間章 『走馬灯』
1
一目見た途端、逃げ出したいと思った。
情けない話だ。騎士団の団長、誇り高き騎士の象徴ともいえる存在が、誰よりも先にまず逃げることから考えるなどと。もしもみなが知ったらさぞがっかりすることだろう。
しかし、それがわたしだ。黄玉アマネとはそういう人間だ。
——幼い頃から周囲に怯えながら生きてきた。母の機嫌を損ねてはいないか、父の酒瓶が空いてはいないか。日常の中で留意すべきことは沢山ある。気を抜けば教育される。わたしは二人にとって悪い子だった。
いつだったか、父の見ていない隙にコップを舐めてみた。赤い液体を飲めば気分がよくなると思った。苦い、そう思うが否や怒号が聞こえたことまでは覚えている。それからはよく分からない。目が回って自分で転んだ気もすれば、突き飛ばされた気もする。床は赤く濡れていた。頭が痛かった。父の顔も同じ色で、その日以降は見ることはなかった。
わたしは悪い子だから、両親に捨てられて孤児院に移された。そこには大人が大勢いた。同い年の友達が何人もできた。みな、わたしを見て大人びているだとか、気が利くだとか、そんなことを言っていた。他人の顔を窺うことは慣れれば難しくない。褒められたい一心で雑用も教会の礼拝も進んで行っただけだ。孤児院の人たちは怒らなかった。わたしが悪い子だから、最初から期待していないのだ。
ある日、騎士団の敷地で男の子に出会った。顔立ちが綺麗で最初は女の子かと思ったけど、どうやら違うらしい。名門の貴族の出で、彼の周りには常にわたしより可愛い女の子がいっぱいいた。
彼は自分の顔の良さを知っていた。いつも遠くから見ているだけのわたしを不思議そうにして、「君は媚びを売らなくていいのか。両親に言われただろう」と言った。当時のわたしはその言葉の意味が分からなかった。でも無知だとバレたくない気持ちと、調子に乗られている気がして悔しい気持ちで、つい言い返してしまった。
「わたしはあなたのこと、別に好きじゃない」
すると彼は口をぽかーんと開けて突っ立っていた。一発食らわせてやったと喜び、わたしは勝ち逃げをした。
それからというもの、彼は事あるごとに女の子たちの監視の目を切り抜けてわたしのもとに来るようになった。そして木の枝やら虫やらを見せてきた。気持ち悪いとわたしが突っぱねると、彼は衝撃を受けた顔ですごすごと帰って行った。
今度はお花を持ってきた。本を見せてくれた。ただし花はほとんど枯れていたり、誰かに踏まれていたりして嫌だった。本は複数巻からなる物語の途中の部分だけだった。何をしたいのかと訊ねると、彼は自分の好きなものを見せに来ていたのだという。あなたが好きだからといってわたしも好きだとは限らない。わたしは、大きな宝石を戴いた指輪が欲しいと言った。
次に彼が顔を見せたのは数週間も後のことだった。指輪を手に入れたと言って見せてくれた。彼の薬指の付け根で、確かにそれはあった。小さな宝石を模した玩具の指輪だったけど、十分過ぎるほどに美しく輝いていた。
問題は、指輪がぴったり嵌まって外れなかったことだ。かじってみても思い切り引っ張ってもびくともしない。どうして自分で付けたのかというと、大事なものだから失くさないようにしたかったらしい。
その指輪は彼が施設の雑用や近所の人たちの手伝いなどでお小遣いを稼いで、自分で買ったものだった。もとより貴族の子だ。お金なんて欲しいといえばすぐに手に入る。こんな玩具よりもずっと良いものだってあったはずだ。それでも彼は、自分のお金で買いたいからそうしたのだという。その気持ちが嬉しくて嬉しくて、しかし指輪は外れない。
怒るに怒れず、喜ぶに喜べず、収まりどころのない感情が胸中に渦巻く。体が熱い。もどかしい。この男の子は、どうしてこうも不器用で、けれど素直で、そして愛おしいのだろうか。
とにかくわけがわからなかった。相当、動揺していたのだろう。思い返す度に恥ずかしさで死にたくなる。わたしは、その時、こう言ったのだ。
