第一話『騎士』
1
人々は目に見えないものを恐れながら、目に見えないものを見ようとする。では、最初から目が見えない人は何を恐れ、何を見ようとするのだろうか。
「ワウッ! ワオーン!」
大きくて重たく、そして湿っぽいものが意識を呼び覚ました。目を開けようとするも、ザラザラとしたものがしきりに襲い来るせいで開けられない。くすぐったい。
俺はそれを片手で押しのけ、もう片方の手で足元をまさぐる。あった。ふわふわで温かく、手触りの良い雑巾だ。それをぐっと引き寄せて顔面を拭う。そしてその隣にあった黒い眼鏡をかける。
「よし! 起きた!」
杖を突いて立ち上がりながら思い切り瞼を開けた。中天に昇った太陽から降り注ぐ光が、視界を白く染めた。それもすぐに慣れる。
ふと、黒と白の交ざった塊が、腰ほどの高さで何かを振り回した。ラリスだ。撫でて、ということだろう。わしゃわしゃと細長い顔を撫で回しながら、俺はどうしたものかと思案する。一度起きてしまった以上、行動する他ない。
俺は家へ向かう途中だった。ただ、足は遠回りをするように動き、気づけば川辺で寝そべっていたのだ。どうやらそのまま寝落ちしてしまったらしい。
別に、両親と不仲だとか、そういうわけではない。むしろ喧嘩など一度もしたことがないほどには良好な関係を維持できていると思っている。
だからこれは、俺の一方的な思い込みだ。
「散歩でも続けるか……」
「ワオッ!」
『さんぽ』という言葉に反応したラリスがぴょんっと跳ね、俺の脚に身体を摺り寄せる。目が不自由な俺にとって、こいつは可愛くて優秀な盲導犬だ。
騎士団の仲間たちには少し狐っぽいと言われることもあるが、俺としてはよく分からない。トレードマークの尻尾は顔よりも大きくてふわふわだ。遠くからだと、確かにその毛量のせいで九尾と見紛うかもしれない。
見えなくともしかと屹立する王城の眼下、細い川に沿って二人歩を進める。ようやく寒さが和らいできたようで、ここ数日は冴えた朝の空気のなかにも陽光の気配を感じる。
城の入り口が見える広場には、大きな石像がある。この国で知らないものはいない勇者の像だ。縮尺を元に戻したとしても大人顔負けの長身と恵まれた体格を持った勇者は、王家に伝わる剣を空に掲げ、野性味溢れる笑顔を深く刻み込んでいる。あれは一体、誰なのだろうか?
一瞥だけしてそれを通り過ぎた。ラリスが常に一歩前をゆく。その歩調はゆっくりで、小刻みに振り向いてこちらの位置を確認しているのが分かる。ナギの木の隙間から吹き抜ける風と、温かい視線を感じながら俺も足音を鳴らす。
軽快なリズムが誰もいない並木道を彩る。それが止まったのは、教会へと続く石橋に差し掛かったところだ。
「はっ! やっ!」
「やぁっ! ふぁっ!」
馴染みのある声と素振りの音が頬の産毛を震わした。橋の上に二人、それぞれ大人と子どもの掛け声だ。片方はよく知った人間だが、何をしているのだろうか。
「おはようございます。ヒロミさん」
「ん? ああ、アキラか。おはよう」
「……お、おはようございます!」
遠くからでもよく通る、明瞭で爽やかな声がこちらを向く。ややあって続いたのは緊張したような少年の声だ。
「ちょうどいい所に来たね。いま、孤児院の子に剣の素振りを教えてやっていたんだ」
「何がちょうどいいんですか?」
「そりゃあ、勇者のお出ましだからね。向こうの家には魔女がいるだろう。物語の悪役としてはイメージしやすいじゃないか」
おそらく話の前提をいくつか飛ばした上での説明に、俺は息を吐く。孤児院の子どもに剣——に似た形の木の枝——を握らせ、魔女の家に向かって素振りをさせる。そんな状況が納得できる経緯とは、はてさて。
「迷子ですか?」
「いや、どうやら施設の子と喧嘩してしまったらしいんだ。それで飛び出して来たらしいんだけど、そのまま送り返すのもあれだし、せっかくなら見返すために剣術の練習をと思ってね」
「はあ……」
ラリスがふんふんと鼻を鳴らした。怯えた声がヒロミさんの背後に回る気配。その肉体は、確かな鍛錬と実践経験を蓄えた筋肉の鎧に包まれている。子どもの目には、さぞかし頼りがいのある強いお兄さんというふうに映るだろう。
事実、彼は王国の騎士団で副団長を務めている、正真正銘の騎士だ。青い髪に中性的な顔立ち、さらには優雅な立ち居振る舞いを鎧と共に身に着けた人格者、天童ヒロミ。それが世間における彼の位置づけだ。
間違ってはいない。しかし、それは表紙に過ぎないとでもいうべきか、彼の真の顔を理解するにはもう少し長い時間をかける必要がある。十分。そう、十分だ。それだけの時間を共に過ごせば、騎士としての顔の裏にひそんだ素の色が表れる。
「さぁ、行くぞ——奥義っ‼」
「お、おーぎ……!」
