第十二話『全人類に望まれて生まれた子』
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完全に無音の環境というものは存在しない。音の鳴る要素をどれだけ排除しようと、最終的には自分自身の呼吸、鼓動、そして血流が空気を揺らす。
それらは壁や天井に反射し、何もない空間を巡って満たしていく。普段の生活では埋もれるはずだった極小の音響が、むしろ新鮮で繊細な解像度をもたらしてくれる。慣れればほとんど音だけで感覚景色を構成することもできそうだった。
鉄格子の中での処遇は良くも悪くも無味無臭だ。配食以外に外からの干渉はなく、太陽の位置も分からない永夜をただひたすらに過ごす。
遠征隊を追放された俺にできることは、その時間を価値あるものに彩ることだ。
また、注意すべき点として、余計な記憶をまさぐらないよう確固たる意識を保つことに神経を尖らせていた。よりによって最も重要な時期に顕在化した俺の本性——神と人狼、ないし魔王をも引き寄せかねない——が、いつどのような記憶を足掛かりに現れるか分からないからだ。いま再び暴走でもしようものなら、仲間の信頼など永遠に得られなくなるだろう。
起きている間に、そうして意識と思考を真っ直ぐに捉え続けることは難しくない。最大の敵は眠気だ。少しでも意識があいまいになると、たちまち危険な景色が立ち現れようとする。いつも夢に見る景色は、愉快でないものばかりだ。もちろん、それがすぐに俺を呑み込むとも限らないが、問題なのは呑み込まないとも限らないということだ。
常に正しいと思うことを頭に浮かべる。嫌な想像をしない。心に平穏を宿す。飛躍した連想は断ち切る。秩序を保つ。不幸の出処を探らない。最善の未来を確信する。最悪の結末を捨てる。笑顔を思い出す。苦痛を受け入れる。日常を取り戻す。魔の手が襲い来る。剣を持って立ち向かう。剣が輝く。大人たちが口々に言う。勇者様。勇者様。お救いください。勇者さまならできますよね。人類の未来は安泰だ。なんてったって勇者さまが降臨なさったのだから。魔王なんて一発で倒してしまえ。できないわけがない。いにしえ様が仰ってたんだ。勇者様万歳。勇者さまだ拝んでおけきっとご利益があるぞ勇者様はまだか。どうして助けてくれないの勇者様使命は一体どうしたのですか噓でしょ勇者がこんな子どもなんて騎士団にはもっと強い団長がいるんだろ足音が聞こえる誰か来た勇者さまなんでこんな普通の子が勇者なんかに選ばれたんだもう駄目だ終わりだ両親も一般家庭なんだって王族でも貴族でもないだと目も不自由らしいわね戦えるのか祝福すらまだまともに——
「——ハッ! 結局こんなとこに来るハメになるとはな……だが、まさかテメエの方が出頭するなんざ聞いてねえぞ、月次!」
豪快な声が、耳朶を貫いて高く轟いた。
「わ——っ⁉」
「どうした? 幽霊でも見たようなツラしやがって。そんなにオレの印象は薄かったのかよ」松明を片手に姿を現したのは、長い外套を身に纏ったハルだ。「てか、さっきのテメエの方がよっぽど幽霊みたいなツラしてたぜ。瞳孔ガン開きで青ざめたままブツブツ言うもんだから、呪文でも唱えてんのかと思ったじゃねえか」
ぐわんぐわんと、まだ耳元で揺らぐ残響がうるさくて内容が入ってこない。無機質な文字列だけが頭のなかを通り抜けていく。俺は頬を叩き——意識が現実を掴んだ。しっかりしろ。あれだけ気合を入れたくせに、良くない方向へ思考が傾いていた。
「事情は大体把握してるぜ。とんでもねえ目に遭ったそうじゃねえか、オオカミさんよ」
「き、君がなんでこんなところに……」
「ここまで連れて来てほしいってヤツがいてな。まあ、オレも聞きてえことがあったからそれも兼ねてだ。ほらよ」
