09 距離
「……ギャレット様、今日のお仕事の方はどうなさったんですか……?」
あの夜、キスというある一線を越えてしまってからの一週間、私とギャレット様との距離は縮まった。
ええ。本当に、近過ぎるくらいに。
私が妃教育を受けている部屋にも、ギャレット様が度々訪れるようになったので、各教科を受け持つ教師たちは困惑しているようだ。
正式な結婚前から王太子にこれほど熱烈な寵愛を受けているのなら、下手な対応は出来ないとでも思ったのか、日々の教育にも教え方が異常に丁寧になってしまった。
いいえ。そうよね。私たちは婚約者なのだから、こういう恋人同士みたいな関係が普通なのかしら……?
今も休憩中に二人で庭園に用意したテーブルへ向かい合って座り、良い香りのするお茶を飲み、シェフの新作だという焼き菓子について適当に感想を言い合ったところ。
私が健康体で特に他の来客もないのなら、ギャレット様の訪れを拒む要素はどこにもない。
そうなの。私。彼のことを、好き過ぎる設定なので。態度には出さないけど。
婚約者って、未来に結婚をすることを約束している二人だということで……けど、私は期間限定なのだけど、ギャレット様本人にそれを言う訳にもいかないし……。
ただの婚約者の身で宮も用意して貰っているから、仮病なんて使う訳にはいかない。もうっ……仕方ないから、この前の池にでも飛び込もうかしら……。
ギャレット様を避ける方法をどうにかして考えてしまう程度には、私は追い詰められていた。
そもそもの依頼主の王妃様に指示を仰いではいるけど、何かご多忙なのか未だ返事がない。
だから、逆らえない立場にある私は彼女から以前指示された通りのことをこなすしかない。
自分が作った訳でもない借金が憎い。
以前から大きく状況は変わっているものの、彼には同じように接するしかない。ええ。そうよ。私。好意を隠しもしないギャレット様を前に、一体どうしたら正解なの?
好き合っている俺たちに何の文句も許さないと言いたげな、この甘い空気! 居たたまれない。逃げ出したい。
「あのっ、ギャレット様だってご多忙の身ですし、良ければ私の方から会いに行きます。ですから……」
身分の高い彼の方から足を運んでもらうなんて申し訳なくて……という話に持って行こうとしたら、ギャレット様はにっこりして微笑んだ。
「俺はローレンに会いたいから、急いで仕事を終わらせた。迷惑だったか?」
率直な『会いたいから』に、胸が高鳴ってしまった。
この人とは結婚しない。この人は違う人と結婚するを十回心の中で唱えたところで、私は平然を装い淡々として彼に言った。
「迷惑な訳は、ありません。ええ。そんなはずありませんわ」
「ローレンは、俺のことが好きだからな」
「えっ? そうですね。ええ。そうです。もちろんです」
不意に気持ちを確認されて、動揺をしてしまった私を見透かすようにして、ギャレット様は鷹揚に頷いた。
「実は……この前ローレンとの結婚式を早めたいと言ったんだ……だが、義母上が君の気持ちを一番に考えて行動せよと言われて……父上は特に問題ないし、跡継ぎの俺が妃を早く娶れば国民感情も落ち着くだろうと賛成してくれたんだが……ローレン、君はどう思う?」
ちょ、ちょっと待って! こっ……これだわ! 私はギャレット様が困ったものだと言わんばかりに口にした言葉に、ピーンときてしまった。
王妃様は、これを言われて対応にどうしようと考えあぐねているのかもしれない。ギャレット様が、いきなり私の結婚に前向きになったから、それをどうにかしなければと思っているんだ。
「そっ……そうですね。私もギャレット様と結婚したい気持ちはやまやまなのですが、私にも心の準備がたくさんありまして……」
若干、声が震えてしまった。
待って。これって、イーサンと逃げる隙もなく、私とギャレット様が結婚してしまったら、どうするの?
王妃様だって、思うように動かなかった飼い犬に、報酬という餌をくれる訳もないわよね?