もっとも、それは彼が意図して隠しているのではない。演者が常に劇中の役柄を演じてはいないように、彼の天然の顔はふとした場面で披露される。あくまでも見る側が騎士として認識している間は、それが目につきにくいというだけの話だ。
「罰雷罰雷っっ‼」
大仰な台詞とは裏腹に、その手さばきは繊細でさながら手品のようだ。木の枝が彼の手の中で踊り、川に突き立てられる。水飛沫は見えなかった。刺されたことに気付いた水面が、やや遅れてかすかな波紋を起こした。
一連の所作は稲妻を模し、一息のさざ波は雷鳴を代行する。
刹那の瞬きがあった。何かが光った、そう思って反射的に目を瞑るが否や衝撃が瞼を襲った。
「ぅわっ!」
よろめく少年の背中をラリスが支える。慌てて目を開けた彼の前には、落雷によって爆発した川の水が雨粒となって降り注いでいる。木の枝は焼き焦げ、ぼろぼろと崩れ落ちた。
「どうだい。カッコいいだろう?」
「すごい……なんかよく分かんないけど、すごかった! カッコいい!」
「そうだろう? あははっ」
ずぶ濡れになった二人が興奮した様子で笑い合う。微笑ましく、絵になる光景だ。
いきなり祝福を行使したこと、そして場所とタイミングが最悪だったことから目を背ければ。
「あっ」
彼らの背後には、同じく頭から水を被った人影が佇んでいた。修道士の服装を纏い、無表情にこちらを見つめる彼女の眼光は先の雷よりも鋭い。
「……」
立地として、孤児院は教会に併設されており、その二つを抱え込む形で王城が都市の中央に位置している。そのため騎士団と教会はほとんど同じ敷地を共有し、関係者の往来も互いによく見かけるのだ。
よって彼女の出現は予測できたはずだ。孤児院の子どもを保護したのなら、騎士団としてはこちらから連れて行くか、最低でもその場で大人しく待っているべきだった。いや、今さら後悔しても遅い。
「何を、しているのでしょうか?」
淡々と、問いを紡ぐ口。
彼女の顔や口調には幾分の感情の欠片も込められていなかった。表面的には笑みを浮かべながら言外に怒りを表している、という雰囲気でもない。本当に、彼女はただ凪として疑問を投げかけているのだ。
それは彼女の持つ祝福に起因する。ヒロミさんが枝で雷を落としたように、彼女——サオリさんは感情を表に出さないという能力を持っている。
まあ、当然ながら、それで彼女が怒ってはいないのだと安心する人間などいないが。
「サオリちゃん! ごめん、大丈夫かい?」
ヒロミさんは、変に誤魔化さずに心配する方を選んだ。あの人のことだ。きっと怒りを鎮めるために機嫌を取ったというより、あれが素の反応なのだろう。
彼はそっと手を差し伸べる。可愛らしい刺繍のハンカチが握られていた。
「本当にごめんよ。怪我はない?」
ぴり、とくすぐったいものが額に張り付いた。指で触ってみても埃のようなものはなかった。俺は首を傾げる。
「もし風邪をひいたり、なにか身体に異変があったら後からでもいいから教えてくれ。少年、君もだよ。二人分の治療費と、ああ、新しい服の費用も出すよ」
澄んだ声が滔々と川の上を流れる。ヒロミさんは羽織っていた騎士団の外套をサオリさんの上半身に被せた。背の高い彼の外套は、サオリさんの全身を包んでなお地べたに余る。
ぱちり、ぱちり。
サオリさんが何かを言いさして口を開閉させる。それを数回繰り返し、ようやく一言を捻り出す。
「……冗談を」
「冗談なんかじゃないよ! 私は本気さ。ラビオ騎士団副団長の名に懸けて、今回の件の全ての責任を負う」
ヒロミさんの顔がぐっと近づく。息が触れ合うほどに近くまで寄られても、彼女の猫を思わせる縦長の瞳は微動だにしない。やがて小さく息を吐いた。
「はぁ……そんなことに騎士団の立場を掲げないで下さい。服の新調も結構です。このことはわすれ……あなたの胸の内に仕舞っておいて下さい。一生の戒めとして」
「二度と、こんなおふざけはしないと約束する」
ヒロミさんは力強く首肯し、頭を下げた。手を胸に置いて礼をする動作にも、清廉な騎士らしく洗練された作法が見える。彼の本心が伝わっていればよいのだが。
「当たり前です」
彼女は無以外の表情を浮かべない。
さすがというべきか、優男として名高い副団長の自覚無き猛攻にもその鉄壁は崩れなかった。いつかその壁が壊れることを、ひそかに待ち焦がれる者が騎士団には少なからずいるらしい。彼らが救済される日はまだみたいだ。
ともあれ事態は一段落し、サオリさんが少年の手を掴む。彼は彼ですっかり反省したように大人しかった。
「……あれ?」
二人が踵を返して孤児院へ向かおうとした瞬間、何か引っかかるものがあった。俺は額をさすり、違和感の出処を探る。記憶のなかにそれはあった。
今、彼女が笑った?
