1 もふもふと風呂吹き大根
変身獣メタモルファル
世界でも稀にしか存在しないとされる獣の生態は、まだ解明されていない。
・・・ハフッ・・・ハフッ・・・ハフッ・・・ハフッ・・・
交易センターの受付カウンター近くで、長椅子に腰かけていた沖代山吾は、間近に聞こえた息遣いに顔を上げた。
「・・・犬?」
1mほど離れた場所で、きちんとお座りをしている大型犬がいる。
黒と白の毛皮を纏った獣は、キラキラした茶色の瞳で彼を見詰めていた。
(飼い主はどこかな?)
山吾は辺りに視線を投げた。
この交易センターには、職業上パートナーである獣を連れて来る人間もいる。犬の他にも、鳥や猿、ネコ科の動物などだ。猟用だったり荷物の番だったり、ボディーガードとして連れ歩く人もいる。
「あ、すみません」
その時、1人の女性がカウンターから離れて駆け寄ってきた。
「失礼しました。勝手に離れることは今まで無かったんですけど」
手に書類を持ったその女性は、大型犬の傍に立つと丁寧に頭を下げる。
「あ、いえ。犬は好きなので・・・その・・・撫でても良いですか?」
女性は、ハイと答えるとふっさりとした長毛の犬に向かって声を掛けた。
「アルバ、撫でて下さるって」
お座りのまま飼い主を見上げていた犬は、右耳だけをピクンと動かすと、山吾の方を向いてゆったりとした動作で立ち上がる。
「アルバと言うのか。いい名前だね」
声を掛けながら手を伸ばすと、アルバは静かに寄って来て頭を差し出した。
両耳を後ろに倒し、撫でられ待ちになっている。
ハフ・・ハフ・・・
開いた口元からピンク色の舌を出し、口角を上げている顔が笑っているように見えた。
「イイ子だね・・・うん、素敵な手触りだ」
山吾はすべすべとした頭をひとしきり撫でると、耳の根元を指先で掻いてやる。うっとりとした様子のアルバに気を良くし、山吾は両手でその襟巻のような白い首の毛に触れた。
(ああ、やっぱり・・・気持ちがいい)
真っ白な首周りの毛は、ふさふさとして指が潜る。そのままマッサージするように手を動かせば、気持ちよくもふもふを満喫できた。
アルバは腰を落とし、お座りの姿勢で大人しくされるがままになってくれている。太く毛量の多い尻尾が、床を掃くように揺れていた。
このまま、ずっと癒されていたい・・・
そう思った時、カウンターから声が掛かった。
「番号札58番の方~~」
「ああ、呼ばれてしまった。すみません、ありがとうございました」
山吾は名残惜し気に立ち上がって、カウンターに向かった。
用事を済ませて戻った時には、アルバと女性の姿は既に無かった。
都市国家レーエフは、小さな共和制自治国家だ。
中心にユニバース区と呼ばれる、前世紀の遺物を活用した大きな学院があり、その周囲がドミトリ区と呼ばれる市街地になっている。
沖代山吾は、その学院の教授として先月からレーエフに着任していた。
その日も山吾は、学内の食堂で昼食を済ませると学院の敷地内を散歩していた。
手には、午後の講義で使う専門書と保冷水筒がある。その中には、眠気覚ましにと食堂で淹れて貰ったアイスコーヒーが入っていた。万年寝不足気味なので、食後には猛烈な眠気に襲われるからだ。
学生たちに『寝起きの猪』とあだ名される彼は、確かにその通りの風貌だった。
手入れもしていないもじゃもじゃの癖っ毛と、いつも眠たげに半分閉じられているような眼。運動不足の体形に猫背で眼鏡をかけ、俯き加減で歩く彼はどこか偏屈な学者然としている。
自由時間位は1人でいたいと思う山吾は、人気のない裏庭に向かってブラブラと歩く。
ユニバース学院の敷地は広大で、少し歩けば郊外の林のような静けさがあった。
「・・・ん?・・・あれは、アルバ?」
大木の根元に、先日交易センターで撫でた黒白の大型犬の姿があった。
「何故、こんな所に?」
目元から耳に続く黒は左右対称で、マズルは白。
四肢と首周りと尻尾の先が純白だが、それ以外は漆黒で艶やかだ。
この辺りでは珍しい毛色なので、犬間違いでは無いだろう。
アルバは山吾より先に気づいていたようで、伏せの姿勢のままこちらを見ていたが、やがてゆっくりと上体を起こしてお座りの姿勢を取った。
(昨日の今日だし、賢そうな子だったから、覚えていてくれるだろう)
山吾は普段は浮かべないような笑みで、嬉しそうに歩み寄った。
バサッ!
