色褪せた輝き
彼は、遅れてやってきた。白と黒のスポーツカーを颯爽と駆り、穏やかにドアを閉める。すげえ、と隣の木下が声を漏らした。
「あの車、プレミアなんだぜ。中古でも、新車が買えるくらいの値段がするやつ」
降りてきたのはテレビでもよく見る、おなじみの顔。報道記者に囲まれていない、完全なプライベートの姿に、却って違和感を覚えてしまう。
「すまない。待たせてしまった」
「いやいやいや!とんでもないよ!」
木下が興奮冷めぬ声で、唾を飛ばす。
「君が多忙なのは皆よく知っているからね。今や君は、この田舎に錦を飾った顔として、みんなの誇りになってるよ!」
「大げさだなーー」
二人が会場に入っていく。その後ろを、私は何も言えずにただ追いかけた。
越智カズマは、全国に展開する企業のトップとして知られていた。
あだ名は「死神」。
これは、越智が経営している葬儀屋に引っ掛けたものだ。
「しかし、君はどうやってそう大きくなれたんだい?それこそバブルの時ならともかく、僕らは就職氷河期の真っ只中でーー」
会場でも、越智に金魚のフンのようにまとわりつく木下の声が遠く聞こえる。
木下が昔より卑屈な声色を出すようになっているのに対し、越智は相変わらず生真面目で、律儀に疑問に答えている。
「昔から、少子高齢化社会になるとさんざん警鐘が鳴らされていたからね。それは人さらいの噂みたいなものだったけど、データでも確かなものだ」
「だから、死者が増えると?」
「それもある。けれど、問題はそこだけじゃない。葬儀の費用の高騰と、お坊さんが足りていないんだ。そんな状態で従来のような葬儀を続けるのは、一般人にとっては大げさなだけで、頭を抱える金の問題でしかない」
葬儀の簡素化による、低価格な葬儀の実現。地方のお寺との関係を重視して、全国的なネットワークを用いた支援。
詳しくはわからないが、それで評判は上々らしい。
ただ、一つだけ間違いがある。
就職氷河期。私達は、それを紙一重で逃げ切った世代なのだ。
バブルの熱狂を、知らぬ世代に説明するのは無理だろう。何と言っても、経験者自体が、うまく思い出せないというのだから。
崩壊の音は聞こえていて、それでも世論は時間が解決すると楽観的に見守っていた。
そしてある時、ぼきりと世界が折れた。耐えきれず、すべてが変わった。
ここの会場の殆どは、就職難を経験していない。明るいだけが取り柄の高校で楽しく馬鹿をやって、そのまま地元の企業に就職する。
当時は地域活性化ということで、僻地のような田舎にも、大企業の支店が進出していたのだった。私は中堅の都市銀行の窓口に就職した。
そんな中ーー大学の四年間に未来を託した例外が越智だった。
ーーそれは、地獄への片道切符と同義だった。
「参ったよ。就職課には四年だけでなく三年二年と、学生が押し寄せていた。就職課の人たちは首をふるばかりで、ただただ『企業がいらないと言ってきている』と繰り返すわけさ。そのくせ、就職セミナーで言われることは、『今を乗り切れば必ず、社会にとって必要な人材になる。その力をここで養いましょう』だよ。どうしろというのか、ってね」
社会にとって必要な人材になれるかどうかは、そもそも、その狭き門を突破してからだと言うのにーー
私の胸の中に、小さな疼きがあった。知らぬ間に、胸のあたりをぎゅっと握っていた。
そうだ。いつものような照れ笑いとともに、百社受けても受からなかった先輩がいるんだって、と冗談めかして言った越智に、私は。
「ねえ、ちゃんと将来のこと考えてるの?そんな人と、私一緒にはなれないよ」
それきりだった。恋愛は、あっさりと終わった。
もういい年だ。私は越智を振ってすぐ、結婚した。就職面接の時まで、ずっと金髪で過ごしてきたというのが武勇伝の、年上の男だった。昔は木刀片手で暴れた、と豪語する旦那は、既にでっぷりと太っていて、今では当時の自分たちに親父狩りの「仕返し」をされかねない風采だ。
「僕は人の不幸で金を儲けている。だから、とてもじゃないけど、持ち上げられるような人間じゃないよ」
そんな人間が、どうしてあんな神妙なコマーシャルに出演するだろう。仏壇に手を合わせる、長回し。
思うだけで、貴方の大切なひとは救われるのです。
そんなナレーションとともに少人数で行われる葬儀のカットが入り、社名で終わる。
「好感を感じる有名人」の中に、異例のランクインをしたのは、その素朴な人間性に惹かれた人がいるからだろう。
そうだ。越智は変わらない。いつも笑みを浮かべて、謙遜していて、華美を嫌う。
太鼓持ちから解放されて、彼が真っ先に向かったのは、昔ながらの幼馴染だった。朴訥な、さえない友人と軽くグラスをぶつける。飾らないその態度に、胸が締め付けられる。
「ねぇ夏美、話しかけてきたら?」
現実に引き戻され、私は慌てて首を振る。
「私は、そんな……」
「えぇー、でも、越智と付き合ってたじゃん。根暗だったのに、今はすごい人間になっちゃったよね」
でもさっき、スーツから線香の臭いがしてて、そういうの漂わせるような男はお断りかな、と。
お調子者の親友は、ちょっと科を作って、盛り上がりの中に消える。
無意識に、ポーチを握りしめる。そうだ、私は付き合っていたのだーーその証拠が、ここにある。
思い出は、今も色褪せずに輝いている。だからこそ、この機会を逃す手はない。
私はひたすらに、二人きりになれる機会を伺った。
「あの時は、ごめんなさい」
その言葉が、鉛のように重かった。彼のクラシックカーの前で、声をかけて、頭を下げる。
顔を上げれば、懐かしい笑顔があった。
「あの時、私は何もわかってなかった。もちろん、やり直したいとか、そういうわけじゃないんだけど……でも、せめて誠意を伝えたくて。その……昔書いてくれた、ラブレター、今も大事に持ってるの。今日会えると思って持ってきててーー」
ポーチを探り、取り出そうとした動きが、止まった。
彼が、すう、と息を吸い込んだ。それだけで私は、心臓を掴まれたように動けなくなる。
越智は、小さなため息をついた。
「別に怒ってはいないよ」
「ーーほ、ほんと?」
「あの時のことは怒っていない」
でも、と越智の顔が、僅かに歪んだ。
「たった今、僕は君に怒りを抱いた」
「え……?」
「ああ、いや……失望したのか、僕は」
越智は車に乗り込みながら言った。
「君との思い出は、幸せだった。例え振られたとしても、それでも思い出の中の君は、尊いままだった。それを」
ーーそれを今の君が、踏み躙ってくれたよ。
「今の君のせいで、僕の中の、記憶の中の意味さえーー色褪せた輝きになってしまったよ。僕は今日、君と再会したことだけは、本気で後悔している」
ドアが閉まった。
エンジンがかかる。立ち尽くす私に、クラクションが浴びせられる。無意識に飛び退くと、車は急発進して、駐車場から飛び出していった。
私はそれを、見送るしかなかった。