第九話『勇者様! 伝説の勇者様!』
1
「はい、できた」
アサヒの声に俺は頷き、椅子から立ち上がった。うなじに回した手がチクチクする毛先を撫でる。こんなに短くしたのはいつぶりだろうか。頭が軽くなった気分、というか実際に軽くなってさっぱりする。
「うん、良い感じだ。ありがとう」
「嘘でもいいけど、せめて鏡くらい見てから言ってよね!」
「ごめん。でもアサヒなら大丈夫かなって。ほら、長さおそろいだし」
肩に届く辺りに切り整えられた髪は、ちょうど今のアサヒと同じくらいだ。
「アサヒのも切ろうか?」
「この流れで切るとは言わないでしょ。いいじゃん、おそろいで」
川辺で髪を洗い、後片付けをこなしてヒロミさんに声をかける。単独行動を厳しく禁じられた俺とアサヒにはこうして見張りが付くようになった。泥酔した団長の監督責任もあるとして目立った処罰こそ受けなかったものの、それが身内の恩情に過ぎないということは分かっている。仲間たちの優しさに安住していては勇者の面毒が立たないだろう。
現在、遠征は十日目に突入した。二日目に滞在した縁上麓での出来事から、すでに一週間が経過している。しかしその余韻は消えることなく、夜ごとに夢に見ては中途半端な時間に目を覚ます。少し、疲れていた。
今日の目的地は角干という町だ。王国の東端に位置しており、秩序の行き届いた安全地帯では最後の滞在地となる。そこから先は魔物が統べる暗黒の領域、八十七夜——俗に魔界と呼ばれる場所だ。
気の緩みなど元より言語道断、しかしここからは特に気を引き締めて進む必要がある。だからこその気晴らしだ。自ら指揮する第一分隊、ひいては騎士団全体の緊張を背に感じながら俺は足を前に進めた。
2
「ようこそお越しいただきました! わたくしは都市長の角干キンジと申します! 我ら角干は勇者様御一行を、全力で! それはもう全力で歓迎いたしますぞ!」
「勇者さまー! カッコいいー!」
「きゃーっ! 本物の騎士団よ!」
町に入ると、王都でのお祭り騒ぎを彷彿とさせる大歓迎の歓声が顔に吹き付けた。騎士団の行軍を見た門番がやけにそわそわした様子で自ら正門を開け放った時から予感はしていたが、どうやら彼らには魔界と最も近い都市だという自覚がないらしい。
もしも行軍が祝福による幻覚だったらどうするつもりだったのか。あるいは俺一人に化けられてもあっさり開けてしまいそうな住人たちの態度は、入り口から盛大に表れていた。
「なにこれ……話で聞いてたよりずっと派手……」
呟いたアサヒの目に映るのは、王都のものよりも数倍は綺麗に磨かれた勇者像だ。それは祭礼の剣よりも陽光を眩く反射させ、もはや何で出来ているのかも分からないほどに光沢を発している。町並みには勇者を讃える垂れ幕がかけられ、住人たちも一様に拍手と声援を送る熱心な信仰ぶりだ。
「貴方様があの伝説の! うおおおおおおぉぉっ! 聞きしに勝る美貌と屈強さ! 正義感に満ち溢れた立ち居振る舞い! あぁっ、ああぁぁぁぁ、こうして直接お目にかかることができるなんてぇぇぇ、感激で涙が止まりませんぞぉぉ……っ!」
「あっ、えーと……どうも……月次アキラです」
縁上麓の村長とは別の意味で気まずい類の人間だ。触れることすらおこがましいとばかりに手を胸の前で遊ばせ、あたふたと慌てふためいた末に、膝を折って拝み始める。
これで嘘は吐いていないというのが尚更質が悪い。ただ媚びを売るだけならどうとでも受け流せるだろうが、これでは淡泊な対応を取る俺が嫌な奴みたいになってしまう。