そう言ってハルが一歩下がると、後ろから誰かが顔を出した。暗闇に溶け込んで消えてしまいそうな黒の修道服と同じ色の髪、しかし俺の目にはそれを照らして余りあるほどに強い情動の色が見えていた。
「サオリさん⁉」
「アキラ、ここを出ますよ。準備を」
「えっ? ちょ、わっ」
返事も待たず、鉄格子の隙間に押し込まれた水筒を受け取る。そこで自分の喉が渇いていることに気付いた。一気に飲み干すと、冷たい水が身体に沁み込んでいくのを感じる。眠気が完全に消え、心なしか力も湧いてくる。
明瞭になった頭で真っ先に浮かぶのは、やはり疑問だ。儀式で暴れ回った王族のハルと、教会で修道女として在籍するサオリさんがどうして一緒にいるのか。しかもこんな監獄の最下層にまで来るとは。
「そういえば、事情は把握してるって……」
「ああ、そのことだがよ。テメエが人狼だったっつーこと、もう随分派手に漏れてるぜ。王都じゃどこもかしこもテメエの噂で持ち切りだ」
言われたことが信じられず、俺はサオリさんの方を見る。無言で頷きが返って来た。どうやら彼の言葉は本当らしい。
角干での騒動が王都に伝わった。しかし、それを知っているのは角干の住人と遠征隊の団員たちだけのはずだ。いや、監獄に収容する過程で王城にも当然連絡があり、そこから漏れたのだろう。なにせ内容が内容だ。むしろ世迷言と突っぱねられてもおかしくないが。
「……そっか。ちなみに、外はどれくらい経ってる?」
「オレの聞いた話じゃ、テメエが遠征隊を外されてここに収監されたのは、六日ほど前だな。……まさかとは思うが、今まで一睡もせずに耐えてたわけじゃねえよな?」
「ああ……いや、君が来てくれる寸前の数秒は寝てたかも」
「同じだろバカが」
ガチャリと錠を開けて乱暴に開け放つハルに、俺は立ち上がる。あまりに自然な流れで何事もなかったかのような顔をしているが、牢屋の扉を一体どうやって開けたのか。見たところ、鍵も持っていない様子だ。
「相変わらず、君の祝福はよく分からないな」
「その話は後だ。ひとまずここを出るぞ」
急ぐ二人の後を付いていく。この監獄の全貌を知る者はいないとされている。地面の下に隠され、犯した罪の重さに比例して収監される階数も下がっていくという仕組みだ。俺の現在地は、定かではないが恐らく最下層の五層だと思われる。
アリの巣を彷彿とさせる地下の迷宮だ。構造そのものが脱獄の壁となり、地図がなければ看守も道に迷いかねない。真偽のほどは怪しいが、方向と速度の感覚を狂わせるだの出口を意識の陰に隠すだのと、不可思議な祝福の使い手が看守の中に潜んでいるという都市伝説もある。とある囚人いわく、追って来る看守の姿が、小説を一行ずつ読み飛ばしているかのように断続的に映ったのだという。その情報がどうやって地上に届いたかは謎だ。
二人の足取りは、もたつくことなく進んでいた。そういうことも含めて、聞きたいことは山ほどある。俺なんかに協力して大丈夫なのか。罪人の脱獄に加担したことで、二人も罪に問われるのではないか。
だが言葉は呑み込んだ。二人ともそんなことは承知の上で来たはずだ。勇者の失脚が噂される王都で、あらゆる危険を冒して助けに来てくれた。まずはそれに対して答えなければならない。
「ありがとう。おかげで助かった。本当に……すごく嬉しい」
俺は、最大限の心を込めてそう言った。他に表しようのないくらい、本心からの言葉だ。
そもそも、俺は最初から脱獄する気だった。団長とヒロミさんの言葉からして、それを示唆するものはいくつもあったからだ。具体的にどうすればいいのかは分からず途方に暮れていたが、まさかここまで直接的な形で援軍が駆けつけてくれるとは。
「ていうか、さっきから看守がこっちを見ても捕まえに来ないのは……」
