06 区切り(side Garret)
国を継ぐべき王太子として生まれたからには、見知らぬ相手だとしてもこの相手と結婚しろと言われれば、黙って政略結婚をすべきであろうと考えていた。
帝王学では役割と義務と、己の為すべき使命を学ぶ。そこには、個人的な感情が優先されることは一切ない。
全を生かすために、個を殺す。王となる俺は頂点にありながら、犠牲になる個となる使命を負う。全が生き延びられるならば、それはほんの些細なことだ。
もし、俺という個が消えれば、誰かが代わってその席に座るだろう。それだけの、単純な話。
だから、ある日婚約者だと紹介された女を見た時にも、何の感慨も持てなかった。美しい娘だと思ったが、美しい女性なら城の中には腐るほど居る。俺はこの女と結婚して子をなすのかと思った、その程度だ。
メートランド侯爵家が窮地にあることは、何年か前から有名だ。借金がある状況を知り、王太子妃になり王妃となれば与えられる金目当てだったかと思ったものの、俺の父母に選ばれたローレンには何の罪もない。
そう思いつつも、彼女の詳しい事情を知れば、やはり嫌悪感が増した。金や地位目当ての人間は、俺の周囲に今まで腐るほど存在し、その度に数え切れぬほどに嫌な思いをして来たからだ。
日課である剣技の鍛錬を終え、深夜に歩く城の渡り廊下は、昼日中のような騒がしい人通りもなくしんとしていた。
「アニータ様は、バイロン家の血筋からお前の妃を選ぶのかと思っていた。ギャレットの婚約者になりたいと本人が強く望んでいるからという理由で、メートランド侯爵家のご令嬢を選ぶとは。なんだか、意外だったな……」
幼い頃から共に居る乳兄弟で専属護衛騎士のガレスは俺の婚約者について、首を捻った。前々からこうだろうと思っていた、自分の予想が外れたことに不満らしい。ガレスは強面でいかにも肉体派に見える大きな身体を持ってはいるが、見た目を裏切り頭脳派の切れ者だ。
守られるべき王族ではあるものの、俺がその辺の護衛以上に剣を使えるのもあって、常に行動を共にする専属護衛騎士は彼一人だけだ。
決められた政務に関する勉強の後は、騎士団の戦闘訓練に混じったり、剣技の稽古に励んだりと自由に時を過ごす。日々多くの人目に晒される生活を何十年と続けると、こうして人目のない時間を選んで城を歩きたくもなる。
ミスヴェア王国には、現在これだと目に見えるような危機はなく、周辺国との関係も良好。国民の誰もがゆったりと思えるような、平和でのどかな時間が流れていた。
それもこれも、亡き祖父と父が上手く国の舵取りをしてくれてたからだ。外交には特に力を入れ交渉上手だから、戦争もなく長く平和が続いていた。
その代わり、平和ボケした貴族連中が国内で問題を起こすことも多い。前王妃派と現王妃派だ。つまり、王太子の俺と第二王子たる弟のアイゼアの代理戦争なようなものだ。ちなみに俺もアイゼアも、それをまったく望んではいない。父を困らせているのは、国外からの問題より彼らの方が比率が多いくらいだ。
だからこそ、父親が貴族としての役目を果たしていないローレンが、俺の婚約者として選ばれたのかもしれない。彼女であるならば、俺の結婚に関してはどちらの陣営にも影響しない。
「義母上も自身の権力が強まることを、恐れているのではないか。宮廷での派閥争いは、熾烈になるばかり。そういった強硬手段を取れば、母の実家バルレッタ家も黙っていまい」
「ははは。あの欲深い女が、そんなしおらしく考えるかね? だと、良いけどねえ……」
ガレスは俺の母に代わり、王妃の座に就いた元側妃の義理の母に対し不満があるようだ。父も亡き母を、愛していたように思う。
だが、王妃の座をいつまでも空けておく訳にもいかない。義理の母が王妃になることそれすらも、定められた流れであったと言わればそうなのかもしれない。
「今日は、ローレンの姿を見なかったな……」
ひと月まえに婚約者として紹介されたメートランド侯爵家のローレンは、俺の婚約者になりたいという彼女の強い希望に両親が胸を打たれ、婚約者になったはずだった。
しかし、俺に対応する時に、どう考えても素っ気ない態度なのだ。やはり、王族の権力や金目当てなのだろう。そうだとすれば、こちらもそれなりに適当に対応すれば良い。
ローレンは婚約者に選ばれたなりの役目はちゃんと果たしているとでも言いたげに、一日に一回か二回俺に会いに来て挨拶したり話をする。
だが、今日は何故か来なかった。
古くから仕えるメートランド侯爵家の令嬢との結婚ならば、今宮廷で激しく勢力を争い合っている二派も何も言えない。俺とローレンの婚約は父上や義母上も、考えに考えた難しい落とし所だったのかもしれない。
彼女は家のことを除けば、人柄などには全く問題はなさそうではあるし……熱い恋愛に至らないとしても、長く夫婦として連れ添えば、信頼関係も生まれるかもしれない。
いや、俺を好きなのではないかという、釈然としない思いはどうしても隠せないが。
「ああ……お前をお慕いしているはずの……あの令嬢だろ? 王太子妃の教育は特に厳しいと聞くし、今は多忙なのではないか」
俺たち二人は勝手知ったる近道を進むため行儀悪く庭を抜け、そろそろ自分の宮に帰り着こうかといった頃に、庭の池の傍で人影を見つけ立ち止まった。
こんな深夜なのに、池に身投げでもするつもりか? いや、そもそもここは王族かそれに仕える者しか入れない。
誰だ?
