01 女遊びするぞ!
【用語解説】限界王子様……限界オタクなどの使用方法と同じように、ヒロインを限界まで溺愛しすぎ変な行動を取るようになってしまった残念な王子様のことである。
私の婚約者王太子ギャレット様は、太陽神かそれに近しい存在に愛されていると思う。
まるで、眩い陽の光を梳いたようなさらりとした金髪に高い空の青を思わせる瞳を持ち、端正な顔立ちに見上げるような長身は筋肉が付きすぎることもなく鍛えられている。
まっすぐで真面目過ぎる性格と、少しだけ女性関係に疎く子どもっぽいところのある以外は、彼は完璧な王子様と言える。
偶然、昼日中の城中で会い「それでは、少し二人で散歩でもしよう」とギャレット様に誘われ、二人で並んで廊下を歩き隣の彼の横顔を見ながら、私は改めてそう思った。
本当に、完璧な造形美だわ。
おそらくというか間違いないけれど、私がここを通るのを知っていて、だからこそギャレット様はここへやって来たのだろう。
散歩に誘った時の声音が不自然で、私はすぐにそれを理解した。真面目で、嘘が下手な人だもの。
白い石畳で出来た廊下を、重いドレスや歩幅の関係でゆっくりと進むしかない私に、長い足をぎこちなく動かしてギャレット様は歩みの速さを合わせてくれていた。
私たちは正式な婚約者同士だし、安全な城の中のせいか、周囲の侍女や護衛などは気を使って話が聞こえないように一定の距離を空けていた。
ちらちらとこちらへ視線を投げるギャレット様は黙って寄り添う私に、何かを伝えたいようだ。
……なんだか、嫌な予感がする。
「ローレン。何故君が……俺の婚約者となった理由を、覚えているか?」
やっとギャレット王子から口火を切り真剣な声音で問われた疑問に、私は黙ったまま微笑み頷いた。
その理由を忘れることなんて……私には一生、出来ないと思います。
「はい。ギャレット様を以前よりお慕いしておりましたので、私が婚約したいと自ら立候補いたしました」
本当はギャレット様の母君より、私が一年間婚約者の席を埋めていれば、幼い弟クインの侯爵位は安泰となり、放蕩者の父が賭け事で作った巨額の借金を全額返済し、それに……私には婚約者でなくなった後の裕福な嫁ぎ先までも用意してくれると、約束して頂いたからです。
もうこれ以上、どうしようもないほどに袋小路に追い詰められていた我がメートランド侯爵家にとって……掴むという選択肢しかなかった、たった一本の命綱だったんです。
「そうだろう……だからこそ、俺の両親とて、君が俺の婚約者に最適であると判断したんだ」
ギャレット様は立ち止まり、私の右手を両手で取った。彼の温かくて大きな手はざらりとしていて、固い剣だこが出来ていた。
なんでも、彼は護衛に守られるべき王族には珍しいほどの剣の名手で『雷の子』と呼ばれているらしい。年に一度開かれる闘技大会でも、毎回優勝を攫っている。
無心になって剣の稽古をしていたから、大国のお姫様との待ち合わせ時間に遅れてしまったという逸話は有名だ。
美形の上に戦闘能力がこんなにも高い王太子様なんて、世界どこを探してもギャレット様お一人しか居ないのではないだろうか。
とは言え、私は婚約者とは言え期間限定で、この先結婚する訳でもない。
ギャレット様が世界でも特別素敵な男性であることは、そんな私にとっては何の役にも立たない情報だった。
「本当に……この身に余る幸運を賜り、とても有り難いことですわ」
そう言って私は彼の手をさりげなく外し感謝を述べ行儀良くカーテシーをしたのだけど、ギャレッド王子は不満そうな顔のままだった。
いいえ。実はその理由は真っ赤な嘘で、王妃様が私を貴方の婚約者にと選んだのは、家が火の車で大きな弱みを持ち権力で脅しつければ、簡単に好きに出来る……王族と婚姻が許される程度の地位を持つ、とてもとても珍しい高位貴族の令嬢だからです。
「では……何故、ローレンはそんなにも、俺への対応が他人行儀で冷たいんだ?」
「まあ……そうは意識してはおりませんでした。ギャレット様があまりにも素敵な方ですので、どうしても目の前にすると緊張してしまうのかもしれません」
感情を見せずに淡々と彼の質問に答えた私に、ギャレット様は微妙な表情になった。
何故、自分にそんなわかりやすい嘘をつくんだと、そう言いたいのだろう。
ここでギャレット様に嘘をつくしかない私だって、本当の理由を答えたい。
彼のことを大好きな……ギャレット様の婚約者となるべき女性が、それ以上偽の婚約者の私は近づくなと命じているからです。
なんて……今までに私が思い悩んでいたこと、何もかも、全部、ぜーんぶこの人にぶちまけてしまえれば、とっても楽になることだろう。
けれど、それは許されない。
弟クインは十歳でまだまだ幼く、爵位を継げる成人の十八歳までは長い。婿養子で綺麗な顔しかないお父様は、しっかり者のお母様が亡くなってしまったから賭け事などの放蕩三昧を繰り返した。
