第十三話『王族』
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サオリさんに別れを告げ、俺とハルは急いで家の方に走り出した。ハルは何かあった時に備えての助っ人だ。
「月次、さっきの話の続きだが……まあ、答えれそうにねえなら聞くだけ聞いてろ」
サオリさんに貰った頭巾を腕に巻いていると、ハルが話しかけてきた。
「この絵に見覚えはあるか?」
「絵……っ?」
それは手のひらほどの小さく薄い紙だった。暗くて色使いはよく見えないが、固まった顔料のわずかな隆起を手触りで確認して分かった。
丸い虹の絵だ。大雑把で拙く、不均等に凸凹の残った子どもの絵だ。俺はこの感覚をよく知っている。
「これは……俺、が、がいたかもしれあい」
「そうか。それは、先代国王の手記に挟まれてあったモンだ」
思わず無言でハルの方を振り向いた。彼は顔を斜めに向け、やや伏せた目で何かを見ていた。少しして口を開ける。
「月次アキラ。オレは、テメエが王族の血を継ぐ人間だと思ってる」
あまりに唐突な言葉に、俺は返す言葉を持たなかった。ハルが続ける。
「勇者が人々の想いから生まれたって話は初耳だが、納得した部分もある。知ってるか? オレの母サンは、オレを産む前に処女受胎をしたんだってよ。公にはなっちゃいねえ内輪の話だ」
二人の足音が冷たい石畳の表面を跳ね返る。疲れてもいないのに息遣いがやけに大きく聞こえる。その奥で、心臓がトクと静かに波紋を起こした。
「ちなみにオレは違えよ。父親がいる。母サンと一緒に行方をくらませたから顔も知らねえが、父親似らしいな。まあ要するに、テメエは王族に宿った奇跡の子……先代国王の息子で、つまりオレの兄ってこった」
「……」
「この解釈は不満か?」
不満とか満足とか、そういう話ではないように思える。俺は迷っているのだろうか?
それすらも分からない。
両親だと思っていた人物と血の繋がりがなかったとして、育ててもらった感謝と家族としての愛情が消えることはない。むしろ、それならそうと本人たちの口から聞いた方がすっきりするくらいだ。ならば何が問題なのか。気付きは思いの外すぐに訪れた。
俺はきっと、この姿の俺を、父と母の二人に受け入れてもらいたいのだ。
「亡霊の言うことなんか気にすんな……ってのはムリか。まあなんだ、そう気を揉むな。テメエは望まれて生まれてきて、立派に育ったんだ。ツラもしらねえ他人行事のヤツラのことじゃねえよ。テメエの幸福を祈って、愛情を注いでくれた人たちがいる。そこに、オレの母サンも入れてやってほしい。そして探し出してくれ。もしすでに生きてなくても、テメエなら何かを得られるはずだ」
家が近い。あと路地を二つも曲がれば、いつもの家が出てくるはずだ。いつもの、家が。
「その上で、最後にもう一つ質問だ。テメエの魔法は、本当にそれで合ってるのか?」
「がぁ?」
「さっきも言った通り、オレの魔法は過去の記憶を引き寄せることだ。ガキん頃、虫捕り対決で友達に負けてからかわれたんだよ。すげえ悔しくて、でも泣きたくねえって思ってたら手の中にクワガタが飛んできた。ソイツが、昔飼ってたヤツに似てたんだ。だから最初はクワガタを呼び寄せる力だと思ってな。当時はそれで喜んでたが……あとで違うって気付いた。でも、もしそう思い込んだままだったら、今もオレはクワガタ片手に鉄格子を突いてたんだろうな」
自身の手のひらを見つめながら、ハルが感慨深げに言う。誰かに話しているというより、独り言に近い抑揚だった。