「じゃあ、いつか本物をわたしにちょうだい」
それが言外に含む意味を、彼が子供心ながら汲み取ったのかは知る由もないことだ。何か関係性に変化があったというわけでもない。ただ、それ以降は女の子たちが寄り付かなくなった。
数年後、わたしは騎士の才覚を発揮し、彼と共に国の守護者として決定的な居場所を得た。成人し、団長と副団長の座に就き、互いの感情を確認し合ったのはさらに後の話だ。
心残りがあるとするなら、一つだけ。この期に及んでまだ伝えられていないことがある。
あの時はああ言ったけれど、本当は、同じものをこの指に付けてほしいの——。
「ぎぃぃああああっ‼」
敵は無造作に伸びた髪を振り回し、耳の中をぐちゃぐちゃに掻き乱す金切り声を轟かせた。そして両手を擦り合わせる。祈りにも似た動作の後、耳障りな声音に呼応して空が引き裂かれる。雷鳴と殺意を煮詰めたような爆音がした。
裂け目から降り注ぐのは、涙と、そう形容するほかない黒い雫だ。今までどこに溜め込んでいたのか不可解なほどの質量が滂沱と押し寄せ、その暴威を地上に叩き付ける。
岩は穿たれ、木は傾いて倒壊する。盾も鎧も意味をなさない。破壊の規模でいえば、まるで雷が雨粒の密度で落ちてきているようなものだ。
迫り来る威圧感が、精神を抉り取る。息は絶え絶えで意識を保つこともままならない。
今すぐ逃げ出したい。何もかも放り出して、背中を向けて、この心臓が鳴り止む穏やかな場所まで走って行きたい。
唯一安全な地帯は敵の周辺だった。逃げることも許されない状況で、足は敵への接近を余儀なくされる。
「アマネ! 頭を下げろ!」
ほとんど反射的に屈んだ頭上を、巨大な風の刃が通り抜けていった。藍色の髪の先端が不格好に斬り払われる。目の前を落ちるその髪束を、わたしは無心で見つめる。
まったく理不尽な敵だ。二人で持ち堪えるなどどう考えても割に合わない。あれは一体、祝福を何個所有している? 天候を操る祝福など聞いたこともない。もう諦めたい。
「わたしは強い。わたしは負けない。わたしは正義の執行人」
そんな心を押し込み、いつもの言葉を反射でかろうじて絞り出した。途端に力が漲り、何でもできるような気がしてくる。恐怖も引っ込んだかもしれない。
全部嘘だ。
これがわたしの祝福。特別なことなど一つもない、ただの自己陶酔の暗示。
記憶から力を引き出しているのではない。この言葉を唱えなければ、力が出ないのだ。
敵はたった一人の、人間の形をした魔物だ。戦いやすさとしてはマシな方だろう。
この背中には多くの団員たちの命が懸かっている。それがなくなれば角干の住人が、王国の民がみな危険に曝されるのだ。退くわけにはいかない。負けるわけにはいかない。
わたしは伝説上の勇者を信仰しているのではない。わたしは月次アキラを信じている。そして、アキラを信じる彼の意志を尊重している。
だから持ち堪えろ。きっとすぐ来てくれる。
死の突く雨から逃れ、敵の眼前に身を曝しながら躍り出た。生きた心地のしない冷めた空気が腕と脚に絡み付く。筋肉が張り詰め、全身に血を巡らせる。意味のない作業だ。どうせ、もうじき外気に触れることになるだろう。
剣を振るい、盾を持ち上げ、走り出す。敵の背後に回って再び腕を伸ばす。
挟み撃つ形で、様子を見ていた彼が乱入する。手甲と剣、銀の煌めきが夕暮れの赤みを反射する。連携なら得意だ。言葉を交わさずとも、視線と息遣いで彼の考えていることが分かる。互いに行動の隙間を補って反撃の余地を与えない。どれだけ手数が多かろうと、敵は防戦一方に追いやられる。
故に、綻びが生まれるとしたらこちらの問題だ。彼の放った手甲の一撃と、炎を纏った敵の拳が激突した。わたしに背を向けた状態での大振りの動作、またとない絶好の機会だ。心臓目掛けて剣を突き出した。
さしたる抵抗もなく手甲が砕け、彼の手が露わになる。そこに見えたのは過ぎ去りし日の断片だった。意識が、刹那の間だけ過去を巡る。頼りなく弱かった頃の自分がいた。