「はっ! すみません勇者様! わたくしめが道を塞いでおりました! どうぞどうぞお通りください! お食事、宿、娯楽、何でも手配済みでございます! ぜひ! 今すぐに! 何なりとお申し付けくださいませ! ……おい! 今すぐに勇者御一行の経由地として看板を立てろ! 用意してあるだろう!」
「「「はい‼」」」
騎士団が入り口を通り過ぎるや否や、傍で待機していた町の人たちが各々の道具を持って駆け寄った。何かの見世物かと錯覚してしまうほどに慣れた手つきにより、瞬く間に巨大な看板が出来上がる。都市長の言葉通り、なかなかに洗練されたものだ。
「これでこの町も安全だな! 勇者様の神聖な気配の残った看板を見て襲って来る魔物などおるまい!」
「もちろんさ! 勇者さまさえいれば、この町も世界も平和だ!」
「ああ! きっとそうに違いない!」
しばらく鳴りを潜めていた、一方的な期待と信頼の色だ。驚くべきことに彼らに悪気はない。ひたすらに純粋なだけの善意と希望が共鳴し、この角干一帯に共感の渦を形成しているのだ。暗黒と隣接した環境で目の前の光明に飛びつくことに対して、俺がとやかく言うつもりはない。
ただ、これは少し、ほんの少しだけ不快だった。
「まずは宿に案内してくれるか」
そこに、団長が割って入る。成人男性より頭の位置が高い彼女は角干さんを見下ろし、その身に纏った情動を一切表に出すことなく、空ろに笑いかける。
「ははっ! お任せください! お荷物は——」
「——すまないが、角干さん。これは我ら騎士団の武器であり身体の一部でもある。手伝いは不要だ。道の案内だけを頼む」
「これは申し訳ございません! わたくしめの無礼をお許しください! ささ、こちらでございます!」
団長の目配せがあった。俺は軽く頭を下げ、すぐに部下たちに号令をかける。続けて他の分隊長たちも合図を出し、騎士団は礼賛と崇拝の坩堝から抜け出すことに成功した。
宿に到着し、人員の健康状態の確認、そして荷物の整理と点検を済ませてからひとまず待機との命令が下り、分隊長は幹部会議という名目で一室に集められた。
窓際で頬を突いた団長が、町並みを見るともなしに見ながらため息を吐く。丸い机の上には勇者と印字されたまんじゅうが置かれていた。
「……はぁ。騒がしいったらありゃしないわね」
「アマネ。顔が険しくなってるよ。笑顔笑顔」
「あら、じゃあその手はどうしたのかしら? 筋が浮き立ってるわよ」
「うわ、ほんとだ……」
慌てて全身の力を抜くヒロミさんの横を通り、俺は団長に向き合って改めて頭を下げる。
「団長。さっきはありがとうございました」
「いいのよ。あれはわたしもちょっとイラっと来たから。……この町、病んでるわね」
彼女の見つめる先には、人でごった返す町並みがあった。勇者の訪問を祝い、すっかりお祭りの雰囲気を醸し出した繁華街の一角だ。駆け付けた人々の波が宿の前に押し寄せ、喧騒を立てる。王都を除き、これまでに訪れたどの町や村よりもひとけが多く笑い声が絶えない場所だ。しかし、事前に経由する地域を調べた俺たちは知っている。この町に、祭りや祝いごとに現を抜かしている暇などないということを。
勇者にとって、平和を追求する行為は存在意義に等しい。困っている人がいれば助けるのが仕事だ。しかし物事には優先順位がある。今最も優先すべきは、魔王の討伐に違いない。だからこそ騎士団は取捨選択をする。
魔王を倒すために。少なくとも俺は、遠征に出るまではそう思っていた。
「……」
「アキラ? 具合、悪い?」
「……ああ、いや。大丈夫。祝福を使ってると、なんか色々と鬱陶しいなって」
