪は降り止まない。彼女と、彼女が守ろうとした大切な人を再び過去の地層に覆い隠して埋めるだろう。
俺は遺灰を騎士の制服に包み、母の亡骸と共に抱き上げた。
気付けば滝壺から小さな芽が出ていた。俺が触れるとそれは瞬く間に育ち、一本の大木を成す。枝の上に立つと、逞しい成長を地層に写して俺を上へ運んでくれるようだった。
ただ、厳密には一本と呼び難い代物かもしれない。なぜなら層ごとに異なる時代の幹と枝を継ぎ接ぎにして地上まで伸びていたからだ。きちんと種を植えて育てたものだろう。魔界でそれが出来るのは千住アスカ本人に他ならない。
しかし、彼女は約十七年前に、騎士団長だった夫と共に失踪した。俺が生まれて間もない頃だ。それから今までずっと八十七夜にいたとしても、たったそれだけの期間で、木が文字通りこれほどまでの年輪を刻むとは考えにくい。
俺は仮説を反芻した。
やはり、勇者と人狼が両立するには時代のやり直しとやらが肝となりそうだ。最後の答え合わせを行うためにも魔王に会って話をする必要がある。
大木が上っている間、俺はハルに渡された手記を広げた。読んでいる内に目は字を滑り、白紙の部分に色を見出し始める。
眠気があった。座り込み、幹にもたれかかる。意識が昇華する。幾星霜の新緑と枯れ葉に包まれて俺は目を瞑る。
目尻から零れた涙が、虹の絵に滴った。