「いにしえ様が夢枕に立って、直接『こういう魔法をお前にやる』って言ってくれるワケじゃねえ。魔法の内容が全部決まった系統にまとめられてるワケでもねえ。自分の力を誤解してるヤツなんて探せばそこらじゅうにいるだろうよ。オレが思うに、テメエもその類だ。想いから生まれたとはいっても、王族の腹んなかにいたんだぜ。他人の記憶を写し取って模倣する、くらいのもんがあってもおかしくねえ」
「どうして、お、そこまでじしんを持って、言えるんだ?」
「ああ? じゃあ聞くが、何もせずに相手の心を見透かせるなんて力、テメエは欲しいのかよ? それはテメエがアホみたいに執着する人との接し方と真逆だろうが。こんなん、王族だからとかは関係ねえよ。
俺は過去に未練がある。両親の真相をどうしても明らかにしなきゃ気が済まねえ。だから過去を引き寄せる。テメエだってやりてえことがあるんだろ。望みは人の原動力だ。それはおそらく、魔法と無関係じゃねえ」
祝福、もとい魔法はその人の望む力を与える。多くの人が一度は思いつき、しかし未だ立証されていない夢語りだ。少なくとも記憶との関わりがある以上、全くの無関係ではないだろう。
俺の望みは、言うまでもなく世界の平和だ。ただし魔王を倒すだけでは終わらない。国民の生活が豊かになり、不条理に悲しんだり苦しんだりする人がいなくなればいいと思う。
いや、少し違うかもしれない。俺が望むのはその手前の段階だ。誰もが分け隔てなく接し、互いのことを見ずとも話さずとも理解できるような、そんな土壌を作りたい。直接的な平和の形を築くのは彼ら自身だ。一方的にもたらされるだけの平和は、長く続かないだろうから。
「あっ」
考えている内に一つの奇妙な発想が降って湧いた。何の思考がどう繋がってそのような形になったのか、自分でも分からない。ふとした思いつきだった。
それは魔王のやり直しに関する仮説だ。俺の姿をした魔王が、時間を巻き戻して同じ歴史を繰り返させる。前例のない強力な力を以てして、王国を滅ぼすわけでもなく、ただやり直すだけだ。その不自然さ、見落としていた解釈、そこから生まれる人狼の存在意義。かちりと、音がした。
「あそこだ、ぐるるっ」
目的地は近かった。意識半ばに、俺は見慣れた屋根を指差す。耳は騒ぎを捉えている。近付くにつれてそれが大きくなっていく。
家の前には人だかりができていた。大勢の人間が押しかけ、それぞれ声高に叫ぶ様子が見える。手の動きや表情からして、何かを訴えかけているようだった。
国王の言ったことが実際に起きていた。すでに遅かったか。そう判断しかけた時だった。
「どうして邪魔をするの! 勇者は私たちを騙してたのよ⁉ まさかあなたも人狼仲間じゃないでしょうね!」
「根拠のない主張です。わたしは人間です。そしてそれは勇者さまも同じこと。無駄な騒ぎを起こさないでください」
どこかで聞いたことのある声がする。幼く、小さく、しかし芯の通った強い声だ。
「無駄な騒ぎ⁉ ふざけないでちょうだい、勇者が獣の姿に豹変したっていう証言があるのよ!」
「それがこの家で騒ぎ立てるのと何の関係が?」
「人狼を勇者と偽って送り出した家よ⁉ 親も化け物に決まってるじゃない! どいて! 全員人類の敵よ!」
「勇者に仕立て上げたのはわたしたちです。国民の一人一人が勇者さまに期待と信頼を課して、使命を押しつけました。責任があるというなら王国の民全員にあります」
「全部騙されてたのよ! 私たちは被害者! 無辜の民をいいように騙して最終的に裏切るつもりだったんだわ! 誰か騎士団を呼んで! 処刑よ、家ごと焼き払うの! もう二度とこんなことができないように、見せしめにするべきだわ!」
賛同の声が連なる。人だかりの中から拳がいくつも突き上げられ、斉唱は次第に重なって激化していく。
「「人狼め! 出て来い!」」
「「姿を見せろ化け物が!」」
「がぁっ、ちょっと! 待って! くだ、さい!」