きっとアサヒを始めとする団員たちは、俺の責任感の不安定さを察しているのだろう。それを口にしない配慮が、ありがたくもあれば、申し訳なくもある。つくづく面倒くさい存在だ、勇者というものは。
宿を包む喧騒の中に、扉を叩く音が聞こえた。俺は全員の視線から逃れるように玄関へ向かう。扉を開けると都市長がにんまりと笑って出迎えた。俺の頭から足までを一瞥する。
「失礼いたします……おおっ、勇者様! 憩いの時間も警戒を怠らない徹底さ、まさに騎士の鑑、我らの英雄、世界の希望でございます!」
「別に基本的な武装です。それで、何か用ですか?」
「そうでした! 実は勇者様にと思い、我々の方から特別な接待をご用意いたしました!」
あまりそういうことを公の場で言うなよ、と思いながら俺は渋々扉の向こうに顔を出す。そこには豪奢なドレスを見事に着こなした、見目麗しい女性が並んでいた。
「ここ角干の公娼でも特に人気の者を三名お連れいたしました! お好きな一名を選ぶもよし、もちろん贅沢に三名全員を選ぶのも大物たる器が——」
「——罰雷罰雷」
光が、窓の外に閃いた。
部屋が影に覆われる。一瞬の停滞ののち、波濤のように伝播した轟音が耳をつんざいた。宿そのものが揺れた気がする。
「「「キャーッ!」」」
「か、雷ですと……⁉」
あいにくと外は晴天だ。あるはずのない自然現象とその凄まじい衝撃に、誰もが目を見開き、身を強張らせた——ただし騎士団以外は。わなわなと肩を震わせる都市長は持っていた特別部屋の鍵を落とす。
それを踏みつけながらアサヒが俺を見た。俺は笑い、彼女と手を繋いで廊下に出る。
「すみません、俺は散歩でもしてきます。あと、接待はもう結構なので」
「は、はいぃぃ……」
大袈裟に膝を突く都市長を背に、俺たちは走り出した。気分は雲一つない空模様のように晴々していた。
3
「あたしね、おっきくなったらゆーしゃさまのおよめさんになるのー!」
「へー、叶うといいね! モテモテじゃん、アキラ!」
「子どもの言うことくらいいいでしょ……」
俺たちは繁華街を抜け、町はずれの自然公園に来ていた。後でヒロミさんにも感謝の言葉を伝えておかなければならない。
芳魂山という火山の足元に位置するこの町を含め、山が見下ろす周辺地域は全体的に空気が乾燥している。町を中心に砂地や沼地も多く散見される一帯の中で、ひと際緑豊かな景観を維持しているのがこの公園だ。
ここではたくさんの子どもたちが元気に遊び回っていた。その数と親の数がどう考えても一致しない。おおかた、角干総掛かりで客人を歓迎している間、世辞を知らない子どもたちをまとめてここに預けておいたのだろう。
一人の女の子が、広場の目立つ場所に立って小さな集会を開いていた。
「カリン、いっぱいれんしゅうしたの! だからうたっておどってできるよ!」
可愛らしい薄紅色の服をひらめかせながら、彼女は高い声を目一杯に発する。呼応する形で歓声がどっと上がった。町の入り口で見た応援団のような格好の子どもが数名、すでにその片鱗を見せている。
「カリンちゃんは歌うのが好き?」
「うん! それでね、ママとパパをニコニコにするんだー!」
「えらいね。人を笑わせられるのは、勇者なんかよりよっぽど凄いことだよ」
「えー? カリンしってるよ! さいきんのママ、いつもとちがってニコニコしてるの! でもそれ、カリンじゃなくて、ゆーしゃさまのせいってこと!」
「いつもは笑顔じゃないの?」
「ママもパパも、いつもユーレーがみえるってこわいかおしてる。でもカリン、ユーレーわかんない」
「ユーレー……幽霊?」