「そういう指示があったらしいな。なんなら入り口からしてザルだったぜ。ちっと会いたい相手がいるって伝えたら普通に通しやがった。要はアレだ、テメエの収監なんざ形ばかりのモンってこった。ハッ、やっぱ騎士団は面倒なヤツラしかいねえ」
三人で堂々と走り回っても、看守たちはちらりと一瞥するだけだ。異常事態に騒ぎ立てる囚人たちの声を背に、俺たちは階層を上がっていく。ひとけのない長い廊下の半ばでハルが俺の横に並んだ。
「オレはずっと母サンの仇を討つことばっか考えてた。世間じゃ急に行方をくらませたことになってるが、国王のヤロウが何か手を回したのは明らかだ。元から姉弟で仲が悪かったらしいし、玉座を奪うために暗殺でもしたんだろって決め付けてた。
だがな、オレは、テメエに負けてから色々と調べたんだよ。もちろん平和的な方法でな。王国の歴史やら王族の秘密やら、そういうモン諸々をだ。それで見つけたのが、母サンの遺した研究日誌だった」
研究日誌と聞いて思い出すものがあった。彼女は玉座を引き継ぐと同時に、財政支援を通じて大々的に祝福の研究を推し進めた人物としても知られている。必要以上に乱雑だった定義や分類を最適化したり、様々な使い方を模索して差別を抑えたりしたほか、身近なところでは騎士団が祝福の触媒を用いるようになったきっかけでもある。
突然の失踪と共にその功績も人々の認識から薄れ、現在ではあまり語られもしていない。成し遂げたことの偉大さと名声が釣り合っていないという話をどこかで聞いた覚えがある。
「あと、これは王家の人間しか知らねえ秘匿情報なんだが……」
ハルの目がサオリさんの方を見る。
「……」
「……」
「……?」
「なに首傾げてんだ! テメエだよ、一般人コラ! 耳隠すフリくらいしやがれ! 顔色一つ変えねえとか……オイ月次、この修道女大丈夫かよ?」
「大丈夫、変に言いふらしたりするような人じゃない」
乱暴に頭を掻き、ハルは舌打ちして俺を睨み付けた。
「調子狂うぜ……まあいい。王族の持つ魔法は知ってるか?」
「いや、勇者でもそれは秘密にされてるんだ。せいぜい噂程度にしか……」
「じゃあ手短に話すぜ。王族の魔法は、全部記憶に関連したものが発現する。例えばオレは過去の記憶を色々と引き出す力だ。牢屋の錠を開けたのも、開いてた頃の記憶を持ってきたからで……」言いながら手を虚空にかざして手品のように翻すと、そこには短剣が握られていた。「慣れればこうやって、何もないとこから武器を引き寄せることもできる」
それは、散々記憶に振り回された今となっては何か特別な意味を持っているようにも思える内容だった。
記憶にまつわる魔法というだけなら一般人の中にも発現させた者はいる。かなり珍しい部類だが、ユナがまさにその祝福持ちだ。ただし、制限や代償が実用性に繋がらないものが多く、個人でそれを上手く活用しているという話は聞いたことがない。
「重要なのはこっからだ。俺たちは、過去に死んでった王の記憶を見ることができる。日記帳みてえにはっきりと読み取れるワケじゃねえ。ぼんやりとした思い出くらいにな。それで母サンの最期を何度も見ようとしたが、ついぞ一度も成功しなかった」
彼の横顔には悔しさともどかしさが滲み出ている。しかし、それを覆う別の色が見えた。
「でもそれってよお……逆に言えば、まだ死んでねえってことにもならねえか?」
「……それは」
「分かってる。失踪からもう十七年も経ったんだ。無駄な楽観視かもしれねえ。でも、オレはそれを信じてえと思った。それだけだ」
淡く、青緑に灯った意志が彼を包み込む。最初に出会った時とは見違えるほどの変化だ。彼はもう復讐の感情に囚われていない。
「で、オレがテメエに聞きてえのはまさに母サンのことなんだが——」
「——待って。外に、誰かいる」
