07 憂鬱
「ローレン。いい加減答えてくれないか。何故、そんなにも素っ気ない態度なんだ。君は俺と、いずれ結婚するんだ。そろそろ、もう少しだけでも心を開いてくれても良くないか?」
ギャレット様は優しく貴族らしく紳士的で、商人のイーサンのように擦れてしまっていることもない。意地悪も言わないし、性格も温厚だ。
けれど、たまにこういう……心にやましいところのある私にとって、とても面倒なことを言い出すことがある。
「……そうですよね。ギャレット様がこうして傍に居ることに、なかなか慣れなくて……結婚式までには、出来れば慣れたいのですが」
「まあ、もうそう遠い話でもないだろう。父に聞いてみようか。この国の決まりで婚約期間は一年は取ることになるが、そうすれば式の準備に移るだろう」
「ええ。そうですよね。私も楽しみにしています」
ギャレット様とは昼下がりのお茶を飲みながら、そんな会話を交わした。政務に多忙な彼はほんの少し話しただけで、急ぎだと呼ばれて去っていった。
ギャレット様の宮からの帰り道。私は王太子の婚約者でありながら、期間限定であるという自分の複雑な立場を早く終わらせてしまいたいと強く願ってしまった。
王妃様よりこの話を引き受けた時、私が一年間だけ演技する程度で、この苦境が抜けられるならとふたつ返事で引き受けた。
こうして城の中で王太子妃となるための教育を受け、王族より必要なものは与えられるような日々を過ごしていると、メートランド侯爵家の窮状を見ずに済むせいかもしれない。
いつまでもギャレット様の疑問に二人の関係の核心に迫ることなく、上手いこと言って逃げ続けられる訳もない。
私とギャレット様は婚約者でありながら結婚をしないのだけど、それを彼には明かすことが出来ない。
けれど、ギャレット様は自分のことを口では好きだと言いつつ、やたらと距離を取りたがる私のことを逆に気になってしまっているようだ。
ペルセフォネ様たってのご希望が、完全に逆効果になってしまっている。けれど、私がそれを言っても彼女は怒るだけだろう。
一日に時間があれば何回か彼に会いに行くことも、すべて王妃様の指示通りだ。そこに、私の意志はなかった。婚約者になれた理由により、対外的にはそう見えるように敢えてそうしている。
何故、私がギャレット様を慕って、彼との結婚を強く望んでいるという理由で婚約者になれたかと言うと、とても悲しい現実ながら、それ以外に私に売りとなる要素が何もないからだ。
幸い農業が盛んな肥沃な大地を持つ領地からの定期的な税収入は見込めるものの、それは殆どが今ある借金の返済に流れる。近しい親族には、縁を切られている。浪費家の父は酒浸りでこれからも働く気がゼロだし、跡継ぎとなる弟はまだ幼い。
王妃も私をとりあえず一時的な王太子の婚約者に据えておくことにしたけれど、彼女だって頭を悩ませたはずだ。
借金まみれで、指でほんのひと突きすれば潰れてしまう砂城より脆い財政状況にあるメートランド侯爵家の令嬢を、誰もがなりたいと望む王太子の婚約者にするにはどうしたら良いかと。
私の涙のながらの訴えにより、両陛下は胸を打たれたことになっている……らしい。
けれど……冷静に考えてみると、無理があり過ぎると思う。玉座に座る王からのお達しだから、白いものも黒くなってしまうのだろうけど……。
それに、一番大きな誤算は、ギャレット殿下が私に対し興味を持ってしまったということだ。
これまで武芸の腕を磨くことが唯一の趣味だったと聞くし、私という婚約者がいきなり出来てしまい、彼は少々おかしくなってしまったのかもしれない。
私がイーサンを選び逃げてしまった時のギャレットは、どうなってしまうのだろうか。それは、もう避けて通ることは出来ない。
何も知らないギャレット様にこれでもかと好意を向けられ優しくされるたびに、私が憂鬱になってしまうのも仕方がないと思う。
まるで恋人のような甘い言葉を使われるたびに、私は逃げたくなる。だって、彼は私の婚約者であっても婚約者ではないもの。
客が来ていると聞いて自分の宮の応接室に入り、その人物が誰であるかを見て私はすぐ人払いをした。
「……王妃様に呼ばれたの?」
「その通りだ。この前の僕たちの偶然の出会いについて、かのお方にお知らせしておくべきだろうと思ってね」
ソファに腰掛けていたイーサンは、待っていたはずの私を特に出迎える様子も見せずに足を組み、まるで自分がこの宮の主のごとく余裕をもって振る舞っていた。
この態度でわかるように、彼にとっては私は敬意を払うべき女性でもないからか、それとも女性全般に対し、彼は常にこういった舐めた態度なのか。
どちらでも構わないし……どうでも良いわ。貴族の血を引くというだけの私を娶っても、傲慢なイーサンは何もかもを自分の思うままの自由にするだろうから。
イーサンの顔がある程度整っているから彼を愛せるかと言われると、私はそうでもない。
王太子ギャレット様があれほどに人気があるのは、彼の人柄が、ふとした振る舞いにかいま見えるからかもしれない。優しくて真面目で、そして、誰に対しても常に敬意を持って接している。