顔を上げると、他の子どもたちも同じだと言いたげに頷いている。霊と聞くと直近の苦い記憶が蘇るが、別に降霊術の話ではなさそうだ。
「そんなことよりみてみて! カリンのまほー! ピッカピカー!」
大きな声で両腕を広げ、彼女は光を発した。元気と可愛さでそう見えるというわけではなく、実際に淡い光を全身から放っている。発光は割とよくある形の祝福だ。知人にも二人ほどいる。
「これでユーレーやっつけれる?」
「ぼくもあるよー!」
「わたしもー! ほらみて!」
「え…?」
しかし、それを数十人に及ぶ子どもたちが一様に使えるとなると話はまた別だ。同じ家庭で育った双子でも祝福が同じになるとは限らない。一口に記憶といっても、それは個々の価値観や経験の些細な受け取り方によって無数に変動しえるからだ。一応、絶対にありえなくはない、といったところだ。
アサヒの顔に影が落ちる。何かを察した様子だ。
「アキラ。これって多分……」
「うん。火山だ」
祝福は、過去の記憶に由来する。その通説は一つの因果関係を思い起こさせた。
十年ほど前、角干は芳魂山の噴火に見舞われた。火山灰が町を覆い、溶岩が川となって押し寄せ、多くの人が亡くなったという。今の状態に回復したのはごく最近のことだ。ただしそれも先ほどの繁華街を始めとする一部の場所に限られる。宿から公園に来るまでの間、壊れたままの道や砂と灰に埋もれた建物がいくつか見られた。
つまり、ここにいる子どもたちは災害のもたらした過酷な環境で幼少期を過ごしたのだ。噴煙が降ると昼でも前がまともに見えないほど視界が悪くなるという話を俺も耳にしたことがある。
発光する祝福について、王都では主に、夜が怖いから、あるいは親の気を引きたいから表れたのだろうという理由付けがされている。角干の場合はそのどちらでもない可能性が高い。
複雑な話だ。住人たちが勇者信仰を盲目的に崇める理由、幽霊の目撃情報が急増した理由、そして子どもたちが似たような祝福を発現させている理由まで、全てはその災害に端を発しているかもしれない。見栄えがよくなっただけで傷はまだ癒えていないのだ。慇懃無礼にも思える過剰な対応は、おそらく俺たちに直接的な助けを期待しての行動だろう。国王が何か対策を講じたとの話も聞かない。王都と程遠く、八十七夜と隣接したこの町は今を生きていくことで精いっぱいなのだ。
「……カリンちゃん」
「んー? どーかした?」
「今回は魔王を倒さないといけないから無理だけど……いつか必ず、この町にもう一度来るよ。そしたら幽霊を成仏……家に送って、町ももっと賑やかにして、カリンちゃんのお母さんたちがずっと笑顔でいられるようにしてみせる」
「ほんと⁉ カリンのおよめさんになってくれる⁉」
「はは、それはまたその時にね」
できるだけ自然な笑いを意識して彼女に語りかけた。この約束は、自分自身への戒めと誓いだ。魔王を倒したからといって世界中がすぐに平和を享受できるとも限らない。日の目を見るようになった新たな問題が、次から次へと浮上してくるだろう。
子どもたちに別れを告げ、宿に戻った。団長とヒロミさんのおかげか、繁華街の野次馬もほとんど解散したようだった。公園での出来事を伝えると二人とも重く唸る。
「片付けなきゃいけないことが山積みね。頭が痛いわ。……でも忘れないで。今の私たちの目的は一にも二にも魔王討伐よ。それ以外のことは後で考えても遅くない」
団長の目線が俺の方を向く。俺は、つい目を逸らしてしまった。後ろめたさを感じる。それでも彼女は咎めることをしなかった。
