13 独り言
クインは、今からでも何もかもを明かせば遅くないと言った。けれど、私は何もかもがもう遅いと首を振った。
ギャレット様は婚約者だった私に好意的に近付き、そういう感情を素直に表現してくれた。自分勝手にそれを裏切っただけの私は、彼に何を言うことが出来るだろうか。
貴族学校に通うあの子は、どうしても明日提出しなければならない課題が残っているからと、心配そうに帰って行った。
私も寝巻きで見送りする訳にもいかなくて、着替えはしたものの、またすぐに自室に戻り、ぼんやりとベッドに座っていた。
「……あー……これは、勝手な独り言なんだが」
「……イーサン。何の用?」
いきなり聞こえて来た声に、私は人の部屋に勝手に入って……を飲み込んだ。だって、ここはイーサンが所有する邸で、私はまだ彼の妻でもない。
こんな頼りない立場で、彼に対しどんな文句が言えるって言うの。
「いや、ミスヴェアの王太子が珍しく父王に逆らったという、噂を聞いてね」
「え。ギャレット様が……? どんな噂話なの?」
このイーサンもそうだけど、私の前で誰もがギャレット殿下の話をしなくなった。
だって、イーサンの持つお金に目がくらみ、ギャレット様を捨てた女だと思われているもの。そんな嫌な人物の前で、可哀想な彼の話をする訳がない。
イーサンがここで彼の話をしたことに驚いた。だからこそ、よほどのことが起こったのだろうと、そう思った。
「あいつは次の婚約者にと勧められたバイロン家のペルセフォネとだけは、結婚しないと言い張った。王は婚約者に逃げられた直後だから無理もないとそれを許し、王妃は自分の言うことの聞かない王太子について、不満を募らせている。まあ……仕方ない。生さぬ仲の義理の息子だしな」
「……え?」
ギャレット様は、既にペルセフォネ嬢を受け入れたんだと思っていた。それを聞いて私はぽかんとなったんだけど、イーサンはそれを見て鼻で笑った。
「あの王妃も、ローレンも。王子を見くびり過ぎじゃないか。おそらくだが、王妃がペルセフォネを婚約者にするために君をあてがったことも、今は全て理解している。だが、それを明かし王妃を責めれば、君がまた嫌な思いをする。だから、何も言わずに黙っているんじゃないか」
「……そんな……嘘でしょう」
「今まで何も言わず良い子で王太子をやって来た男の、初めての反抗だ。だというのに、それが原因で殺されてしまうとは、俺も流石に夢見が悪くなりそうでね」
「止めてよ。何言ってるの。縁起でもない」
私は何を言い出したのかと、イーサンを睨み付けた。口の上手い彼でも、言って良いことと悪いことがある。
「いいや、これは嘘じゃない。王妃に殺されるかもしれないぞ。あの人は俺を人と思っていないからな。物同然だ。叙爵の話を聞きに行ったら、大事な話を誰が聞いているのかも気にせずしてくれたよ。今はギャレット殿下は、気分を変えるために離宮へと旅行中だと……失恋旅行だろ。どう考えても」
王妃にしてみれば、平民であるイーサンを人と認識していないっていうこと? ひどい。そういう国民が居なければ、彼女だって王族だと大きな顔が出来ないはずだ。
ギャレット様は、誰もを等しく扱っていた。彼は優しくて……私は婚約者だから、そんな彼に特別に優しくしてもらえた。それなのに、裏切った。
「……まさか。あの人は武道大会で、毎年優勝しているのよ。そんな彼を、誰がやすやすと殺せるというの」
そうよ。彼はそれほどの凄腕の剣の使い手で、だからこそ国民の人気も熱狂的だった。彼を捨てて逃げた私を、国民の誰もが恨んでいるくらいに。
「いくら名高い剣の使い手だろうが、頭から巨石を落とされたらどうする。防げる訳もないだろう。人を殺す方法なんて、いくらでもあるぞ……一騎当千と呼ばれている戦士だろうが、不意をついて計画的に殺そうと思えば、どんなに武芸に長けていようが殺される」
「イーサン」
咎めるように言った私に、イーサンは肩を竦めた。
「まぁ、ローレンはこれを聞いても、関係ないよな。お前はろくでなしの父が作った借金を返して、弟が侯爵になれればそれで良いんだろ? 騙され裏切りにあった王子が一人死んだとても、悲しみもせず眉ひとつ動かさないんだ。家族のために」
「……イーサン!」
悲鳴のような声を出した私に、イーサンはうるさげな様子で耳を塞ぐ振りをした。
「……なんだよ。そんな……未練たらたらの顔をしやがって。王妃の言うとおりあの王子を捨てたら、ローレンの望むものが、すべてが手に入ったんだろ。これ以上、何を望む?」