大迷宮も、迷わなければ出口はすぐそこだった。最後の階段を上った先に扉がある。その向こうから、わずかに人の気配がした。息を切らして地上の光に飛び込む。しばらくぶりに見る陽の光は、夕焼けとはいえ、眼鏡のない目にはひどく眩しい。
眩しさが落ち着いてきた頃、出口には一つの人影が見えた。少し腰の曲がった中年の男性だ。豪奢な礼服は風にもなびかず、厳粛たる重みを持ってその存在感を誇示する。褪せた金髪の中に白髪が光る。黒い瞳孔が、細い目を満たして妖しく佇む。
最初は見間違いだと思おうとした。監獄の管理人でもいるのかと考え、即座にそれを否定する。見間違えるはずがない。ギリッと歯の軋む音が横から聞こえた。
「なんでテメエがここにいやがんだよ……千住トモヒト!」
普段は玉座で寝るでもなく目を瞑っていることの多い国王が、単身で監獄を視察しに来る。そこはかとなく不自然なその状況に俺たちの足は止まった。
ハルがすぐに襲い掛からなかったのは幸いだった。俺が人狼だという話を噂でなく確実に聞いている国王との遭遇、それも一度は大っぴらに反逆を企んだハルと一緒に脱獄している場面を見られたのだ。看守の件は団長が手を回してくれたのかもしれないが、これは明らかに違う。国王の一存でみんなの助力が水の泡になりかねない。
「……」
王は、何も言わずに佇んでいた。俺たちは目を逸らさずにじりじりと進む。決して、王が偶然ここに来て呆けているわけではないということが、静かに追随する視線から分かる。
俺は息を詰め、様子を窺っていた。彼が放つ情動の色は、どこかで見たことがある気がするものの、判別するにはやや薄い。何かをぼんやりと考えていながらも、しかし表情に出すほどには言語化されていないといった具合だ。半ば無意識の佇まいが、なぜかやけに不気味に映る。
張り詰めた緊張の中を潜り、国王の横を素通りする。鋭利さを増していた視線がとうとう途切れた。そのまま平然を装い、立ち去ろうとした時だった。
「……噂は、この俺が流布させた」
しわがれた声が、俺を振り向かせた。
王は背を向けたまま少しも動いていない。足も、首も、情動の色も。ただ、口から紡がれる独り言のような言葉だけがかろうじて俺たちの耳に届く。
「それなのになぜ絶望しない? なぜ諦めようとしない? ここまで追いつめているというのに……ああ、本来の在り方を思い出すのだ、我が子よ」
「なっ……⁉」
耳を、金槌で思い切り打たれたような衝撃が揺るがした。轟音が頭蓋の内に響き、記憶の欠片が激しく火花を散らす。思い起こされるのは、あの悲劇が起こる前の冷たい空気だ。
あの時、異言爺が放った色と言葉と、その音も熱も持たない静かな激情。夕焼けに落ちる影と同化した黒々しい意志が首をもたげていた。
「お前は……誰なんだ」
「俺は五十七代目国王、千住トモヒトだ」
「違う! あなたの、名前じゃない。あなたが、俺に対して抱いてる、その感情の根源にいる人間だ! そこに、誰がいる?」
「なんだ、どういうことだよ?」
ハルとサオリさんが怪訝な顔をする。彼らが気付けないのも当然だ。俺だって、とうに死した者の声を聞いていなければ分からなかった。しかし、その主がまさかこれほど身近にいたとは。
「ふん。そこまで知ってなお、この程度か。つくづく悔やまれるものよ」虚空を眺めながら、王は無造作に伸びた髭を弄る。「俺は千住トモヒト。だが俺の心は、二十八代目国王、千住サトシその人と共にある」
そこで初めて、俺は王の人間らしい感情を目にした。声にも芯が通り、生き生きとした活力が神経と血管を巡っている。老けて白くなった髪、シワの連なる顔、曲がった腰、どれも遠征前と寸分も変わっていない。そのはずだが、俺には別人に思えてならなかった。
あれは、本当に俺が知っている千住トモヒトなのか?