「あっ」
剣が弾かれた。わたしは咄嗟に腕を上げて反撃に備えた。来るべき衝撃はなく、重い音だけが頭上を抜けていった。
吹き飛ばされる彼の姿が横目に見えた。血を引きずって地に転がる。胸元を斬られたようだ。敵の手には、騎士団の剣が握られていた。わたしはそれを持っていない。
連携に隙はなかった。わたしが、隙を見せた。
口腔を血で満たし、自分の一部で溺れそうになっている彼がわたしを見る。血の泡を吹いて何かを伝えようとしているみたいだ。しかし言葉になっていない。詠唱ができなければ、彼の祝福もまともに機能しない。
「ヒロミッッ‼」
わたしの身体は無意識に飛び込んでいた。すぐ後ろから追い縋る鋭利な音を、耳は聞いていた。だがどうでもいい。次の瞬間に首が斬られようと構わない。
わたしは彼の左手を強く掴んだ。
2
彼女を守らなければならない。そう思った。
不適切な思想だ。騎士団の副団長ともあろう人間が、個人の感情を優先させるなどと。もしも皆が知ったら誰も私の指示に従わなくなるだろう。
しかし、それが私だ。天童ヒロミという男だ。
——私は孤独な人間だった。家族でなく貴族としての教育を受けていた実家でも、外面だけを見て群がる人たちに囲まれても、私は孤独だった。いっそのこと、彼女に会わなければその感覚に気付くことすらなく、ある意味で幸せだったかもしれない。
しかし一目で惚れてしまった。回避しようのない必殺の電撃が身体を貫いた。さらに、彼女は私のことを顔や家柄で判断しないときた。常識が通じず、私の好きも理解されず、何もかも手探りで暗闇のなかを進んだ。
私は初めて親の言いつけを破り、服を傷と泥だらけにしてお金を稼いだ。屋敷の使用人や近所を徘徊する老人たちが両親の目を盗んで簡単な雑用をくれた。薄汚れた小銭は努力の証だった。今になって思い返してみれば、とんだ迷惑をかけたものだ。発覚すればただでは済まなかったろうに。
そうして彼女が欲しいと言った指輪を買った。これで振り向いてもらえる。しかし渡す直前になってふと思ったのだ。これは、むしろ彼女の方から近付いて来てもらえる機会なのではないか。そのまま渡せばそこで終わってしまう。だから私は指輪を自分に付けた。欲しいなら私のもとへ来い。一抹の自尊心が私にも残っていた。
その作戦は上手くいった、のだと思う。結果として彼女と仲を深めることができた上に、一生を添い遂げる約束も交わした。多くの時間を共に過ごし、誰よりも彼女のことを理解できると自負している。
彼女は、あの時の言葉をまだ覚えているのだろうか。指輪を見せた時に言い放った、言外の意味を含んだあの言葉を。
私は、一瞬たりとも忘れたことがない。身体が大きくなり、手甲で隠し、礼儀で取り繕っても変わらないことだ。常に左手の薬指を締め付けるその感覚は、あの時の彼女の表情と言葉と、私の心臓に轟いた雷の如き衝撃を、痺れた痛みと共に想起させるのだから——。
彼女の手が私の左手に重ねられ、強い記憶の電流が脳を貫いた。身体中の産毛が逆立つようなむず痒さを感じる。バリバリと、空気を焼き焦がす熱の奔流が視界にちらつく。
もう、子供騙しの嘘など吐く必要はないだろう。
詠唱が祝福の発動に関わっているのは事実だ。私は子供の頃、よく窓の外で轟く雷鳴に合わせて両腕を広げて「バリバリー!」と叫んでいた。いつからか自らの力でそれが出来るようになり、癖でそう叫んで驚かれたのも良い思い出だ。
しかし、雷を放つ際に私が意識するのはただ一つ、鮮烈に刻まれて忘れることのない感情の熾りだ。
青白い閃光が、降り注いだ。
3
雷撃の色が視界を漂白し、その音が耳を劈く中、わたしは立ち上がった。
地を割る勢いで落ち続ける雷が敵をその場に縫い付けていた。しかし、身を焼かれながらも膝を曲げていない。見上げた精神だ。何が目的で、どのような信念を抱いて抗うのか。諦めようとしない姿勢は騎士として見習うべきかもしれない。