「……今日はもう休みましょう。夜は交替で番をするけど、とにかく、外のことにあまり気を揉み過ぎないこと。いいわね?」
「はい」
「大丈夫だよアマ姉。私たちならできる」
団長は温和な微笑を浮かべ、場を解散させた。町の人たちにまた何かしら変な勧誘を受ける前に、俺も休んでしまおう。一抹の不安を抱きながらも自室へ向かった。
4
夜になると色々考えてしまうのは悪い癖だ。しかも、そういう時には決まって嫌なことばかり思い出す。目を瞑ると、ダイチとアオゾラの顔が浮かんでくる。
俺は二人と友達になれたと思っていた。縁上麓は娯楽や流行の遷移も乏しい辺鄙な村だが、よそ者の騎士団を受け入れ、わずかな物資も支援してくれた。二人とは歳も近く、すぐに打ち解け、話も弾み、秘密を共有し合い、孤独感を紛らわせることができた。相手もきっとそうだろうと思った。短い間ながらも素朴な理解者の立ち位置にいられたのではないかと、少なくとも俺は思っていた。
二人にとってはそうでなかったらしい。いや、友人としては認めてくれていたかもしれない。しかし所詮は知り合ったばかりの友人止まりだ。彼らの両親と神に対する信仰心は、勇者へのそれを遥かに上回っていた。
彼らが後のことをどこまで想定していたか知る由もないが、結果として俺たちは殺し合う羽目になった。そして、二人は追憶と神性のなかで死を享受した。
悪いのは誰だろう? 俺か、アサヒか、ダイチか、アオゾラか、二人の両親か、百代の神か、それともあの地に眠っていた不可解な記憶か。
思考が嫌な方向へ傾く。あの日、異言爺が降ろした霊は俺に対してこう言い放った。
『我が子』。『もっと王国を追い込んでおくべきだった』。『余の悲願』。『思い出すのは自分自身だ』。『余の遺志を継ぎ、新たな時代の魔王となるのだ』。
魔王。記憶。思い出す。
百代の神はこう語った。
『俺は敵じゃない』。『常識も、仲間も、世界も全てお前の味方じゃない』。
敵。味方。世界。仲間。
思考がぐるぐると、ぐるぐるぐるぐると渦を巻く。俺は何かを忘れている。それはとても大切なもので、俺にとって欠けてはならないものだという確信があった。
『未来は、復讐の心の方が見やすい。対話と違って余計な可能性を考えずに済むからだ』。
その通りかもしれない。俺は今、余計な可能性を考えてしまっている。
王国が疲弊し、徐々に力を失いつつあるなか、どうして魔王は大々的に攻め込んでこないのだろうか。なぜ、脅威となり得る勇者の誕生を見過ごすのか。
これは確たる根拠のないもしもの話だ。もしも、仮に、万が一、魔王の手が思っていたよりも近くにまで迫っていたのだとしたら。俺が、記憶を失った魔王の後継として偽の勇者に仕立て上げられていたのだとしたら。
全て、このまま俺が魔王へ到達し、そこで真の記憶を取り戻すという筋書きだとしたら。
夢想が加速する。
町が燃えていた。人々が逃げ惑う。俺はそれを眺めながら爪を研ぐ。絶望の怨嗟が木霊する。俺は弱った子どもを発見し、鋭利な爪で襲い掛かる。誰かが勇者を呼ぶ声がする。
『勇者様!』
人類の積み上げてきたものが、信じる心が、世界の命運が、その全てがひっくり返った。勇者はもういない。逃げ場のない悲痛な叫び声が響き渡る。
『勇者様! お願いです! 目を開けてください!』
信仰に頼ってばかりで、他人に期待と責任を押し付けることしかできない奴らめ。
『勇者様——! 勇者様——!』
うるさい。何もしなかったくせに。平和がどこかの誰かによってもたらされることを信じて疑わず、自分のものでもない歴史の栄光を誇ることしかしなかったくせに、今さらどの面を下げるのか。