「二十八代目国王だあ? 一体何百年前の話をしてやがる! まさか記憶が……人格がそのまま残ってるっていうのかよ⁉」
「人格というほどではない。単に俺が彼の記憶を拾い上げ、追随しているだけよ」
二十八代目国王、千住サトシ。聞けば名前だけなら何となく覚えがある程度の歴史上の人物だ。千年続く王国の、およそ折り返しに位置する時代を統べていた彼が、どうして現代の国王にまで影響を及ぼしているのか。
それに、異言爺の降ろした霊が過去の国王だとしたら、新たな疑問が生まれる。俺が魔王の後継者問題を提起したのは、『王国を追い込む』だの『次の時代の魔王』だのと俺を煽り立てた言葉が、当然魔王側のものだと思っていたからだ。
その前提が崩れる。王国内に破滅を願うものがいたなどと、どうやって予想できようか。
「あなたの、目的はなんですか? 俺の噂を流して、国王様自ら王都を混乱に陥れたいのですか⁉ 魔王の討伐は⁉ 遠征の資金だって、我々騎士団と時長がほとんど——」
「——ああ。今、お主が言った通りだ」
「お、ぁ……え?」
「勇者が人狼だったという噂を流し、王都を混乱させ、魔王の討伐を困難にする。それが俺の目的に違いない。全て知っているではないか」
どうして、この人は。いつもいつも、他人の抱いている感情など意にも介さないとばかりに、平然と心ない言葉を口にするのか。一体、何を思って玉座に肘を突いているのか。
「な……んで、そんなことをっ! あなたと千住サトシは魔王の手先なのですか⁉ そんなに俺のことが、勇者が信じられませんか⁉」
「なに? どうしてそうなるのだ。そんなわけがなかろう。俺ほど……千住サトシほど勇者を信じている人間は存在しない」
「調子のいいお為ごかしを……だったらなんで!」
「そもそも、勇者信仰の基盤を作ったのは彼だからだ」
まただ。また、耳がひりつく。あの時のように重苦しい空気が視界に黒く垂れ落ちる。
「勇者信仰はおよそ五百年前に創られた。千年前から代々受け継がれる預言として、千住サトシが歴史を書き換えたものだ」
「……は?」
「当時、この大陸には魔王はおろか、祝福という概念も存在しなかった。しかしある時、魔王の降臨と共に同時多発的な祝福の覚醒が起き、王国中が混乱に包まれた。だから彼の王は古い信仰心という新芽を植え付けたのだ。偽の伝統を捏造し、勇者を虚構し、未来への希望を見出させた。五百年の月日を経て無数の人々が溜め込んだ、勇者という架空の入れ物への感情や想いの結晶体……それこそがお主よ」
喉元が絞られるのを感じる。言葉がつっかえて上手く出てこない。
出来の悪い法螺話だと否定するための色が感覚視野には見えなかった。祝福は常に公平で残酷だ。彼は全く嘘を吐いていないと、確信してしまった。
「なにゆえ、人狼などという話が出てきたかは知らんが……この際だ、利用させてもらおう」
「……」
「我が子よ。勇者よ。お主は全人類に望まれて生まれた子、魔王を倒すためだけの生物、王国の一番の矛よ。期待に熱され、苦境に砥がれる刃でなくてはならない。この国が追い詰められるほど、お主は人々の想いに呼応して強くなる」
少しの違和感があった。しかしそれを考える余裕が頭のなかにはない。
「この世に産み落とされた理由を思い出せ。希望は絶望の陰にある。魔王という旧世代の遺産を凌ぎ、新たな世界の覇者となるのだ」
その声を遮るようにハルとサオリさんが視界に入り込む。肩が強く揺さぶられる。
「聞くな、月次! あいつとの対話は諦めろ!」