長い歴史を積み重ね伝統あるメートランド侯爵家が、もう先祖伝来の家財を売るところまで足を踏み入れてしまっている。
早い話が私は現在、崖っぷちに居る訳ではない。もっともっと、悪い状況に居る。
既に足を踏み外して昏い崖に転落せんとしているのに、辛うじてふちに指だけが引っかかっている。
必死でしがみ付き自分の力だけで、この苦境を乗り越えなければ……こんな状況で誰も頼りになんて、出来ないんだから。
ギャレット様の一時的な婚約者として、完璧に振る舞うだけなのに。そうしたら、何もかも全部上手くいく。
唯一の救いの道を掴んだのに、ここで無様に失敗なんて、許されない。
「おい。ローレン。もう良い加減にしてくれ……俺に構ってくれないと、女遊びするぞ!」
もう我慢ならないといった様子で、そう言ったギャレット様。女性に耐性のない硬派な彼にしてみると、踏み込んだ言葉を使われた。
ムッとして拗ねていたとしても、整った顔になんの支障もない。可愛い。
こういう少し子どもっぽいところだって、ギャレット様の魅力なのだ。真面目な人だから、驚いた私をからかっている様子なんて全くない。
女性関係には疎く真面目な性格で、良くわからない対応をする婚約者の本音を引き出すために、彼なりに必死で考えた言葉だったのだと思う。
けれど、ギャレット様のそういう気持ちには応えられない私は、こう答えるしかない。
「ギャレッド様のお気持ちや行動は婚約者だからと、私には縛れませんので。お好きにどうぞ。思う存分、女遊びを楽しまれてください」
物わかり良く私がそう言えば、ギャレッド様は見るからに機嫌を悪くした。
「っ……何でだよ! なんでそんなにも、冷たいんだ。ローレンは……俺を好きで……だから、俺の婚約者になったんだろう?!」
私は一時的な婚約者で貴方に対し恋愛感情を見せれば、すべての取引を反古にするという条件が課せられているので……言葉だけは貴方を好きと言い、態度では何も示せない。
そういった契約なのです。
「私の方はギャレット様をお慕いしておりますが、私たちは恋愛結婚ではなく、結局のところ家同士に都合の良い政略結婚です。他に好きな方が居る可能性もあることは、良く理解はしております。これからも決して、ギャレット様の邪魔は致しません」
笑顔できっぱりと言い切った私に、ギャレット様は慌てた様子で首を横に振った。
「他になんて……居るわけっ……もう良い!」
赤くなった顔を片手で覆いギャレット様はくるりと背中を向け、バタバタと足音高らかに去っていった。
彼の後ろ姿を追いかけるでもなく、じっと見送る私。あれ以上、何を言えるんだろう。
真面目で口下手なギャレット様は、とても可愛い。それは私だけではなく、成人だというのにこんな初々しい様子を見せる彼を見た人全員がそう思っているだろう。
私は貴方を好きになってはいけないだけです。なんたって、いずれ別れを告げる予定の期限付き婚約者ですもの。
年若い婚約者同士の痴話喧嘩とも言えないやりとりに、周囲は微笑ましそうな視線で見ていた。
決められた役割を演じているだけの私だけど……周囲からは意中の人と運良く婚約できたのに恥ずかしいから素っ気なくしてしまう不器用な令嬢と、それをどうにかしたくて必死な王子様に見えるのだろうか?
もし、本当にそうならば、さっきの恥ずかしい叫びだって可愛いわよね。
でも、時たま思ってしまう。
好意を隠さずに接してくれるギャレット様が何も言わずとも事情の何もかもを察してくれて、苦境にある私のことを助けてくれないかなって。
けれど、性格的に真面目なギャレット様は、どんな理由があろうが騙していた私を許さないだろうと思う……彼の気持ちを利用して、自分の家族を守ろうとした利己的な私を許せなくなるはずだ。
だから、これって単に起こりえない夢を見ているだけなのだけど……別に良いじゃない。逃げられない蟻地獄の中で、幸せになれる幻想を見たって。
私が今している事を良心的な他の誰に言えば、「人を騙すことは、良くない」とさとすことだろう。
けれど、それをしたら自分の家族を不幸から救えるとしたなら? 暗い夜に進む道を選ぶ人だって、きっと多いはず。
綺麗事だけでは生きていけないという世知辛い現実をまざまざと知っているからこそ、あんなにも純粋なギャレット様を騙すことに同意した私。
それでも……どうしても、苦しくなる。
私は自分の本当の気持ちをギャレット様に話すことは、この先ないだろうってわかっている。弟クインの侯爵位の確約と借金の帳消しの代わりに、それをする権利をもう手放してしまった。
胸が苦しい。彼がたとえ不器用だとしても私へ好意を示してくれる度に、辛くて堪らない。
ギャレット様がああして向けてくれるまっすぐで温かな愛情を、私は……何食わぬ顔をして、いつか裏切るしかないのだから。