俺はおまもりを握り締めた後、押し寄せる人の波に割って入り、両腕を広げた。その拍子で頭巾が外れて獣の腕が露わになる。
「今度は誰だ! そこをどけ!」
「おい、勇者だ! 勇者が来たぞ!」
「ねえ、あの腕! まるで獣だわ! やっぱり噂は本当だったの⁉」
「そんなわけないでしょ! あの勇者さまなのよ⁉ あんたたちこそ信仰を裏切る気⁉」
「裏切ったのは勇者の方だろ、いい加減目を覚ませよ! どう見ても人間じゃねぇ!」
「信じてたのに……オレたちを騙してたのかよ! 国王様はこのことを知ってたのか⁉」
人々の声が一気に膨れ上がる。怒号はたちまち熱狂の坩堝を開き、場を高揚させる。いるだけで心臓が揺すぶられて息苦しい雰囲気だ。
俺の前には、もう一人、押し寄せる人波に立ち塞がる形で立つ少女がいた。ぼろぼろの教典を胸に抱きかかえ、小さい身体で俺の家を守ってくれている。
「君は、ぐぅ、あの時の……」
「どうして、戻って来たんですか?」
「え?」
「どうして! のこのこと姿を現したんですか⁉ 今の勇者さまはこの人たちの敵なんですよ⁉」
悲痛な叫びが耳に痛く突き刺さる。彼女の言う通りだ。俺がここに来なければ、噂は噂のままでいられた。身を挺して庇ってくれた彼女の、勇気を踏み躙る行為に捉えられてもおかしくない。
「放っては、おけなかった、から」
少女をハルのもとへ引き渡し、家の扉を叩く。周りの声がうるさくて聞こえなかったかもしれない。だが俺は扉の向こうに話しかけた。
「父さん。母さん。ただいま」
軋みを上げてわずかに開いた隙間から、見慣れた目が覗き込む。
「アキラ。なぜ、帰って来たんだ。ここは危険だ。他へ行きなさい」
「忘れ物をっ、お、取りに」
「……そうか」
目は俺の腕を見た。耳も喉の奥の唸りを聞いたのだろう。ため息があった。
扉が開き、父と母が玄関から出て来る。斉唱は一段と燃え盛り、かつてないほどの敵意の色が家を包む。それを背負ったまま二人と目を合わせる。
「俺は、俺を産んだのは、がる、前の王様なの?」
「ええ、そうよ」
「俺は、二人の子、だよね?」
「ああ、そうだ」
「人狼、っていうのは……」
「……悪い。それはさっぱりだな。でもまあ、新たな一面が知れてよかった。また勇者像を作り直すきっかけができたよ」
「そっか。……ああ、そうだね。本当に」
目を閉じ、息を吸う。吸い込んだ空気は熱く、喉をさらに痛めたが、不快ではなかった。
「ちょっと、何を話してるの⁉ あなた人狼なんでしょう⁉ もう騙されないわよ!」
気の強そうな女性が俺の肩を掴み、強引に振り向かせた。人ならざる存在と知っていながら大胆な行動だ。彼女には彼女なりの信念と正義があるのだろう。
俺はその人と目を合わせ、すぐに見回して周りで叫ぶ人たちとも目を合わせた。全員が俺を見ている。視線が集中する。それを肌に感じて息を吐いた。
「俺は、月次アキラ。みなさんの、言う通り、人狼です。それは否定、しません」
「なっ……」
ざわざわと困惑が広がる。あれだけ確信めいた言葉で武装して押し寄せていたくせに、いざ俺が肯定すると動揺する。
彼らだって噂を盲目的に信じたいのではない。見えなくなってしまった部分を、別の何かで塗り潰して埋め立てようと必死なのだ。見えていないと怖くて動けないから。
「やっぱりそうだったの! この……化け物! よくも騙してくれたわね!」
「ですが、みなさんの敵、ではありません。俺は勇者です」
「何言ってるの⁉ 今、自分で化け物だって言ったじゃない!」
「化け物だとは、言ってません。俺は人狼ですが、人間と敵対するつもりはない、ないということです」
「そんなの……意味が分からないわ! 言い訳はやめて!」
「言い訳じゃありません!」