「は、る……。でも、俺は勇者として……いや、勇者なんてなくて……俺は」
「目を醒ませよっ! アイツは過去の妄執に縋ってるだけの亡霊だ! 考え方の違いとかじゃねえ! 聞くための耳も、理解するための現在も持ってねえんだよ!」
「その通りです、アキラ。国王様……いいえ、あの男が何と言おうと、あなたがあなたであることには変わりありません。両親の愛する子であり、アキラ自身が志した勇者でもあり、互いに背中を預ける騎士団の一員でもあるのです。過ぎたことは戻りません。あなたの積み上げてきた素敵な過去は、私たちの記憶のなかに残っています」
サオリさんの顔は微動だにしない。しかし、堅く毅然とした表情の裏に隠れた信頼が肉眼でも分かった。
深呼吸する。ここに来た理由、これから行くべき場所を思い出して二人を見つめ返した。
「ありがとう、二人とも」
頷いて一歩踏み出す。先ほどとは違う足取りで近寄り、こちらを振り向かない国王の前に回り込む。黒い瞳孔が見上げる。俺は大きく息を吸い込んだ。
「話す時はぁ! 相手の目をぉ! 見ろよジジイ————っ!」
自分でも驚くほどの声を振り絞って思い切り吐き出した。そこには鬱憤と不満と怒りと恐れとヤケクソがない交ぜになっていた。
国王の目がわずかに開かれる。乾いた唇が言葉を紡ぐ前に、俺はもう一度息を吸う。
「この際だ、俺だって言うこと言ってやる! ずっと気に食わなかったんだ! 人を馬鹿にするような言い方! 何も支援してくれないくせにいつも偉そうな態度で! 五百年分の人々の想いが俺を創ったって⁉ ありがとう、良いこと聞いたよ! これでまた頑張れる! 五百年分の元気を背負った俺が、魔王を倒してやる! どうだ満足か⁉」
息が切れる。落ち着いて呼吸を整える俺に、王は緩慢な動作で頬を拭い、睨め付ける。
「いいや、まだ足りない」
「なにがですか」
「絶望だ。お主は人に善性を期待し過ぎている。期待というものは返ってこない時にこそより強く望むのだ。分かるか? 人は勇者を信じるが、勇者は人を信じるべきではない。魔王を倒しに行く道中、幾度も裏切られたのではないか? そしてこの俺にさえ、拙い悪口を吐くので精一杯なのだろう。人は利己的な生き物だ。お主が思っているより醜く愚かで救い難い。だからこそ絶望させ甲斐があるというものよ」王は嘲笑うように髭を撫でる。「……そうだな。こういうのはどうだ? 勇者の噂を聞いて憤怒した誰かが、腹いせに勇者の家に突撃した」
鼓動が、強く打ち鳴らされた。
「それは……お前の仕業か?」
「さあな。あくまで可能性を述べたまでよ。噂を流したのは俺だが、それをどう判断するかは民草次第だ。人の口に戸は立てられぬ。どうだ? そんなに人を信じたいなら、両親の安否は心配なかろう。早う魔王を倒しに往くがいい」
「千住トモヒトっ! テメエは、どこまでクソになる気だこのヤロウ!」
「アキラ……」
彼の話は、確かに全くないとも言い切れないことだ。子が人狼なら、その親も疑われるのは必然だろう。それに勇者となれば尚更だ。これまでの信仰の反動が来る。もしかしたら今この瞬間にも、俺の両親が暴徒と化した王都の人間と対峙しているかもしれない。
「まだ絶望しあぐねているのか。これは荒療治が必要かもしれんな。どれ、お主の最も脆弱な勇姿を曝せ。俺が確実に突き崩してやる」
気付けば、大きな闇が目の前に迫っていた。王の手のひらが俺の顔を覆う。
ハルの手がそれを阻止しようと伸ばされ、サオリさんの腕が俺の腰に回されて引っ張られる感覚があった。それでも遅かった。闇のなかから何か得体の知れないものが首をもたげ、睥睨する。