「ぅわっ!」
「えっ⁉」
大木の根元近くまで来た時、山吾の目の前が真っ白になった。
突然視界を塞いだ白い色に、山吾は驚いて声を上げる。
頭上の葉擦れの音と共に、女性の声が重なった。
「あ!すみません、少々お待ちください」
目の前に降り立った女性は、昨日会ったアルバの飼い主だった。
それは良いとして・・・
何故、彼女は下半身に何も身につけていないのか。
女性は急いで木の陰に向かい、身なりを整えてから出て来た。
「お見苦しいものを、失礼しました」
紺色のスラックス姿で現れた彼女は、丁寧にお辞儀をしてお詫びを述べる。
「誰かが近くに来れば、アルバが教えてくれることになっていたんですが・・・」
そんな黒白の大型犬は、しれっとした態度で木の根元に置いてある彼女の荷物を咥えて来る。
「あ、ありがとねアルバ」
そして女性は穏やかな笑みを浮かべて向き直ると、山吾に向かって話しかける。
「分析薬学の、沖代教授でいらっしゃいますね。生物分類学のエルオリーセ・ハイドランジアと申します。どうぞよろしく」
エルオリーセはもう一度頭を下げ、呆けている山吾を見つめた。
(・・・今のは・・・生足だったのか)
突然目の前に出現した白は、女性の美しくも艶めかしい肌の色だった。
何度か瞼を上げ下げして太腿の映像を振り払い、漸く我に返った山吾はふぅと小さく息をついて答えた。
「ああ、いや・・・何故、知っているんですか?」
名乗った覚えはなかった。
「はい、今朝方こっちに戻って来たのですが、先月の学院報が届いていてそこにお名前が載っていました。それと、今お持ちのその本を見て、そうかな?と」
成程、と納得した山吾だが、そうすると目の前のエルオリーセと名乗ったこの女性は、同僚と言う事になるのだろう。見た目は20歳前くらいに見えるが、これでも教授と言う事なのだろうか。
そんな疑問が顔に出ていたのだろう。エルオリーセはにこやかに言葉を続けた。
「一応、これでも教授と言う事になっています。この子は、フルネームをアルバ・ナギと言いますが、私の仕事上のパートナーとして学院内で連れ歩く許可を貰っています」
アルバは自分を紹介されていることが解っているのか、居住まいを正すようにお座りをして胸を張った。
そのまま2人と1匹は、何となく連れ立って歩く。
「いや・・・驚きましたが、何故木の上にいたんですか?」
「すみません、実はあの木にアルビノのカラスが巣を掛けているのに気づいたものですから、ちょっと確認したくて。今日は学院長に帰還の挨拶をしなければならなかったので、一張羅を着ていまして・・・」
紺のパンツスーツに白いシャツブラウスの姿は、確かに木登りには向かないだろうと思う。
「汚したくないので上着とスラックスは脱いで登っていて、こういう時にはアルバが見張りをしてくれるのですが、何故か今回は教えてくれなかったんですよ」
エルオリーセは、苦笑交じりにアルバのすべすべした頭を撫でる。
その時、山吾はふと気が付いた。
こんな風に、女性と親し気に話しながら歩いたことは今まで無かったかもしれない、と。そして、昨日の彼女の外見などは、全く覚えていなかったと言う事にも気づいた。
アルバの事は、よく覚えていたのに。
子供の頃から人付き合いは苦手で、友人と呼べるような相手は数人しかいない。ましてや女性とも、30歳近くになるまで付き合うどころか会話さえろくに無かった。幸い実家は裕福で自分は末子であるから、好きな研究に没頭していても全く問題は無かった。
実際、見た目も女性受けするようなものでは無く、学院の女生徒達も質問にさえ来ない。
健康な成人男子としてごく普通に女性に対する興味はあるが、それは敢えて見ないふりで通してきた。
隣を歩くエルオリーセをチラチラと見ながら、山吾は改めて彼女の外見を確認してみた。
長い栗色の髪を緩い三つ編みにして背中に流し、小柄だが敏捷そうな体つきは健康そうだ。
瞳は澄んだ明るい緑色で、その大きな眼が童顔な印象を与えている。
「・・・?・・・何か?」
山吾の視線に気づいたエルオリーセが、訝し気に聞く。
「ああ、その・・・アルバはボーダーコリーですか?」
犬の話題なら自然に話が出来そうだと考えて、山吾は話題を投げかけてみた。
「ああ、そうですね。毛色はそうですが、身体が大きいので・・・今年で5歳になるのですが、小さい頃はどこまで大きくなるのか心配になりました」
そしてエルオリーセは、辺りを見回して人影が無いことを確認すると、声を潜めて山吾に告げた。
「ここだけの話ですが・・・アルバはメタモルファルなんです」
内緒ですよ、と念押ししてエルオリーセはニッコリと笑った。
「では、私たちはここで失礼します」
そして彼女はアルバを連れて、生物学棟に入って行った。
山吾は講義棟へ向かって、考え込みながら歩いた。
(メタモルファル・・・伝説的な獣だったな)
理系とは言っても、生物関係には疎い。
(後で、図書館で調べてみよう)
山吾は講義棟の扉をあけながら、ふと思った。
(・・・風呂吹き大根が、食べたくなったな)
故郷の料理が、何故頭の中に浮かんだのだろう。
それはきっと、先ほど目の前に出現した女性の生足の映像がもたらしたもの。
けれど山吾自身は、それに気づかなかった。
黒白の大型犬の姿をとっているメタモルファルのアルバ・ナギと、そのパートナーであるエルオリーセ・ハイドランジアは、沖代教授とどう関わっていくのでしょうw