杖を打ち下ろす。硬く高い音が響いた。耳がそれを拾っている間、罵声を浴びせる口は止まる。言語の応酬だ。対話の余地が、まだ残っている。
俺は努めて平穏な表情を浮かべて見渡す。
「みなさんは、どうして勇者を信じてたのですか?」
「何よ、急に……」
「俺は勇者を信じてませんでした。自分が勇者だなんて、その偉大さに釣り合ってないと何度も思い詰めました。でも……今となっては違います。まだ完全に信じ切ってはないけど、信じたいと思うようになりました。それはみなさんのおかげです。ありがとうございました」
何を言っているのかと、目を見張ってこちらを凝視する視線の数々。勇者を信じることは、この時代の常識だ。みんながそう思っているからそう思う。誰が言い始めたのかは知らない。言語化すらされない原初の宗教だ。
あるいは道徳と言い換えてもいい。人を殺めることは悪だ。動物を食すことには命の大切さを感じろ。最大多数の最大幸福を求めるべきだ。社会通念が、標準的な価値観が常にそれらを是としてきた。なぜと問われて独自の見解を述べられる人は少ない。信じることが当たり前で正義だった。
俺はそれを疑い、問いかける。
「みなさんがこれまで信じてきたのは、勇者の使命ですか? それとも俺個人ですか? 魔王を倒してくれるなら誰でもいいと思ってましたか? 俺じゃ、嫌ですか?」
人々が顔を見合わせる。言葉は交わされずとも、そこに戸惑いがあることは確かだった。誰かがそれを口にするのを待っている。「自分、いいですか?」すっと手が挙がる。
「えっと……自分は、勇者様が魔王を倒してくれるってことだけを信じて生きてきました。だって偉い人たちがそう言ってるからで、その中身が誰かなんて考えたこともなかった……月次アキラさんの顔は今日初めて見たし、人狼だってこともさっき知ったことです。同じ王都に住んでるのに、知ろうとしてなかったんだ」
話しながら、その顔がはっとする。隣にいた若い女性も同じように手を口に当てた。
「あたしも、勇者様のことはあんま意識してなかったかも……」
「でも、勇者様さえ信じてりゃいいって、いにしえ様が……」
「俺はみなさんの勇者です。勇者が俺なんじゃなくて、俺が勇者であることを志したんです。俺が魔王を倒します。俺がみなさんを救います。だから、俺を見ていてください」言葉と共に、獣のそれがよく見えるように手を振りかざす。「剣に選ばれた俺でもなく、狼の皮を被った俺でも、神でも家族でもない俺を見てください。みなさんが思うだけの俺がいるけど、その中でたった一つ、救ってほしいとそう思ってもらえる存在でありたい。それが勇者というのなら、俺は勇者を名乗ります」
場は、とても静かな空気に包まれていた。そこには虚ろな熱気が揺蕩う。
身じろぎ一つ、淡々とした小さな声でも、人の感情と感情を伝って広く響く。夜のなかの隠し事のように、狩りの終結の一撃のように、儀式の太鼓が打ち鳴らす鼓動のように。
「誰かの勇者を信じないでください。どうか、俺を信じてください。お願いします」
深く頭を下げる。後頭部に人々の視線を感じる。背中に両親の眼差しを感じる。
どさりと、先頭の女性が崩れ落ちた。顔を押さえ、涙を流しながら突っ伏す。
「怖かった……今まで信じてたものが裏返って、何もかも嘘だったのかと思うと苦しくておかしくなりそうで……。でも、そうね。私は何の努力もしてない。ただ皆と同じものを信じる自分が誇らしかった。誰を崇めてるのかすら、まともに知らなかったのね……ごめんなさい、ごめんなさい……ごめんなさい」
見ている方が不安になるほどの感情に溺れ、息継ぎをする。それは彼女一人ではなかった。今はまさに歴史の転換点となる時代だ。目に見えない緊張が日常に充満し、いつ割れるか分からない薄氷の上を歩いていた。一度転べば起き上がるのは困難を極める。