目が合った。いや、それが見ているのは俺の過去だ。この期に及んでもまだ、王は俺と向き合うつもりがないらしい。
額から頭蓋の奥へと、闇が這い寄る。
「な、なんだ、この記憶の量はっ⁉」
一瞬の暗転ののち、光はすぐに戻ってきた。思わず足がもつれ、サオリさんと共に転ぶ。顔をしかめつつ見上げると国王が目の辺りを押さえて呻いていた。
「お主は、こっ、こんなものを溜め込んでいたのか⁉ 何も見えない……遠い、寒い! こんな、これほどまでに途方もなく、果てしない景色のなかで、どうやって……っ」
「オイ! このジジイは急にどうしたんだ、何が起こってやがる⁉ ……まさか、祝福で記憶を覗いたのか?」
「ぐ、おおぉぉぉ……あが、が、かっ」
突如として豹変した国王の様子を、俺たちは呆然と眺めていた。国王は頭を抱えてふらふらと千鳥足で悶える。視線があちこちを泳ぎ、やがて俺の方を向きながら沈んでいく。
「月次、あき、ら……お、おぬしは、す、でに、まおうに、ぁぁ……——ひゅぅっ」
音のない風が吹いた。
しわがれた声を押し出して喉の奥から悲鳴が上ってきたが、それが外気に触れるより早く、国王の身体が強張り、目はここでないどこかを見ようと瞼の裏に隠れた。一気に染め上がった白髪が、老木についた枯れ葉のように舞い落ちていく。
数秒にも満たない出来事だった。この世のものではない何かを見たと顔面中の筋肉を使って表現し、立ったままピクリともしない。完全に石像や彫刻の類だ。
「よく分からねえが……もうまともに動けねえみてえだな。ざまあねえぜ」
興味を失くした目で吐き捨てるハルが歩いてくる。俺はサオリさんの手を引いて起き上がらせ、服に付いた砂をはたき落としていた。
服に擦れた爪が、その繊維を紙のように柔らかく切り裂いた。血の雫が落ちる。
「あ……くっ⁉」
次の瞬間、頭がとてつもない衝撃に撃ち抜かれた。額に電流が迸り、バチバチと細胞を焦がす。視界が明滅する。杖で身体を支えていられない。
「アキラ⁉」
「月次、テメエ……」
二人の呼びかけに答えようとして気付いた。声が出ない。獣の唸りに似たくぐもった音だけが喉に反響し、押さえる手も鋭く無骨なものだ。獣に似た、ではない。まさしくその獰猛さが腕にびっしりと逆立っていた。
「し、まった……っ、きおく、がぉ、ぐるるる……」
それは人狼だった。国王に引き出された記憶が、俺の異形を呼び覚ます。
耐えろ。耐えろ。ここで再び誰かを傷付けてしまったら、いよいよアサヒのもとに戻れなくなる。
記憶自体は薬とも毒とも言い切れない、万物に備わった一つの機能だ。ならば人狼という記憶も俺を害するためだけのものではない。自分のものだと受け入れれば、もう少し制御が利くかもしれない。
それも対話だ。疑い、受け入れ、信じることに答えがある気がする。なんとなく抱き続けていた信念に、軸の刺さった光明が差し込む。
「抑え込んでやがるのか? 月次、テメエ、オレの声が聞こえるな?」
「ぐるる、がぁ……」
俺は警鐘の打ち鳴らされる頭から意識を離そうと努めながら、なんとか首を縦に振る。
「しっ! 誰か、来ます」
言われてサオリさんの指差す方を見ると、確かに王城側の道を人影が走って来ていた。幸い、腕以外はまだ人間のままだ。まだ隠し通せる。
……それでいいのだろうか? 醜い部分を隠し、一人で抱え込むことが正解なのだろうか? 切羽詰まった状況で、そんなことを考えている内に足音はすぐそこまで迫っていた。
