61.求めていたもの
死を覚悟して、目を閉じた。
それなのに、衝撃はなかなか襲ってこない。
──ザシュッ!
至近距離で音がする。
体に激しく砂がかかり、小さく痛みが走った。……でも、それだけだ。
「…………?」
恐る恐る目を開ける。
私の真横に、黒い鞭が突き刺さっていた。黒花は地面から鞭を引き抜くと、再び攻撃してくるでもなく、ただ蠢いている。
いつの間にか、足首に絡まった蔦も外れていた。
ぽかんと呆けたように、黒花を見上げる。
問答無用で人を食べると聞いていた黒い化け物は、今はただゆらゆらと揺れている。そう、まるで──
(……戸惑ってる、みたい?)
混乱していると、揺れていた黒花が突然ピンと緊張した。鞭を振り上げる。
「……っ!」
両手で顔をかばうが、今度の標的は私ではなかった。
はっと気付いて叫ぶ。
「──ディーンっ!」
馬を駆って近づいてきた男はあっさりと鞭をかわし、駆けてきた勢いそのままに黒花の胴を薙いだ。
激しく斬り飛ばされた茎が、音を立てて地面に落ちる。
以前街道で見た時と同じように、瞬きする間に茶色く朽ち果ててしまった。
まるで落馬するように、男が馬から転がり降りる。
手に握り締めていた白刃を地面に取り落とした。蒼白な顔で、肩で息をして私を見つめる。
私は地面にへたり込んだまま、男に向かって手を伸ばした。
「……ユキっ!」
視界が塞がる。
息ができないくらい、強く強く抱き締められた。
「……ディー……。……ふぇっ……うっ、く」
ぼろぼろと、みっともないくらい涙があふれる。
私もディーンにしがみつきたいのに、体が震えてうまくつかめない。せめて、男の胸に顔を深く埋めた。
そうして、やっと気付く。
(……震えてるの、ディーンの方だ……)
ガクガクと激しく震えている。
心臓の鼓動だって、早鐘を打つようだ。
「……大丈夫、だよ……っ。きて、くれたからっ……」
申し訳なさに胸が潰れて、なんとかかすれる声を絞り出した。
ディーンがそっと腕を緩める。大きな手を私の頬に当てて、泣き出しそうな顔で私を覗き込んだ。ディーンのこんな顔は初めて見る。
「……ディー……」
「ユッキー!! 無事なのっ!?」
懐かしい声に、驚いて男の背後を見やった。
「──マイカちゃんっ!」
険しい顔をしたマイカちゃんが、数人の男たちを従えて馬で駆けてくる。側まで来ると、すばやく馬から降りた。
「ひとりで逃げ出してきたの? もうっ、ちゃんと助けを待ってなきゃ駄目じゃない!」
真っ赤になって地団駄を踏むマイカちゃんを見て、思わず顔が緩んでしまった。
助けに来てくれて、こんなに心配してくれて。
じんわりと胸の奥が温かくなる。
その時だった。
ディーンの体が、不意にぐらりと傾いた。
「──ディーン!?」
慌てて支えようとするが受け止めきれず、私まで後ろに倒れ込みそうになる。地面に衝突する前に、マイカちゃんの連れの男の人が私の背中を支えてくれた。
ほっとして彼にお礼を言いながら、ディーンの顔を覗き込む。
酷い顔色で、閉じた瞼すらぴくりとも動かない。
「どうしたの? ねえ、大丈夫!?」
怖くなって必死に揺さぶるが、全く反応がない。
マイカちゃんが私の肩を叩き、悲痛な顔で首を振った。
「……かなり、無茶をしていたからね。でも、この男も満足だったと思うわ。……最後に、あんたに会えたんだもの」
「──そんな!?」
嘘。
怪我でもしていたの?
私を……助けるために?
混乱しながら、意識のないディーンの体を抱き締めた。
「ディーン! やだぁ……死なないでっ……!」
ぐー。
ごー。
「…………」
盛大ないびきが聞こえて、目が点になる。
無言でマイカちゃんを見つめると、マイカちゃんはてへっと舌を出した。
「かなり無茶して、最近は不眠不休だったから限界だったんじゃないー? 寝落ちする前に、あんたに会えてよかったわねぇ」
「マーイーカーちゃーん!?」
わざと紛らわしい言い方したな!?