明るい月明かりの中池のほとりで一人の女性が蹲り、悲哀を滲ませて肩を震わせて泣いている。こんな場所で一人で? 目を凝らして見つめれば、あの見覚えのある、美しい長い金髪は……もしかして。
「もしかして……ローレンか? こんな場所で、一人で泣いているのか?」
「そうみたいだな。どうする? お前が行くか?」
頭をかいたガレスは自分が彼女の元へ行っても良いと、言外に含ませた。
もし何処かに誰かの目があれば、婚約者と言えど異性とこんな深夜に密かに会っていると思われれば良くないだろう。まだ未婚の彼女の評判に、関わってしまう。
無責任な噂は、いくらでも悪意を持つ。誰か侍女を呼んでも良いが、ここで隠れて泣いているくらいだ。誰にも知られたくは、ないんだろう。
「いや、ガレス……俺の部屋から、月琴を持って来てくれ。もしかしたら、窮状にあると言うメートランド侯爵家で、何かあったのかもしれない。婚約者と言えど、まだ間もない。良く知らない男に、家族の辛い事情を説明させてしまうのも可哀想だ」
「ああ……すぐに持ってこよう。久しぶりじゃないか。あれを弾くのは」
似合わないのに可愛い楽器を弾くのだとガレスは揶揄うようにそう言って、俺の宮へと走って行った。
王太子妃となる彼女の宮も、ほど近い。
だが、宮の中には侍女も居るだろうし、抜け出してこんな所で泣いているとは。
ガレスに持って来て貰った月琴を持って、俺は物陰に隠れて演奏を始めた。
男の癖に女々しい趣味だと言われそうだが、数年前に亡くなった母がこれを弾くのが好きだったので、俺も彼女と一緒に演奏したものだ。
気苦労の絶えない王妃に向いていなかった母が泣いている時には、俺は何も言わずに月琴を弾いて慰めた。あまり器用な性分でもなくそう上手くはなかったが、優しい音色を聞くと泣くのを止めて笑ってくれたものだった。
「おい。ギャレット……彼女は周囲を見回した。泣き止んでいる」
ガレスも身を潜めているものの、木から大きな体がはみ出してしまっている。近くに来て彼の姿を見れば、滑稽に思われるかもしれない。
「どうだ……笑ったか?」
「ああ。手巾で涙を拭って、微笑んでいるようだ……良かったな」
俺も彼女が笑う光景が見たかったのだが、ローレンがここを去るまでは弾いていたかった。彼女の顔を見るためには立ち上がらなければならず、それでは音色が途切れてしまう。
「笑ってくれたなら、それで良いんだ……こんな場所で泣いているなんて、何かあったらどうするつもりなんだろうな」
この庭園は、居住する宮からは離れている。か弱い女性なのに何かあればどうするつもりだったんだろうと、心配になった。
「ここは王族の居住している場所で、堅固に守られている……万が一にも近道で通り抜けようとした王太子と護衛騎士に、偶然会うくらいじゃないか。とは言え、彼女の家の状況はあまり芳しくないようだな……現メートランド侯爵は何年か前に妻を喪ってから、人が変わってしまったと聞いたが」
メートランド侯爵は社交界でも、美形な男性として知られていた。もし、妻が亡くなったのなら、自分こそが後妻になりたいと望んでいた女性も多かったはずだ。
しかし、賭け事で身を持ち崩し家まで傾けるとは……ローレンを俺の婚約者とすることを良しとした父も、古い貴族のひとつであるメートランド侯爵家を救済したかったのかもしれない。
今の当主は確かに違うかもしれないが、我が国に対し何代も献身的な忠義を果たしてくれた貴族が、賭け事の借金で潰れてしまうなど、君主たる王族としては見ていて楽しいものでもない。
ローレンは父親を支え、気丈にもいろんな物を抱えているのだろう。俺はそういった事情を察することも出来ずに、短慮で彼女を決めつけてしまっていたのかもしれない。
「愛する者を喪い、正気を失うか……それほど愛されれば、女性は嬉しいのだろうか」
父は母を喪っても、泣き暮らすことは許されなかった。かと言って、許されていたならそうしたかというと、それは疑問だ。
国王には私情を仕事に持ち込むことは、許されない。父は感情を殺すことには、慣れているだろうから。
「どうだろうか……俺ならば、たとえ先に自分が死んだとしてもその後は幸せで暮らして欲しいと思うが……ああ、あの子は帰って行ったよ。ギャレット。良い仕事したな。ご苦労さん」
ガレスは人目のあるところでは護衛らしい言葉使いになるのだが、二人になるとこうして砕けた口調になる。
そうしてくれた方が良い。常に何もかもが堅苦しければ、解き放たれたい思いも強くなるだろうから。
とは言え、それからというもの俺はあんな風に泣いていたローレンが俺の月琴を聞いて笑ってくれた光景を想像しては、思い出し笑いをしてしまい嬉しくなった。
どんな風に笑ってくれたのだろう、と。見られなかったからこそ、見たくなったのだ。彼女の心からの笑顔を。
俺がローレンが気になり出したのは、はっきりとこの夜からだったと言える。はっきりとした、区切りがこの時だ。
何の意識もしていなかった若い女の子が、俺の恋愛対象へと変わった時だった。