11 図書室
パッと目を見開いたら、すぐそこにギャレット様の美麗な顔があって、さっき見ていたはずの暗い悪夢の残滓は一瞬で消え去ってしまった。
窓から差し込む眩い光と、曇りなき青い瞳の王子様。圧倒的な光量を前に心に後ろ暗いところのある私は、今にも消されてしまいそう。
幻かなと思って何度か目を閉じて開いてを繰り返したんだけど、ギャレット様の顔は消えない。
ということは、彼は本当にそこに居るということだった。
「え……? どうして?」
自分でもびっくりするくらいに、かすれて寝ぼけた声が口から出て驚いた。
両手にはざらりとした紙の感触。時間潰しにと物語を読んでいる間に、寝てしまったらしい。
ここは私に用意されていた宮にある小さな図書室で、完全なる私室ではないけれど、誰もが簡単に入れるような空間ではない。
「俺は婚約者なんだが……現にここに入る時にも、誰にも止められなかった」
苦笑したギャレット様は寝起きでなかなか思い通りにならない体を起こそうとした私を手伝いつつ、そう言った。
「そう……そうですね。申し訳ありません」
そうだった。婚約者の私は単にこの宮を間借りしているというだけで、対してこの城の所有者の息子である彼は何処に行こうと勝手だから、何を言っているんだろう。私が何もかも間違っていた。
「いや。別に寝顔をまじまじと見るなと、怒ってくれても良い。ローレンは、いつまでも他人行儀だな……そろそろ、俺に慣れてくれても良いと思うんだが」
ギャレット様はご自分が少しずつ距離を縮めようとしても、逆に後ずさって行くような私が不可解なようだ。
それも、そうだと思う。
彼から見ても、私は誰がどう考えてもギャレット様が好きで……それは隠せていないと思う。どれだけ冷たく対応したところで、彼本人には避けられている理由がわからないだろうから。
「ギャレット様に慣れることなんて、私にはきっと出来ないと思います……」
彼という存在に慣れてしまえば、今の婚約者という立場を手放すことが耐え難くなってしまうだろう。
そうすれば……メートランド侯爵家はどうなるの?
イーサンが気まぐれを起こして借金は肩代わりしてもらえても、真面目なギャレット様は、自分を騙そうとした私をどう思うのだろうか。
それに、ギャレット様は万が一許してくれたとしても、王は私を許さないだろう。現王イエルク様は規律に厳格で、不正は決して許さない人としても有名だ。
……それに、彼の義母である王妃様は、裏切った私をどうするだろうか。
彼女のしようとしたことは、ただ義理の息子に自分の姪を充てがおうとしただけ。
国家転覆を企んだ訳でもなければ、実家バイロン伯爵家に忖度したと少々醜聞が広まる程度で王妃の座は損なわれることなく彼女のものだろう。
私はそんな彼女と敵対したまま何食わぬ顔をして付き合えるとは、とても思えない。格が違いすぎるもの。
たとえ、メートランド侯爵家が潰れる寸前の窮状にあり、そうするしか選択肢がなかったとしても王太子を騙そうとした時点で、私はもう決められた道を突き進むしかないのだ。
「……そうか。まあ、良い。こうして過ごす時間を増やせば、君だって慣れていくはずだろう」
ギャレット様は割と楽天的な性格で、自分の思い通りにならないからと言って人を咎めることはない。自分勝手な傲慢さがあったとしても何をしても許されそうな立場なのに、彼はそうしない。
彼自身が元々持っている素質なのか、王太子という稀有な立場で生まれ育って来た人が受ける特有の教育の賜物なのか、私にはわからない。
彼のことは、これ以上知らない方が良いのだと思う。だって、知れば知るほど抜けられない沼に入っていく感覚がするから。
「そうですね」
私はなるべく感情を出さずに立ち上がると、手に持っていた本を本棚に戻そうとした。
この本が主役二人が決して結ばれぬ悲恋の物語だったから、先ほども変な夢を見てしまったのかもしれない。
とは言っても、大団円のハッピーエンドを楽しめる心境でもない。自分がそうならないことを知っているから。