「マイカ……。お前なぁ、さすがに今のはタチが悪すぎるだろ」
私の背後から、あきれたような声が聞こえる。
そっと振り向くと、男の人が苦笑しながら私に会釈した。
「マイカがごめんな。オレのことは覚えてるか? スーロウでは挨拶できなかったけど、マイカの同僚でルークっていうんだ。よろしく、ユキコちゃん?」
驚きながら私も頭を下げる。
囚われのダンさんとリースさんを施療院に連れ帰ってくれた、推定カラスさんだった。まさかこんなところで、また会うことになるなんて。
「こら、マイカ。お前もちゃんと謝れよ」
ルークさんの言葉に、マイカちゃんはぷっと頬を膨らませた。
「悪かったわよ。でも、あたしがこんなに怒ってるのに、ユッキーってば嬉しそうに笑うんだもん」
「う……。それは私もスミマセンでした……」
神妙に頭を下げる。
しばし無言で見つめ合って、ふたり同時に笑い出した。
「……ディーンと一緒に、行動してたんだね?」
笑いすぎてにじんだ涙を拭って問いかけると、マイカちゃんは苦笑した。
「そうよ。お陰で大変だったんだから」
「……大変?」
意味がわからず、首を傾げる。
ルークさんがそっと背後から離れて、ディーンを私の膝へと引きずり下ろした。体勢が楽になり、膝の上に載ったディーンの髪を撫でてみる。……おお、なんだか新鮮。
「お。ちっと眉間のしわがマシになったな。ユキコちゃん、コイツのこと癒やしてやってくれよ。四六時中、飢えた狼が側をうろついてるみたいで、オレらも気が気じゃなかったんだ」
「あたしには、冬眠前の熊に見えたけど。血眼になって食料を探してる」
「…………」
マイカちゃんの説を採用するなら、冬眠前の熊から冬眠中の熊へとジョブチェンジしたらしい。
ディーンの額を指でぐりぐり押していると、マイカちゃんが私の側にかがみ込んだ。
「ユッキー、嫌だろうけど一度屋敷に戻るわよ。ここからなら屋敷の方が近いし、もうじき日も暮れるから」
その言葉に空を見上げ、戸惑いながらも頷く。
「……ん、大丈夫。ディーンも、マイカちゃんたちもいるし。……それに、別れの挨拶をしたい人たちがいるから」
ノア君とエイダさん、それからセバスチャンにも会わないと。
決意したものの困り果てて、膝の上のディーンを見下ろした。
「えっと……。でも、これどうしよう?」
「冬眠中なんだから転がしとけば?」
「凍死しちゃうでしょーが!」
ぎゃいぎゃい騒いでいると、屋敷の方から地響きがした。すごい速さで馬車がこちらに向かってくる。
急停止した馬車から、転がるようにナルシスト男が降りてきた。
息を呑んで怯える私をかばうように、ルークさんが男と私の間に立ち塞がる。
「……ちょうどいいわ。あの馬車で屋敷に向かいましょう。あたしも一緒に乗り込むから、ユッキーも少しの間だけ我慢して」
周りの軍人さん達に目配せすると、心得たようにディーンを馬車の中へと押し込んでいく。……ってそんな荷物みたいに。
「じゃ、あたしたちも行くわよ」
あきれている私を、マイカちゃんがうながした。
頷きかけたところで、ある事を思い出す。慌てて黒花の残骸の元へと走った。
「ごめん、ちょっと待って! 黒花の種を回収しないと」
ディーンの大事な収入源である。
茶色く朽ちた葉を漁ると、意外とあっさり見つかった。真っ黒な、ビー玉みたいに綺麗な球形──
……なんか、同じ形のものをつい最近見たような。
「ああ、それが種よ。触っても害があるわけじゃないから大丈夫」
マイカちゃんから言われて、首を傾げつつも種を手に取った。その形も大きさも、やはりあれに似ている。
「ねえ、マイカちゃん。これって──」
言いかけて、固まった。
種をつまんでいる指のあたりから、じわじわと種の色が変わってきたから。黒から……乳白色へ。
マイカちゃんとふたり、茫然と種を見つめる。
種は、今や完全に。
──乳白色へと変わってしまった。