国王の護衛か、あるいは騒ぎを聞き付けた一般人か、そう思って警戒した心はすぐに解けた。夕焼けの逆光で顔が隠れていても、感情の色や走り方などから大体は分かる。
「ユなっ!」
「はあっ、はあっ……えぁ、わああぁぁぁっ! ……まさか、アキラ先輩ですかっ⁉ そうですよね! ほんとに狼の毛がぁ!」
慌てた様子のユナは大きく声を上擦らせ、膝で息をする。転移場所の王城からここまで全速力で走って来たのだろう。
「そ、それよりも! 大変なんです! 魔王城に辿り着く直前の所で、謎の魔物に出くわして……アキラ先輩の言ってた化け物かもしれません!」
「ぎ……きしだんの、いんあは⁉」
「先輩の忠告のおかげで、ほとんどは逃げれました! でもその時にアマネ団長と副団長が囮になってて、それで……っ!」
息が詰まって言葉を紡げないでいるユナに、俺は情動の激しい揺らぎを見た。焦りと悲しみ、驚きと喜び、そしてふと、彼女の見ていた景色が頭に浮かんだ。
騎士団を背負う二人が団員たちを逃がし、しかし団員たちも懸命に策を練って二人を救い出そうとする場面だ。悲痛な呼び声が響き渡る。『アキラ……アキラ!』。
追放しておいて今さら助力を求める。それを、都合の良いことだとは思わない。その声は、一方的に助けを呼ぶ悲鳴ではなく、仲間として一緒に戦いたいという叫びだ。
「いあすぐうかう! ユナ、てんいを!」
「えっと、それが、その……」
口ごもるユナの申し訳なさそうな顔が、語らずとも意図を発していた。
「さすがにこの姿じゃ連れて行けねえか」
「ち、違うんです! 姿の条件は聞いてません。副団長が言ってました。『もし監獄を出たのが一人じゃないなら連れて来い』って」ユナはハルとサオリさんを見る。「あと、『自分の身の潔白は、誰にも証明できない。だから周りの人たちに信じさせろ。そしてそれが間違っていないということを、死ぬまで証明し続けるんだ。道を見失うな。騎士団はどんな暗闇のなかでも、困った人を導く道標でなくてはならない』……とも」
小さな手が、背後から肩を掴んだ。
「アキラ。あなたは両親の安否を確認してください。そして話し合うのです。私の目的はすでに果たしました。念のため、ここに残ってあの男を監視します」
「がっ、サおり、さん……」
「ご心配なく。仮にあの男が起きたとしても、私には見られて困る記憶などありません」
「ぐるる……」
俺の脳裏には、遠征の前日に見たヒロミさんとのやり取りが想起した。燃え盛るようなあの恋情は彼女の外見的な印象とは真逆のものだ。それを弱みと捉える人間もいる。
「ありません」
だが、ここまで無表情できっぱりと断られては俺としても為す術がない。俺は呻きつつ頷き、口を大きく開けた。
みんなのもとへ戻る前に、やらなければならないことがある。それは他でもない両親との対話だ。思い切り閉じた口の中で飛び出た牙が砕け、嚙み合わせを直す。
「サオリ……さん。ご、俺が、騎士団、にはいったばかりの頃……サオリさんに、よくしてもらったおかげで、ぁぐ、なじめ、ました。ありがど、あ、りがとうございました。……勇者だって、騒がれでからは、大人がにがてに、なって……さけてましたけど、その……俺の、初恋でした」
「……」
「これでおあいこ、ですよね?」
一言一句、言い間違えないようゆっくり言い切ると、サオリさんの顔がほんの一瞬だけ動いた気がした。いや、たぶん気のせいだった。
無理やり口の端を吊り上げただけの不自然な形の笑みを浮かべて彼女が言う。
「ふっ……いってらっしゃい」