だが、その剣は握るべきではない。それは騎士団の象徴だ。
わたしは一歩、また一歩近づき、至近距離で向き合った。熱く血液の巡る手を、剣を握る敵の手に重ねる。電流が瞬く間に伝わり、全身の細胞を沸騰させる。頭から足までを大きな針に貫かれたかのような衝撃だった。
今は、その感覚が愛おしい記憶を呼び起こす。
「っ、おおぉぉぉぉ!」
騎士の剣ごと、敵の手を上から思い切り握り締める。骨の軋む音と肉の焼き焦げる感触がした。手に浮かんだ血管が爆ぜる。もはや握っているという感覚もない。自分の肉体を信じて、意識的に力を込めるだけだ。
敵は苦痛も零さず、睨み付けることもしない。ただ、長い髪で隠れた顔の筋肉が、引き攣ったように歪んでいるのが分かる。わたしも多分そうだ。きっと変な顔をしている。
「……かっこいいよ、アマネは」
歯を食いしばっているさなか、か細い声が耳元に届いた。ドキリとして思わず手を強く握った。
敵の手が砕け、剣が、零れ落ちる。
それが地面を叩く前にわたしは屈んだ。敵の姿が消える。大きく後ずさりをしたのだ。わたしが剣を握ったのと、敵が安全圏を遠ざけたのは同時だった。
槍のような雨が降る。柔軟さに自信のある身体を隙間に滑り込ませ、わたしは低い姿勢で駆け抜ける。やられても軽傷で済む部位は捨て置く。最悪、脚も要らない。最後の瞬間に敵の命を切り刻むための剣先さえ届かせられれば、それ以外はなくなっても構わない。
最低限の回避で敵へ急接近し、血を散らしながら腕を振りかぶった。空気を切り裂く音と共に横薙ぎの斬撃が敵の首筋に当たる——寸前で、見えない壁に阻まれた。刃が通らない。カタカタと小刻みな震えが肩に伝染する。
「わたしは強い」
それを、わたしは拒んだ。振り切った剣が初めて敵の血をその身に塗り付ける。傷は浅い。しかし、壁は磐石ではないらしい。そうと知ってしまえばあとは簡単なことだ。次は猶予を与えない。
雨が止んだ。こちらの攻勢を悟ったか、敵も防御の構えを捨てた。前屈みに迎え撃って二つの影が重なる。感情のない空虚な瞳がちらと見上げる。ぞわりと粟立つ本能が、わたしの首を横に傾かせた。
視界の右半分が弾け飛んだ。目がやられたということを、一瞬遅れて追い付いた意識と痛みで知る。
「わたしは、負けない」
それを見ない振りしてもう一歩踏み出し、わたしは剣を振り上げた。先ほどと反対側の首に刃が喰らい付く。透明な壁はもはや意味をなさない。肌が割れ、切っ先は肉と骨へ到達する。嫌な音と感触を伴って筋繊維が千切れていく。幸いなことに中身は普通らしい。
刃の侵攻を止めたのは壊れていない方の手だった。敵は指が切れ飛ぶのも構わず握り締め、見た目からは想像もつかないほどの腕力で押し返そうとする。
「うぐぐぐっ……」
それは鍔迫り合いのように拮抗していた。わたしは軸足を踏み堪えて腰を捻り、全身の体重をかける。敵も不格好ながら両手で刃を、両足で地を強く掴んで反発する。
雨粒が、目の前を通過した。地に落ちたそれは砂利を溶かす。同時に、わたしの膝から力が抜けた。背後から斜めに雨が降っている。敵自身にも当たる範囲だ。
「ま、……っ」膝を突き、姿勢が崩れ落ちる。「まけない! わたしは、ぜったいに‼」
わたしは左手を剣から放し、拳を刃の側面にぶち込んだ。衝撃で刃は敵の指を裁断した。そのまま首筋を半分ほど斬り付ける。
「あぁああああっ‼ うわぁぁぁあああああああぁっ‼」
鋭い激痛が脳を突き刺し、泣きそうになる喉を雄叫びで上書きする。身体のなかに残留して駆け巡る電流がわたしを衝き動かしていた。
拳を振り切った。敵の体が倒れる。
支えるものがなくなったわたしも顔を地面にぶつけた。土の味は、王国と同じだ。
「あき、ら……」
凄まじい脱力感と眠気が襲い来る。意識の隅で、敵が声に反応して立ち上がる気配がした。
しかし心配する必要はない。あの子の足音も、すぐそこまで——。