20 リーセと呼ばれて
少しの沈黙の後、三吾は漸く口を開いた。
「・・・エルオリーセ・・・?」
そんな彼に、彼女は片頬だけで微笑んで呟く。
「さっきはリーセと呼んでくれたのに・・・嬉しかったのに、元に戻っちゃった」
どこかぼんやりとした表情の彼女に、彼はそこで思いだした。
以前、自分の名前は長いから好きなように縮めて呼んで構わないと彼女は言っていた。エルとかオリーとか、ハイディと呼ぶ人もいるので、考えておいて欲しいと。
けれど三吾は、エルオリーセと呼んでいた。他の誰かと同じように呼ぶことに、いささか抵抗もあったのだろう。出来れば自分だけが呼ぶ特別な名前にしたかったのだが、気恥ずかしさもあって呼べないうちに、いつの間にかその事自体を忘れてしまっていた。
「ああ・・・その・・・そうだな・・・」
さっきは、全速力で駆けてきたことに加え、てっきり彼女がもう亡くなっていると思い込んでいたので、息が上がり声も出せないほどだったのだ。名前の前半が音にならず、後半部分だけが言葉になった。
それでも、彼女が喜んでくれたのが嬉しい。
偶然から生まれた呼び方だが、これからはそう呼ぼう。
そう思ったら急に恥ずかしさがこみあげて顔を赤くした三吾だが、エルオリーセは彼の服に気づいて真顔に戻った。
「私は大丈夫ですから、もう行った方がいいのではないですか?馬車をあまりお待たせしても・・・」
彼の服は、きちんとした外出着だった。今日は彼がレーエフを去る日だということを、思い出していた。
「忙しいのに来てくれて、ありがとうございました。会えて嬉しかったです。・・・どうぞ道中お気をつけて・・・お元気で・・・」
枕の上から、精一杯の笑顔で言葉を紡ぐエルオリーセに、三吾はきっぱりと答えた。
「行くのは止めた。ここにいる。君が許してくれるなら傍に居たい。許して貰えないなら・・・許してもらえるまで、出来る限りのことをする」
そんな彼の言葉を聞きながら、エルオリーセはゆっくりと瞼を下ろした。
「・・・リーセ、大丈夫?・・・痛むのか?」
「いえ・・・ただ・・・ちょっと眠くて・・・」
それでもリーセと呼ばれたことが嬉しかったのか、彼女は目を瞑ったまま笑みを浮かべた。
その時、部屋の隅から声が掛かった。
「さっき、医者が帰ったところよ」
それは、しゃがみ込んでアルバの脚の手当てをしていたルビーだった。アルバの方も、飛竜の頭に全力でしがみついていたために、前脚の爪1本が剥がれ2本が折れていたのだ。
手当てをしてもらったアルバの前脚には、上手に包帯が巻かれていた。
「・・・あ・・・いたのか・・」
漸くルビーに気づいた三吾の呟きに構わず、彼女は立ち上がって言葉を続ける。
「リアプテラのブレスが掠めたんだけど、アイツのブレスってとにかく威力が高いから、掠めただけでも大火傷なのよね」
居酒屋を始めるまで狩人だった彼女は、そんな知識も豊富だった。
「運が悪かったとしか言いようが無いけど、医者の話だと顔の火傷は跡が残って、右目も見えなくなるって。後は、崖から落ちた時の左足首の捻挫と打撲よ。鎮痛剤を処方してくれたから、寝かせてあげて」
ルビーの説明を聞き、三吾はエルオリーセを痛ましそうに見つめた。
彼女は眠ってしまっていて、規則正しい寝息が聞こえる。その様子に少し安堵しながらも、彼は今後の事を考えてしまった。
エルオリーセは、今までと全く同じように暮らすことは出来ないのではないだろうか、と。
手当てをしてもらったアルバは、痛そうな様子もなくトコトコと歩いてベッドまで来ると、そっとその上に上がる。眠る彼女の身体に添うように自分も横になると、黒白のメタモルファルは瞼を閉じた。
大切なパートナーと自分自身を、癒す時間に入ったようだった。
ルビーに促されて階下の酒場に降りた三吾は、臨時休業中の店内で待っていたゲンの姿を見つける。
「馬車には、帰るように言っておいたぜ。それで良かったんだろう?」
「ああ、すまない。兄には後で、手紙を書く」
何もかも解っているようなゲンの言葉に、三吾は素直に答えた。
「・・・苦情なら受け付けるが?」
彼が言っているのは、馬車に乗る直前にテルルが三吾を引きずり出したことと、その時伝えた内容の事だ。けれど三吾は、少しも腹が立ってはいなかった。
「いや、特にない。寧ろ、礼を言わないとな」
ゲンが三吾に伝えたことに、嘘は無かった。
ただ、伏せて置いたことがあるだけだ。
「命に別条はない」という事だけを、言わずに済ませた。
それ以外にも、三吾が誤解するような方向に導いたようなことは多々あったかもしれないが、それでも三吾はそれで良かったと思っていた。
そうでなかったら、もしかしたら自分は出発していたのかもしれないのだから。
「テルルにも、お礼を言わないといけないな」
けれど有能な衛兵犬は、そこにはいない。2階の病室となっている部屋の前で、何か異変があったら知らせるために待機していた。
ルビーは病室から持ってきたエルオリーセの服と、交換した包帯をザっと調べて肩をすくめた。
「流石にこの服は、もう捨てるしかないわね。取り敢えず今はアタシの寝間着を着せているけど、彼女の家から着替えを持って来たほうがいいかしら・・・」
ああそうか、と三吾は気づいた。
エルオリーセは、数日もすれば動けるようになるだろう。メタモルファルの癒しの力で、回復は早くなるはずだ。いつまでも、この夫婦に甘えてはいられないから、彼女を移さないといけない。
三吾は、考え込んでしまった。
(普通なら、彼女の自宅へ移動させるんだが・・・)
彼女の自宅はユニバース学院の職員住宅だ。そこで療養させるとすると、休職中の三吾は足しげく通うわけにもいかない。何しろあんな事件の後なのだ。何を噂されるか解ったものでは無い。
かと言って、彼女を自分の家に連れてゆくのは、流石にまだ早すぎるだろう。まだ、好きだとさえ言っていない相手なのだから。
結論を出せずにいる三吾に、ルビーは事も無げに提案した。
「いっそ、下宿させちゃおうか」
足の捻挫が治って普通に歩けるようになるまで、と彼女は続けた。
「下宿代を貰えば、彼女も気が楽になるんじゃない?そうね・・・相場の2倍くらいで」
「おい、それは流石にアコギだろう?」
彼女の旦那が、驚いて口を挟む。
「その代わり、全部込みにするから。今回の治療費や彼女とアルバの食事、衣類の調達も全部含めたらイイでしょ。彼女が出来ない事は、全部やるから」
寧ろその方が、彼女にとっては気持ち的にも楽なのではないか、とルビーは言う。
三吾はゲンの幼馴染で、ルビーにとっても親族並みに交流がある。けれどエルオリーセにとって、自分たち夫婦は知り合い程度でしかないのだ。
これから長い付き合いになりそうな好意を持つ相手なら余計に、最初に借りを作らせるような状況にはしたくない。
そんな思慮深く世話好きな居酒屋の女将に、三吾は有難く肯いた。
「ありがとう、それでお願いします。僕が支払うので」
それなら自分も、彼女の傍に居られる。彼女にそれを告げて、これからのことをゆっくりと話し合っていこう。
そんな三吾の頭の中を見通したかのように、ルビーは最後に言った。
「三吾の食費は、サービスしとくわ」