『起きて——起きてってば、アキラっ!』
手の甲に、温かな口づけの感触があった。
「————っ⁉」
熱が首筋を伝う。垂れ込めていた暗雲から顔を出し、新鮮な空気を求めて喘ぐ。頭が徐々に澄んでいくのを感じた。
今、何かひどく底気味の悪いことを考えていた。
「アキラ! 目が醒めた⁉ 意識ははっきりしてる⁉」
「あ、ぇ…? アサヒ?」
「もう! 何やってるの馬鹿っ!」
目の前にはアサヒのくしゃくしゃになった顔があった。弱々しい拳が胸を叩く。震える彼女の目じりに涙が浮かんでいることを、叩かれた際の震えで悟った。
それだけではない。彼女の身体は傷だらけで、痣や血の跡が所々に覗いている。剣で切り付けられたような傷跡だ。
はっとして周りを見渡した。無意識に遮断していた情報が一気に流れ込んでくる。燃える家屋。混乱する人々。鳴り渡る崩壊の音と子どもの泣き声。意識のない人の山。
「てめえ、ふざけんじゃねえぞ! 妻が売女だから娘もきっとそうなるだと? 前から思ってたがなあ、てめえ、いい歳して娘のことジロジロと汚え目で見やがって!」
「はあ? 俺がいつそんなこと言ったんだよ! お前こそ、俺の親父が遺した土地を隙あらばくすねようとしてただろうが、盗人め! でたらめな嘘で誤魔化せると思うなよ!」
「上等だこらあっ!」
怒号の飛び交う夜空は争いの火花に照らされて明るい。互いの胸倉を掴んで叫び合う人々の目にあるのは、紛れもない狂気の色だ。
「これは、一体なにが……」
「アキラ。私の話を聞いて。君は……ううん。町の人たちが、いきなり殴り合って喧嘩し出したの。原因は分からない。みんな物騒なことばかり言ってて、でも誰も心当たりがないから解決しないみたい」
乱闘の中には女性や子どももいる。髪を引っ張り合い、足を踏みつけ、拙いながらも繰り出される殺意に優劣はない。目の前の敵を殺すことに関してみんなが平等で公平だ。
団員たちが間に入って制止を試みているが、民を護るという前提がある以上はあまり深く立ち入れない。酒場のちょっとしたいざこざではないのだ。一言に付随する拳で血が噴き出し、骨が砕ける。それこそ相手を殺すまで、いや、自分が死に至るまで、瞳の妖光は敵を殴り続ける。
何が彼らをそうさせているのか。俺やアサヒ、そして団員たちはなぜ平気なのか。
普通に考えても出るはずのない答えが、生憎と俺には察せられた。記憶が悪さをしているのだ。おそらくは角干の——この土地に潜んでいた記憶が彼らの意識を混濁させ、掻き乱し、すれ違いを引き起こした。外部から来た騎士団はこの土地にまつわる記憶がない。俺だけが他所の土地でも記憶にあてられる理由は、ひとまず後回しにしよう。
まず考えるべきは、記憶に対する対処法だ。百代の神の遺跡で、俺はアサヒの呼ぶ声に目を醒ました。奇しくも先ほどと同じだ。この共通点は何か意味を含んでいる気がする。
「アサヒ! 名前を呼ぶんだ! この人たちは過去の記憶に惑わされてる! だから強く呼びかけて、今を意識させれば正気に戻るかもしれない!」
「……、それは、つまり——」
「——縁上麓の時と同じだ! でも今度は死なせない! 一緒に暴動を止めよう!」
「うん! 分かった!」
俺たちは駆け出した。名前を呼ぶといっても、知っている住人の名前など数えられるほどしかいない。都市長と公園の女の子だ。まさかここで都市長の厚かましさが役に立つとは。名は角干キンジ。繁華街の最も目立つ勇者像の前で、数名の男性と殴り合っている。
「角干さん! 角干キンジさん! 目を醒ましてくださいっ!」