目の前のイーサンは巨万の富を得る代わりに、そういう人格者たるべき資質を遠い過去に全部捨てて来てしまっているのかもしれない。
「僕とローレンは、変な関係性だ。こうして会っているとまるで浮気をしているようだが、何も知らない王太子より僕の方が君を束縛する権利があるというのに」
「イーサン。王妃様はなんて?」
私はイーサンの軽口を無視して、自分が知りたかったことを聞いた。
「王太子に見られたあの時に、僕に出会ったことにすれば良いと。それから偶然の出会いを何度も重ねて、僕たちは愛を深めるという訳だ」
隠すべきギャレット様にはイーサンと私が会っているところを見せてしまっているから、無関係でいるのもおかしい。これから、イーサンとは公の場で会えば仲の良い関係でいなければ、この先の展開がおかしくなってしまう。
「そうね……私も王太子妃の立場の重圧から、逃げ出したことにするわ。そうすれば、自分から望んだ場所に居たというのに、他の男性を選び逃げ出したとんでもない卑怯者の出来上がりね」
私は彼の対面の席へと座り、いつものように人を食った笑いを浮かべたイーサンに言った。
「やれやれ。そんなに強がらなくても良いだろう。父や弟のために、君も大変だね。同情するよ」
「そんなものは要らないわ。欲しがっている人なんて、そこら辺にたくさん居るんだから、私ではなくそういう誰かにあげれば良いでしょう」
共犯者のイーサンに同情なんて、されたくない。私は自分で、この道を行くと選んだのだから。
それに、自分が可哀想だと思って、何が楽しいのかしら。さめざめと泣いている間に、誰かに利用されて搾取されるなんて真っ平だわ。
肘をついて私を見つめるイーサンは目の前にあったお茶を口に含み、やけに大げさに肩を竦めた。
「やれやれ。父親があんな風にならなければ、君も何の努力もなく幸せになれただろうに」
「何も考えず、自分でまったく努力もせず幸せに? まるで、夢物語ね。そんな人、この世界に存在しているのかしら」
「……君以外の貴族令嬢は、大体そうじゃないのか。家も裕福で、生活も困ることはない。気になることと言えば、貴族の中で持て囃される流行と自分の恋の行方くらいか」
イーサンは庶民からのし上がった彼らしく、日々夜会でダンスを楽しむ貴族がよほどお気楽に見えるのだろう。
それも仕方ない。誰だってその立場にあらねば、誰かの苦しみを理解することなんて、不可能だからだ。
「まあ、イーサン。貴方ってもしかして、おとぎ話の終わりにある、二人はそうして幸せに暮らしましたを信じているの? 人として生活していれば、誰だって悩んだりするわ。それに、衣食住の悩みがなければないで、新しい悩みが出来るものよ。人はきっと、お金があろうと何があろうと永遠に満たされることがないのではないかしら」
私は特に、彼に嫌味も言ったつもりもない。ただ自分の思ったことを言っただけなんだけど、イーサンは楽しそうに笑った。
「ははは。悪かったよ。ローレン。嫌な言い方をした。だが、生きるか死ぬかの貧乏生活からのし上がった俺は、どうしても貴族の抱えている悩みが小さく思えるんだ。生存に関する悩みがないなら、抱えている小さな悩みを大きくしてしまうのかもしれないな」
「そうね……私はきっと恵まれているのよね。親が作った巨額の借金を背負い、後妻の話を受ける寸前に王太子の婚約者の振りを一年続ければ借金は帳消し、弟の侯爵位も保証してくれると言われた」
「それに、俺のような世界を股にかけるほどの若い大富豪の初婚の妻になれるし? ローレン。そんな暗い顔をするな。俺の妻になれば、君が今まで見たことのないものを、いくらでも見せてあげられる」
もっと不幸な誰かに比べれば幸せに思うべきなのだという私の言葉の先を取ると、イーサンは面白そうにそう言った。
そんな彼を見て、どうしても不思議になってしまったのだ。
「……どうして。イーサンは爵位を欲しいと思ったの? 貴方はもう、何か欲しいものなんてそうないでしょうに」
「君がさっき、言っていた通りだ。運よく金は儲かったが、俺は産まれながらの貴族ではない。だが、何の不満もないような特権階級の貴族になりたいと長い間思っていた。お金があれば、確かになんでも買える。誰かの心も妻も……それに、貴族の爵位もだ」
「そうね。貴方の言う通りだわ」
彼の言葉に同意したはずなのに、イーサンは変な顔をした。望んでいる対応ではなかったのかもしれない。やっぱり私と彼は合わない。
王妃に爵位が欲しいと望んだイーサンに、私は買われてしまうのだろう。ここまで来て他の道なんて、選べるはずもない。
けれど、やはり先のことを思うと憂鬱だった。
優しく純粋なギャレット様を傷付けてしまうことが、やはり嫌だった。いっそ嫌われてしまいたいと思うけれど、状況的に無理だし。
心から望んでいるかというと、それもまた、何か違う気がする。
ペルセフォネ様の社交界デビューは迫り、悲劇へと向かう道すじは、刻一刻と近づいて来ていた。