「イーサン……私……行くわ。ごめんなさい。貴方と結婚は出来ない」
今この決断を、未来の私は後悔するだろうか。それでも良い。ここでもし、行かないことを選んだら、一生後悔する。
生きていくお金なら、自分で稼げば良い。守るべき存在だと思っていた、クインは立派に育った。私の心を守ってくれるくらいに。
私はもう……母が亡くなり絶望した父が作った借金を、自分の不幸の言い訳に使ったりなんてしない。
私が自分を不幸だと思うのなら、それは正しい。お金がなくても幸せだと思うなら? それも、きっと正しい。
これから、お金がなく貧乏暮らしをしたって、私はギャレット様を救いたい。
「……自分から捨てた男にも、多少の情が残っているのか。ローレン。あいつの居る場所へ、行ってこい。馬車も一台やるよ……ただし、もう二度と俺に顔を見せるな。安穏とした生活を捨ててでも、あいつが心配だと思うのなら、行ってこいよ。あれだけのことをしたんだ。本人も本人の周囲もお前が近付くことを、嫌がるだろう。会えるかどうかは、わからんがな」
「ありがとう。イーサン。でも、私……」
そうして貰ったとしても、馬車を出してくれるお金を返すあてももないし、ここで私がギャレット様の元へ行き、王妃の裏切りを知らせ自分のしたことを告白し何もかも失えば、平民として生きていくことになる。
つまり、この借りを簡単に返すことが出来ない。利に聡いイーサンだって、それを理解しているはずだ。
「さてね。目のくらむような大金を持っていると、近づいてくる誰も彼も金目当てに見える。俺にはもう簡単に見えなくなってしまったものを、どうかこの目に見せてくれよ。安全に幸せになれる道を捨ててでも、愛する人を守ろうとする女は……この世に、存在しているのだと」
一代にして若い大富豪となったイーサン・ベッドフォートの名前は今や鳴り響き、彼と結婚したいと望む女性は世界中に多いだろう。
けれど、彼はその中から自分のことを愛している人物がこの人だと判断するには、難しいはずだ。彼は言った。お金があれば、何でも買える。人の心も爵位だって、貴族の血を持つ妻でさえも。
では、自分の利益のために嘘をつくことの出来る人間相手に、真実の愛を見つける方法とは?
……頭の切れるイーサンにもわからないのに、私になんてわかるはずもない。
私がギャレット様に向ける感情は、真実の愛なのだろうか。自分にも、良くわからない。
今感じているのは、激しい焦燥。彼の命を救えるのなら、今自分の持つものすべてを投げ出してでも、救いたいと心が叫んでいる。
「……イーサン。ありがとう。今まで気がつかなかったけど、貴方って……なかなか良い男だったのね」
私の言葉を聞いて、イーサンは眉を寄せて一瞬変な顔をしたけど、苦笑して言った。
「ああ。ローレンは自分では気がついてなかったかもしれないが、あの王子以外、もう視界に入れてなかった……ああ。俺は良い男だ。だから、そういう俺の隣に居る女は常に幸せな女でなければならない。他の男を想ってベッドで泣いている女なんて、こっちからお断りだね」
「……ねえ。もし上手くいかなかったら、クインと一緒に貴方の商会で雇ってよ。イーサン」
「は? さっき俺は、二度と顔を見せるなと言ったはずだ。ローレン」
面白くない顔をしてイーサンはそう言ったけど、私は笑って言った。
「イーサンは嘘は上手いけど、本当はさみしがり屋なんでしょう。私と弟のクインが傍に居れば、騒がしくなるけど、さみしくなくなるわ」
「……生意気を言うようになりやがって。さっさと行け。俺みたいな良い男を逃したことを後悔してこい」
ベッドに座っていたままの私は、促されて立ち上がって、イーサンと向かい合った。
「ありがとう。イーサン。感謝してる。忘れないわ……もし、私がギャレット様を救うことが出来たら、貴方の願い事をなんでもひとつだけ叶えると約束する。私の出来る範囲で、だけど」
「これだから、世間知らずのお嬢様は。なんでも叶えるなんて、これから絶対に口にするな。さっさと行け……俺に良い女を逃したと思わせてくれ」
「ありがとう! イーサン!」
私が邸の中を走っているのを見て、使用人たちは驚いているようだ。泣いて引きこもっているはずの女が廊下を爆走していたら、それは驚くと思う。
本当にごめんなさい。
仕事の出来るイーサンは、馬車を玄関に付けてくれていた。先読みの出来る良い男。それは、確かにそうなのかも。
私はそれに飛び乗って、何度か息をついて、胸の前で両手を握り祈った。
ギャレット様。どうか、何事もなく無事で居て。