そんなはずはない。彼女の祝福は常時発動する類のものだ。見間違いに決まっている。
そう思いつつも、俺はちらと彼女の横顔を窺う。無表情だ。
しかし頭のどこかですでに確信していた。彼女は、喜んでいる。そのせいで笑っているように見えたのだ。
何がそう思わせたのだろうか? 手の位置、足の動き、呼吸の仕方——どれも機微の欠片こそあれど決定的な証拠にはなり得ない。
そもそもの話、基本的に祝福の対処は祝福に限られる。例えば無表情の場合、顔を見なくても分かるほどに親しい間柄の人間か、あるいはよほど心を掌握する術に長けた人間でもないと正面からの突破は極めて難しい。それ以外で一番手っ取り早い方法は、対極となる方向性の祝福を使って相殺することだ。
王国の民はみな大人になるまでの間に祝福を発現させる。そのタイミングや能力は選択の余地が無く、人それぞれだ。物心がつく前の人もいれば、成人間際の人もいる。虚空から火を熾す人もいれば、髪の成長が速いだけの人もいる。
俺はもうじき十八歳になり成人を迎えるが、いまだに祝福は発現していない。だからそろそろ能力が開花するだろうと、なんとなく認識していた。
「クウン?」
何も言わずに立ち尽くす俺を心配したのか、ラリスが鼻を寄せて来た。無意識にそれを撫でる。俺の頭の中は他のことでいっぱいだった。それを確かめるため、俺は補助もなしに橋の上まで歩いていく。見えない力で引き寄せられている気がした。
「あの、サオリさん!」
「……? はい」
黒く長い髪が風に揺れる。水を含んだ髪筋は重たく肩に垂れかかり、しかし顔貌を隠すまでには至らない。横から覗く相変わらずの無表情も、濡れたからと言って剥がれるわけではない。
「もしかして……あなたは、ヒロミさんのことが——」
勢いよくばっと振り向いたその横顔に、白い瞳が煌めいた。途端、刺すような痺れが目の奥に迸り、言葉と思考の回路が焼き切れた。視界が明滅して裏返る。息が喉元に突っかかる。
そして薄れゆく意識の、瞼の裏には、雷鳴にも勝る怒りともう一つの色が轟々と煮え滾っていた。
黒い眼鏡をかけた目が眩むほどに光り輝く恋の色だ。
2
「——つまり、サオリさんの心の内を覗いて祝福を覚醒させたってこと?」
「いや、覗いたって言い方はちょっと……はい。覗きました。ごめんなさい」
演習場に隣接した病棟の一室で、そのベッドの上で、俺は正座をしていた。
清潔と無機質を湛えた白単色の内装は肉眼にも優しいが、微かに薬品の気配を醸し出す空気はどこか居心地が悪い。別に不快というほどではない。ただ、俺にとっては汗臭くて泥臭い演習場の方が合っている。
しかし、そんな空間でも彼女がいると話は別だ。ラビオ騎士団第二分隊長、逆景色アサヒ。名実共に王国の鋒を担う彼女は、汗や泥とは全く正反対の瑞々しい空気を纏っている。肩元まで届かない長さの髪が揺れる度にそれを再認識せざるを得ない。
陽の光を浴びて艶めく茶色い髪筋は、全ての可憐な花々に共通する唯一絶対の色素を抽出したかのように美しい——とは、彼女と仲の良い調香師から、必殺の口説き文句として教えてもらった言葉だ。同意するかはさておき使うことは決してないだろう。こう言ってはなんだが、あの人は花を愛し過ぎて本当に頭がお花畑なのではないかと時おり思う。
俺は心の奥に居座ろうとする詩人を押し込み、代わりに第一分隊長としての言葉を引っ張り出した。
「……それで、例の話は?」
ふっと雰囲気が切り替わる。青々とした密林を思わせる清香は、途端に張り詰めた戦場の気配を運び、ぼやけた視界に上書きする。
「ダメだった。これ以上は望めない。国としてもこれが最大限の支援なんだって」