「……私たちは、まだ勇者を信じていいの? この気持ちが報われる日は来るの?」
「あなたがここに来たのは、それだけ信仰心が強かったからでしょう? 信じられなくなったことが疑わしくて、直接目で見て確認しようとしたんですよね?」俺は片膝を突き、彼女と目を合わせる。「紛らわしいことをしてごめんなさい。でも、もう安心してほしいです。俺に任せて、俺を信じてください」
「はい……」
じゃり、と傍に小さな影が落ちる。振り向く。やはりあの時の少女だ。今日はさすがに老婦の姿は見えなかった。
それはそれで不用心だと思ったが、俺が言えたことでもないと気付いて苦笑いした。少女は少し不満そうに、しっかりしろと言いたげに腕を組む。
「腕、戻っていますね。声もちゃんとしています。余計な心配をかけさせないでください」
「あっ、本当だ。……ごめんね。でもありがとう。また、助けられた」
「約束、しましたからね」
「うん。必ず」
決意を見せつけるように立ち上がり、今度は両親の方に向き直る。
この場の騒ぎは収まったが、第二波が来ないとも限らない。来る人全員に俺の気持ちを伝えて宥めている時間などない。
「父さん、母さん。俺、もう行かないといけないんだ。だからここは……」
「俺を、誰の父親だと思ってるんだ」
ずいと歩み出る父が仁王立ちで足を踏み鳴らす。
「この家は俺の国だ! 騎士団として王国を守るお前を、家族として俺が守ってるんだ! いいか、アキラ。人と場所が自分を決定づける。その手に持ってるものはなんだ? そうだ、俺が庭の木を削って作ってやった杖だ。中には彫り師のおっさんに繕ってもらった刃が隠されてる。それが剣として振るわれる場所は、少なくともここじゃない」
父の脇腹が横から小突かれる。
「私たち、の国よ」
「うぐっ! そ、そうだ。俺たち……私たちの国だ。だからお前は、お前を待っている人のところに往け。心配は要らない。幼い女の子に庇ってもらってばかりじゃ俺の顔も立たないしな。それに、見ろ」
顎で示された先を見ると、家の前に群がった人たちの姿があった。誰も彼もが俺の訴えを聞いて納得してくれるわけではない。しかし、納得してくれた人は確かにいる。今度はその人たちが少女と同じように波を受け止めてくれていた。
想いは人に、場所にもたれかかる。俺の意志は人を跨いで理解を繋いでいく。
「戻るぞ、月次」
「ああ。……みなさん、さよなら! いってきます!」
大きく手を振って背を向けると、応えるものがあった。
「酷いこと言って悪かった! 今度はちゃんと応援するから!」
「頑張れよ! 俺たちの希望!」
背中をいくつもの声が押してくれた。乗り切ったと、清々しい気分で来た道を戻る。
嬉しい気分も束の間、今すぐにでも仲間の危機に駆け付けなければならない。
「ハッ! 都合が良すぎやしねえか? めでたいヤツラだぜ」
「人間、そんなもんだよ。俺だってもし戦う力がなかったらあっち側だったかもしれない。それに、あの人たちのおかげで俺が生まれてくることができたんだ」
俺たちはユナと合流し、王城に準備された転移室へ向かった。扉の前でハルが手を差し出してくる。瞬きの後、そこには本があった。
「月次。コレ、持ってけよ」
「これって……」
「母サンの手記だ。時間がある時にでも読め。オレはもう記憶した」
「……分かった。ありがとう」
彼は王都に残り、どうやら国王のことで色々と処理することがあるらしい。魔王を倒せても国が機能しなかったら元も子もない。ここは彼やサオリさん、父と母、そして信じてくれる人たちに任せて大丈夫そうだ。
「出発します! ちゃんと掴まっててください!」