本を元の棚に戻し終えると私の頭くらいの高さにはみ出ている一冊の本に気がつき、私はそれを棚に押し込もうとしたんだけど、何故かそこにあったはずなのに嵌まらない。
もしかしたら、それはそこにあるべき本ではないのかもしれない。今ここに居る私みたいに。
そう思って勝手に罪なき本に苛立ってしまった私は、それを力任せに引き抜こうとした。
その段の本がつられて一緒に棚から落ちて、しまったと思った。いかにも重そうな本で、別に怪我はしないだろうけど、当たったらとても痛そうだったから。
「っ……え……えっ? ギャレット様?」
痛みに耐えようと反射的に目を瞑って頭に手を当てた私は肩を引かれ体が反転して床に倒れ、彼がその身を持って落ちてくる本から庇ってくれたことに気がついた。
え。待って。ギャレット様、咄嗟の対応としては、身体能力が余りに高すぎない? 流石は、『雷の子』という二つ名のある人。
床に倒れていた私は感心して彼を見上げていたんだけど、何故か目に見えて狼狽して顔を赤くしていた。
「わっ……ごめんっ!」
ギャレット様はパッと手を上げて、まるで降参するかのような体勢になった。今、彼が謝るべき点が全くわからなかった私は、何故なのだろうと真剣に考えてしまった。
え。ギャレット様って、今謝るところあった?
……あ。さっき、胸に何かが当たっていた気がする。もしかして、庇った時に私の胸を触ってしまったのかもしれない。
ギャレット様が謝罪した理由を知り、私は大丈夫だと伝えるために微笑んで頷いた。
「庇ってくれて、ありがとうございます。あの、気にしないでください。ギャレット様が故意に触った訳ではないことは、私も理解しています」
「っ気にするよ! 待ってくれ。何故、ローレンはそんなに平静な態度なんだ?」
「……え? 大丈夫ですよ。胸くらい。弟のクインも、ふざけて触ったりしましたよ」
クインは物心ついた頃から母が病気で、乳母と私が育てたようなものだった。
とは言え、数年前に母が亡くなってから急に大人びてしまったクインは、姉の私に対し礼儀正しく接するようになり、全くそんなことをしなくなってしまったけど。
「弟が? 待ってくれ……姉が居る弟は、そういう環境が当たり前なのか?」
大きな衝撃を受けた表情になったギャレット様は、そこそこ大きくなったクインが今も当たり前のように触っていると誤解しているのかも知れない。
「あの……それって、数年前のことですよ。流石にあの子も、今はしないですよ」
私は勘違いしているのだろうと微笑み、ギャレット様は納得したように頷いた。
「そうか! そうだよな。いや、だからと言って良い訳でもないんだが……複雑だ」
ギャレット様は両手で頭を抱えて、考え込んでいるようだ。彼には腹違いの弟が二人居るきりだし、姉妹が居るという感覚がわかりづらいのかもしれない。
「ギャレット様も結婚をすれば、遠慮なく触れると思いますよ」
ええ。それは、私ではない違う女性の胸ですけど。ペルセフォネ嬢は痩身の女性だけど、大きいから良いわけでなく、そういう小さな胸もお好きな人が居るらしいし。
「遠慮なく!? いや、遠慮はするだろうけど、遠慮はしなければ、おかしくないか!?」
しまった。結婚したら私の胸を遠慮なく触っても良いですよと、彼は取ってしまったのかもしれない。
けれど、ここで先ほど自分が言った言葉を否定するのもおかしいかと、私は重ねて言った。
「いいえ。遠慮はしなくて良いと思います。夫婦ですもの」
私は真面目な顔をしてそう言うと、ギャレット様の動きは止まり、その場に変な沈黙が落ちた。
「……すまない。そういえば、そろそろ戻らなければならないと思うし、俺は帰る」
ギャレット様はふらふらとして立ち上がり、見ているこちらが心配になるような頼りない足取りで、図書室を出て行った。
なんだか……よくよく考えて見ると、余計なことを言ってしまったかも知れない。けれど、言ってしまった言葉は戻らないし……過去は変わらないし。
私が彼を裏切るまで、もうすぐだし。