「まあ、そうだよな」
ため息は張り詰めた空気を希釈する。だがそれも気休めだ。
窓の外には晴れやかな空が広がっている。雲一つなく、太陽を中天に押し上げる。時計の時針も同じ位置に迫っている。眩い朧のなかに見間違う余地も与えてくれない。
「アキラが寝てる間に、準備は大体済ませておいたよ」
「……ごめん」
「や、今のは謝らせるつもりじゃ」
アサヒが困ったようにはにかみ、手を握って来る。ふわりと鼻腔を包む香りは、再び穏やかなものへと戻っていた。
「私はまだ少しやることがあるからさ、アキラは休んでなよ……って言おうと思ってたんだけど」
「だけど?」
「もしかして、私の考えてること、分かる?」
普段は遠回しな言い方をあまり好まない彼女だ。どういう意味だろう、と首を傾げて、すぐに思い至る。そうだ。俺はとうとう祝福を会得したのだった。
ただ、祝福に限らず何かを最初から器用に使いこなせる人間はいない。とりあえずは感覚を掴むところからだ。さっきだって、何がきっかけでサオリさんの心を読み取ったのかは分からずじまいだった。
アサヒの顔を見つめる。
この目は立体的なものを上手く捉えられない。無数の色が平坦に配置され、図形にも満たないあいまいな模様を描いている。いつもと同じだ。
人の表情がそれほどまでに単純でないことは知っているつもりだ。だから、わずかな動きや匂い、音などからその裏にある感情を推測する。難しければ、文脈も辿る。いつもそうやってきた。
「うーん……」
「…………ごくり」
「コーヒーが飲みたい、とか?」
じっと目を細めても彼女の輪郭が鮮明になることはなかった。祝福の力とやらにも触れられた気がしない。
やや緊張の色を浮かべていたアサヒは、今は神妙な面持ちで眉を寄せている。当たらずといえども遠からずといったところだろうか。ややあってぱっと頬を緩ませ、一息吐いた。茶色い髪が空気を含んで広がる。
「不正解……でもないかな。コーヒーは実際に飲みたかったし」
「祝福は関係なかったけどね」
「ま、遠征前に発現してよかったじゃん。ちなみに、初めて自分の祝福を使ってみた感想は?」
結局、何が正解だったのかは教えてもらえないまま話が進む。
「あんま覚えてないなあ……額がビリッてしてくすぐったかったかも。静電気みたいな」
「そんなもんかぁ」答える彼女はすでに二人分のカップと器具を机に並べている。「私も昔のことで全然覚えてないけど」
他に誰もいない室内に大人の香りが混ざる。余計な情報があまりない空間だからだろうか。五感からなる抽象的な視界に、新たな景色の欠片が浮かび出す。昔の記憶だ。
あの時、俺はコーヒーなんて初めてで、顔をしかめてべぇと舌を出していた。確か、向かいにいたアサヒも全く同じ顔をしていたはずだ。それが今では、ちょっとした休憩の間にコーヒーを嗜むようになった。正直なところ、俺は少し見栄を張っている。一方でアサヒはもうすっかり日常生活の一部に組み込んだみたいだ。
誰かに言えば若造風情と一蹴されるかもしれないが、時代の変遷というものを、俺はふと感じた。数か月後には俺も成人だ。人生の節目を間近に控えている。
しかし、本当の節目は明日の日が昇った頃から始まってしまう。いま意識すべきはそちらの方だ。
「アサヒのやることって、いつものでしょ? あとで一緒に……いや、まずサオリさんに謝ってから後で合流するよ」
「うん。それがいい」
彼女からカップを受け取る。熱く、芳醇な香りが眼前に立ち上る。それが顔を隠してくれるわけでもないのに、俺はなんだか安心して、不意に顔の力が緩んだ。引き攣った息が漏れ出る。
アサヒは、ずず……とコーヒーを啜った。