成人が二人入るだけでもかなり狭く感じる小さな部屋で、ユナの手を握る。ユナは身体を丸くして寝転がっている。曰く、その姿勢が触媒なのだという。
人や物を連れての転移には複数の条件が存在する。詳しいことは彼女の主観に依るので不明だが、移すものの形や中身をしっかりと認識して自身の内的感覚に取り込み、転移先の場所を想起して、そこにいると思い込むことが重要らしい。意外と面倒な魔法だ。
薄暗い部屋の中で目を瞑る。様々な人の顔が瞼の裏に浮かぶ。鮮明に像を結ぶのは、騎士団の仲間たちだった。
今も懸命に戦っているのだろう。俺のせいで多大な迷惑をかけてしまった。特に団長やヒロミさん、そしてアサヒ。彼らに対する恩は忘れない。たとえやり直しをされたとしても、覚えておかなければならないことだ。
ふっと宙に浮くような感覚があった。周囲は相変わらず薄暗い。だが、扉を開けると戦場の臭いが垂れ込んでくる。ここは王都ではない。簡易的に作った転移装置の中だ。
外に出ると、魔界特有のひりついた空気が肌に触れた。起伏の激しい山岳地帯だ。鈍色の山塊が空を隠し、拒絶の稜線を引いている。月すらもその輝きを主張できない。雄大な自然を見た時に感じるものとは異なる圧迫感が身体の内部に浸透する。
俺たちは、圧倒的な崇高の領域にすでに取り込まれていた。進んだ先に光はなく、逃げ出そうにもかつての温もりは消えている。気を抜けば、足を支える地面が消えて底知れない闇に落ちていきそうだ。心は覚えてもいない原初的な恐怖を呼び起こす。赤子の時代に戻り、途方もないほど広く冷たい空間に、独りぽつんと残されているような居心地の悪さ。
団員たちは剣と松明を手に大きく陣を取っていた。決死の形相で前方を睨み、何かの接近を警戒している。
「花筺ユナ、復帰しました! アキラ先輩も来てくれたよ! 陣形を変えて! 突撃する!」
凛とした顔で号令を出すユナの目元は涙で少し滲んでいる。転移魔法を使う度にそれを見る。ずっと疑問に思っていたが、理由はまだ知らない。
周りの人間をまともに知ろうとしていなかったのは、どうやら俺も同じらしい。
「ワウッ! ガフガフ、ワオン!」
「ラリス! 元気だったか! よしよし」
どの団員よりも早く、白い塊が鼻息を荒くして胸元に飛び込んで来た。九尾のような尻尾が視界を埋める。一気に懐かしい感覚が全身を包んだ。
「おかえり」
そして、声がした。
「アサヒ。ただいま。……待たせてごめん」
「待ってた。アキラが寝てる間に、準備は大体済ませておいたよ」
透き通った白の瞳と向き合い、俺は笑った。もう懐かしい記憶だ。随分と遠くまで来たのだと実感する。しかし重要なのはこれからだ。
「アキラ君! その顔を見るに、色々解決してきたみたいやね。よかった」
次に、やや高めの抑揚と共に第三分隊長の襟章が光って現れた。俺より四つ年上で後輩の面倒見がよく、顔や仕草にまだ幼さを残した男性だ。
「迷惑をかけました、ナオキ分隊長」
笑って手を振る彼に礼をする。積もる話も世間話もしたいが、そんな暇はない。俺は息を整えて前に出る。
「みんな、心配かけてごめん! 色々あったけど、もう一度、俺を信じてほしい!」
「やったあ! アキラさんだ!」
「俺たちの勇者が戻って来たぞ!」
団員たちの顔に光が差し、迎える声が華やぐ。陽の届かない八十七夜に、かすかな燐光が灯った。
「俺も! みんなと一緒に戦いたい! 団長たちを救って、魔王を倒そう!」
「「「はっ‼」」」
心構えを新たにし、俺は踏み出した。足音は一つではない。父の作った杖に、ラリス、そして仲間たちの足踏みが地を揺るがす。陣形は鋭く強靭な矛を象り、不毛の山を切り拓いていく。
「俺が、俺たちがみんなの勇者だ!」