「アキラ! あの人に私の聴覚を共有するから、耳元で思いっきり叫んで!」
「よし。すぅ……——角干ぃ、キンジ、さぁんっ!」
罪悪感で詰まりそうになる声を振り絞り、俺はアサヒの耳に向かって大声で名前を叫んだ。腕を振りかぶっていた都市長の体が硬直する。その隙に豪快な一発を食らうが、反撃を繰り出そうとはしなかった。狂気の色が消え失せ、小刻みに目を瞬いている。
「角干キンジさん!」
「え、あ、はい! えっ⁉ ゆ、勇者様⁉ こ、こここれはいったいいいいい……⁉」
「説明してる暇は……いや、角干キンジさん! あなたの力が必要だ! 暴れてる人たちの名前を耳元で叫んでください! 起きたらその人にも同じように指示を!」
彼はあたふたと首をせわしなく動かし、目を回す。頼りない反応だが、その様子を見るに俺の仮説は間違っていなかったみたいだ。
「名前を……? いや、それよりこれはどういう——」
「——いいからさっさとする! 勇者の命令だ! 早く!」
「は、はいいいいっ!」
平時に相手するのは苦手だが、こういった場面では良くも悪くも扱いやすい人間だ。彼の住人に対する理解を信じて、俺たちは他にできることを探す必要がある。負傷者の手当や暴動の鎮火、それに対処法の拡散くらいか。どこかで指揮を執っているだろう団長やヒロミさんにも伝えておきたい。
すると、足元に馴染み深い毛並みが触れた。
「ラリス! よく来た! さっそくだけど、団長かヒロミさんを匂いで追跡できるか? 近い方を頼む!」
「ワウン! バウッ!」
「私が都市長さんの補助をするよ! アキラは先に行って!」
「了解!」
歪な熱気の滾る町中を、ラリスと共に駆け抜ける。向かう先は公園らしい。昼間には平穏な子どもたちの集いの広場だったはずの場所が、今や無秩序な戦場と化している。
「ヒロミさん!」
呼びかけに、彼が気付いた。噴水広場は、数十もの人が横たわる異様な光景を展開していた。一見すると死体が積み重なっているようにも思えるが、近寄って確認すると、怪我もほとんどなく比較的安全な状態だということが分かる。安らかに眠っているようにすら見えるほどだ。
俺を見て、逡巡の後、彼は上げていた腕を下ろした。彼の象徴でもあった手甲は粉々に砕け散り、白い肌が多くの傷跡を曝している。そういえば、ヒロミさんの素手を見る機会はなかった。無意識が俺の注目をそちらに向ける。
左手に、しかも薬指に、宝石を戴いた指輪があった。縁上麓での話を聞いた限りだとアマネ団長とのものだろう。いや、しかし彼女の方にはなかったはずだ。結婚する前から指輪を付けるのはいいとして、片方だけが付けるというのは一般的なのだろうか。まさか、ヒロミさんに限ってそんなことが、と余計な心配事が頭に浮かんでしまう。
その視線に気付いたのか定かではないが、ヒロミさんは慌てて手を隠した。状況にそぐわない考え事を振り払い、俺は意識的に反対側を見る。
「……一人で、この数を全員気絶させたんですか」
「私がしたのは、攻撃を受け切って相手の疲弊を待っただけだよ。時間がかかるしこれも一時的な対処に過ぎない。アマネや他の団員たちにも区域を分けて対応してもらっているが、根本的な解決ができない限りは……」
「実はそのことで来たんです! 解決法を、俺は知ってます!」
俺は先ほど発見した対処法を話した。最初は疑心暗鬼だったが、少ししてアサヒと都市長が合流することで効果が立証された。情報は普段の訓練通り体系的に伝達され、正気を取り戻した住人の助けもあって事態は急速に鎮静されていった。
俺の頭には、靄が残ったままだった。