プロローグ
その女は空を見ていた。
「予鈴は鳴っただろ。早く教室に戻りなさい、じきに授業が始まる」
タバコを咥えた女は振り返ることなく空を見つめている。
旧校舎屋上。
数年前に新校舎が完成してからは旧校舎は一部の文化部の部室としてしか使われていないらしい。
昼休みが終わり五限が始まろうとしている今、ここには誰もいない、はずだった。
俺はいつものように屋上で昼寝でもして放課後まで時間を潰そうと考えていた。しかし、そこにいる先客は俺にそれを許さないだろう。
「授業? 俺には関係ない。こんな落ちこぼれが授業に出たって他の奴らの邪魔になるだけだろ」
そう言うと俺は彼女の横に立った。彼女が何を見ているのか素直に気になったからだ。
「これは受けゆりだが、自分自身はそう簡単に卑下していいものじゃない」
彼女は空を見つめたまま寂しそうに呟いた。
言葉につまる。
図星を突かれた感覚に似ていた。その言葉は同時に俺の中の深いところにある何かに触れた気がした。
「あんたが俺の何を知ってるって……」
「知ってるさ。私にもそんな時期があったからな」
飛び出た俺の言葉を遮るように彼女はそんなことを言った。
そして彼女はこう続けた。
「もっと人と話しなさい。そして学びなさい。それは物事の違う見方に気づかせてくれる」
「余計なお世話だ」
会ったばかりの見ず知らずの女に説教されて俺は頭に血が昇っていた。
「いい場所だな」
話を変えるように彼女は言う。
海に近いここ高校旧校舎の屋上からは空と街が一望できる。俺はこの景色が好きだ。
「ここにはいつもいるのか?」
彼女はタバコの火を消しながら尋ねる。
「ああ。放課後と昼休み、それと授業をさぼるときにな。ここには人が滅多に来ないから」
彼女は少し微笑んだ。
「そうか。なら私もここを喫煙所として使わせてもらおう」
ふと彼女を見ると長い黒髪が風になびいていた。
「てか、校内は全部禁煙だろ」
目線を空に戻す。
「だから助かる。それにお互い、話し相手ができるしな」
彼女は結局、俺の方を一度も見ることをせず振り返り屋上を後にしようとする。
「それじゃあな不良くん」
「不良くんじゃない、湯布院あゆみだ。あんたは?」
彼女はそこで初めて俺の顔を見た。
「そうか自己紹介がまだだったな。私は大海原あや。担当は三年の日本史」
彼女は少し驚いたような顔をしてから、俺の顔をまじまじと見つめた。
「湯布院。おまえまさか……」
すると彼女は嬉しそうに少し口元を緩ませた。
「何だよ」
「いや、何でもない。気にしないでくれ」「それじゃあな、また会おう」
そう言うと彼女は扉を開き、右手の人差し指と中指を立てて別れの挨拶をするとその場を去っていった。
これが俺、湯布院あゆみと彼女、大海原あやの初邂逅だ。この出会いがすべての始まりだ。この瞬間から俺の運命の歯車は大きく動き出すことになる。まだこの時の俺は知る由もない。