03 捨てようよ
「姉上。もう父親を捨てよう……僕は侯爵になんてならなくて良い。メートランド侯爵家など、潰れてしまえば良い。僕たちが二人で生きていくのなら、爵位やお金がなくたってどうにかなるはずだ」
怒りに任せ姉に親を捨てようと持ちかけた弟のクインは、まだ十歳。
短い銀髪に、紫の目。お母様が若い頃に一目惚れし、どうしてもこの人でなければ結婚しないと祖父に泣きついたという、元貧乏子爵家の次男で今はメートランド侯爵である父フィリップに嫌になるくらいそっくり。
ええ。クインは誰もがその話を聞いて、想像する通りの父似の美形だ。
「クイン……駄目よ」
「姉上をこんなに苦しめておいて、まだ賭け事で借金したんだよ。今朝だって、へべれけになって帰って来たんだ。姉上をこんな面倒な立場に追いやっておいて! 許しがたいよ。もう、要らないよ。捨てよう。今すぐに」
久しぶりに会ったクインが、これほどまでに怒っている理由が納得出来た。
ということは、お父様はまた借金を重ねたのだ。貸してくれる人がまだ居たのかしら。私が次期王妃になると決まり、気の早い人が融資でもしてくれたのかしら。
有り難いことだけど、我が家には最悪な出来事が起こってしまった。
ギャレット様の期間限定婚約者を演じるための報酬として、王妃様から貰った前金は私名義になっている。
少しでも希望を持つためにと、お金を貰ってすぐに領地の事業へと投資しておいて良かった。
もし、あのお金が騙されやすい父の手に今あったらと思うと、背筋がゾッとする。
とは言っても、クインはまだ学生で十歳だ。家のお金の工面の話なんて、普通なら聞くこともなくすくすくと育っているはずなのに悲しい。
お母様だって、これを知れば悲しむはずだ。
「クイン。お父様もお母様が亡くなって、とても辛いのよ。あの人には私とクインだけが残された家族なんだから、そんな風に言わないで」
私だって、本音のところではクインと同じ気持ちだ。
けれど、幼いクインより、世の中を知っている。今まで貴族として生きてきた私たちが平民として落ちぶれれば、酷いことになってしまうのは目に見えているだろう。
ちなみに父は実家の子爵家からは、縁を切られている。
現在のメートランド侯爵家の惨状を見れば、仕方のないことだ。父が容姿だけしか良くない男だということが、すぐに知れる。
「おかしいよ。頑張っている姉上の足を引っ張るしか能のない、あんな役立たずなのに? ……こっちから、もう捨ててやろうよ。確かに子は親は選べないが、僕らにだって庇護者を選ぶ権利はあるはずだ。母上が亡くなり、哀しむのは理解出来るよ。僕たち子どもが見ているのもつらいくらいの仲の良い夫婦だったもんね。けど、亡くなってから何年が経っていると思ってるの? 母上だって、こんなことを望んでいた訳ではないと思う」
「クイン。わかったから。もう良いから……止めなさい」
だんだんと興奮していく様子のクインに、冷静になるように私は言った。
私は今ギャレット様の婚約者として、王太子妃の教育を受けるために将来住むべき宮を用意して貰いそこに住んでいる。
クインは父と二人暮らしだから、使用人を最低限に置き、庭師を雇う余裕もないから、庭も何もない。
今では人が住んでいるように見えない廃墟のようになってしまったメートランド侯爵邸が、本当に嫌になってしまっているのだろう。
「いつまでも……じめじめと妻の死を泣き暮らし、酒に溺れ賭け事をして……守るべき姉上を苦しめる。あんな奴……」
「わかったから。もう良いわ……貴方は、成人すればメートランド侯爵になるのよ。それだけを考えていなさい。貴族が爵位を奪われて……どんな悲劇を襲うか、貴方はまだ知らないでしょう」
今ではもう頼る者が居ない私たちは社会の底辺で、泥を啜ることになる。産まれた時からそうであったなら、また違うのかも知れない。
これまで何不自由なく育ってきたクインは、天と地ほどの落差に苦しむだろう。愚かな過去の選択を、未来に悔やむことになるはずだ。
「けど、僕は姉上を金で売り渡すくらいなら、何でも我慢出来るよ! 金持ちの後妻の話だって、本当に嫌だったのに。いつの間にか、王太子の婚約者に……それも、期間限定だなんて! 信じられないよ。いくら次の婚約者を用意して貰ったとしても、姉上は用済みになれば、王様になる人を裏切らなければならないんだろう? そんなことって……」
私は熱くなり訴えるクインの隣に座り、彼の右手を取って摩った。
優しい子だから……姉ばかりが何故苦しまなければならないのかと、そう思っているのかもしれない。
けれど、私は病で天に旅立つ前のお母様に、クインを立派に育て上げ侯爵にすると約束をした。
「……クイン。とにかく、これは私がやるって決めた事だから。お願いだから、良い子にしてて? ね?」
ここ二年ほど父が借金をする悪い癖は、だいぶ収まっていた。何故かと言うと、借りたくてももうお金を貸してくれる人が周囲には居なくなっていたからだ。
けど、私がギャレット様の婚約者になって状況が変わり、再度借金したことが想像以上に堪えているのかもしれない。
眉を寄せ悲しそうな表情になったクインは私から視線を外し気まずそうに彷徨わせ、私が明日身につけるために置いておいたキャビネットの上にあるネックレスへと目を向けた。
「こんな……金で出来た豪華なネックレスなんて……姉上の肌は、金には弱いのに。これは、どうしたの?」
「あれは……ギャレット様に頂いたものよ。先祖代々伝わる、王太子の婚約者の証なの」
「え? 姉上のことを……何も調べず? 何も知らないじゃないか。何が婚約者だよ。あの脳筋王子」
顔を顰めてクインが悪態をついたけれど、それを知らないのはギャレット様のせいではない。
私の肌は、幼い頃から金にだけ弱い。それを知る母は、私用の装飾品は銀や白金で作ってくれていた……今ではもう、そのほとんどを売り払ってしまったけれど。
けれど、これは王太子の婚約者としての証で、彼が自ら選んで私に与えてくれたものでもない。ただ、王太子の婚約者としての役割に対し、与えられたものだ。
公の場では、あれを身につけなければならない。
「もう止めて……良いのよ。それ以上言わないで。これは、ただの王太子の婚約者の証。ギャレット様は私の肌が金に弱いことを知れば、きっと私用に作り直して贈ってくれると思う。けれど、私はすぐ彼の婚約者でもなくなるのだから……少しの間の我慢よ。それで、良いの」
成人するまで剣技の上達ばかり追い求めていたらしいギャレット様は、別に婚約者の私を蔑ろにしている訳ではないと思う。ただ、こういうことに疎くてそういう可能性があることをただ知らないのだと思う。
「……大体、なんであいつは姉上のことが気持ち悪いくらいに好きなの? お互いに何も思われてなければ、ほんの一時だけ婚約者だった期間があるだけで終われたのに」
家族を紹介した時に初めてギャレット様に会ったクインが言う通り、ギャレット様は期間限定の婚約者である私に少なからず好意を抱いているようだ。
「さぁ……婚約者になった当初は、あまり良く思われてないように思っていたけれど……いつからか、あんな風になったわね……」
ギャレット様にお会いした当初、彼にはあまり好かれていないようだと思った。けれど、今はやけに好意的に接してくれていると思う。
確かに私は彼に積極的に好かれようとしたことは、これまでに一度もなかったのだけど……何故なのかしら?