「そうか……いや、王太子妃になれば、君用の予算が計上出来るようになる。今はまだ王族ではないから微々たる数字しか出せないが、仕事として公務をこなすようになれば、王太子妃の予算をローレンがどう使おうが自由だからな」
優しいギャレット様は私の家のことも考えて、早く王太子妃にしてくれようとしたんだ。
正直、もう彼のことを好きにならずに、何もかもを終わらせてしまうにはとても難しい。世界でも最難易度を誇る数式の方が、まだ易しいかもしれない。
好きにならないようにと距離を置くたびに、なんなく空けた距離を詰められて、ギャレット様はせっかく自分の婚約者になったのだからと、喜ばせよう優しくしようと彼なりに努力してくださる。
こんな人を好きにならないなんて、他にどうしても忘れられない好きな人が居るくらいだと思う。
とても、残念ながら、私には……そんな人は、居ないけど。
◇◆◇
「おばさん! もうすぐ、あんたはお役御免なんだから、私の王子様に手出ししないでね?」
「……心得ております」
どこからか何かを見ていたのか、城の廊下ですれ違ったペルセフォネ嬢は自分の言いたいことだけ言って、フンッと鼻を鳴らして去って言った。
向こうから近付いてくるものを、どうやって避けるのだと聞きたかったけど、やぶ蛇にしかならないので我慢するしかない。
「……あれは、バイロン家のペルセフォネか。知り合いなのか?」
背後から聞こえて来た低い声に、私はもう驚かなかった。彼は私の行く先を知っていたり先回りしていたりが、このところ目に見えて増えたからだ。
前々から、そうだったのかもしれない。ギャレット様は嘘が下手だから。
「ギャレット様。ごきげんよう……そうですね。はい。彼女には、以前お会いしたことがありまして……」
自分でも無理な笑顔になってしまっているのだけど、ギャレット様はふうと息をついて頷いた。
「そうか。バイロン家はあまり俺を良く思っていない。あまり、近付かない方が良い」
「えっ……っと、そ……そうなんですか?」
ギャレット様は王妃様が彼と結婚させようと企んでいるバイロン伯爵家ペルセフォネ嬢を、要注意人物として捉えているようだ。
「あれは、義母上の姪なんだが、バイロン家は弟のアイゼアを擁立したいと考えている。俺の母の実家バルレッタ家と、宮廷でも激しく対立している。俺のことが、とにかく邪魔なんだ」
「そうですか……知らなくて、驚きました」
ええ。本当に。
だって、ペルセフォネ嬢はただ単にギャレット様のことを好きだから、やたらと妬いているし、彼と結婚したいと望んでいるんだと思う。
「宮廷での派閥争いなど、聞いてあまり楽しい話でもない。俺が即位すれば黙るしかないだろうが、それまでは不毛な争いは続くことになる」
「ギャレット様は、早く王になりたいですか……?」
何気なく聞いた私はその時に見たギャレット様の表情を、きっと忘れられないと思う。彼には似合わない儚げな笑みを浮かべた後で、いつもの笑顔で言った。
「……王になりたいかと言えば、なりたくはない。だが、それを他の誰にも言える訳もない。だから、これは俺とローレン二人の秘密だ」
「ギャレット様……」
「俺は自分では、剣で身を立てて生きていく方が向いているように思う。だが、血筋でしか納得出来ぬ人間が居ることも知っている。だから、俺がなる」
私はそれを聞いて何も言えずに、二人の間には沈黙が落ちた。
ここでどんな慰めを言えるだろうか、一国の王となる彼の背負っている重圧なんて、私がわかってあげられるはずもないのに。
「ごめんなさい……何も、上手く言えなくて……」
ここで、何を言えるだろうか。私は彼のことを、何も知らないのに。いいえ。知ろうともしていなかったのに。
ただ、婚約者になった私を大事にしてくれただけなのに。
「無理もない。俺も、君が返答に困ることを言ってしまった。さあ、行こう」
そして、ギャレット様はゆっくり進むしかない私の歩幅に合わせて、いつものようにぎこちなく歩いた。
優しい。嬉しい。けど、胸が締め付けられるように苦しい。
だって、この人は絶対に好きになってはいけない人だった。