58.限界
男は切れた虹糸を手に取ると、背後にある窓を乱暴に開けた。
「──待って!!」
その意図に気付き、慌てて止めに入るが遅かった。
男が窓の外に手を出した瞬間、虹糸は風にあおられ飛んで行ってしまった。
「あきらめたまえ。もっと他のものを、わたしが──」
最後まで聞かず、書斎を飛び出した。
後ろから怒鳴る声が聞こえたけれど、振り返らず一階まで駆け下りる。脇目も振らず、正面玄関の内鍵を開けて外に出た。
「……っ!」
嵐のような大雨だった。風も強く、一瞬でずぶ濡れになる。
二階の書斎の位置を確認し、一目散に駆け出した。ドロドロの地面に這いつくばって、必死で虹糸を探す。
「──何を、しているっ!」
後ろから腕を取られ、無理矢理立たされた。そのまま屋敷まで引きずられそうになるのを、力の限り暴れて抵抗する。
「触らないで! あれはっ、大事なものだったのに……!」
「一緒に旅をしていた相手から贈られたものだからか!? そんな者のことなど、もう忘れたまえ!!」
怒鳴りつけられ、反射的に男の頬を張った。
怒りと寒さに震えるばかりで、全然手に力が入らない。そのまま男の力に押し負けて、屋敷に連れ戻されてしまった。
「旦那様、ユキコ様っ!」
真っ青になった使用人たちが駆け寄ってくる。
男は私をメイドさんの方に押しやった。
「冷えきっているから、すぐに入浴場へ連れていけ。決して目を離さないように」
男の剣幕に怯えながらも、メイドさんが私の手を取り誘導しようとする。
でも、もう駄目だった。
寒くて、熱くて、地面がぐらぐら揺れていて……。
……立って、いられない……。
「──ユキコ!!」
意識を失う瞬間、男の悲鳴のような声が聞こえた。
(どうして……あなたが、そんな声を出すの……)
泣きたいのは、こっちの方なのに。
◇
ぐらぐら。
ぐらぐら。
目を開けると、天井が回っていた。
頭がガンガンする。
悲しくて悲しくて、勝手に涙があふれてきた。
(なんだっけ……。何が、悲しいんだっけ……)
ぼんやり考えていると、強く手を握られた。
重い頭を動かして目をやると、涙目のエイダさんが私を覗き込んでいる。
「ユキコさん……っ! ごめんなさい、わたくしのせいですわ……!」
いつも前向きな彼女らしくなく、ぼろぼろと泣き出した。
元気付けたいと思うのに、喉がひりついて声が出せない。せめて、彼女の手をぎゅっと握り返した。
エイダさんがはっとしたように私を見る。
「……わたくしが、泣いている場合ではありませんわね。ユキコさん。大丈夫、大丈夫ですから。きっと、すべてうまくいきますわ。──とにかく今は、ゆっくり休んで……」
涙を流しながらも、健気に微笑む。
その笑顔に安堵して目を閉じた。意識が遠のいていく。深い海の底へ、沈んでいくみたいだ。
──で……心労が……
──ここから……解放……ため……
わんわんと響く声に、嫌々ながら再び目を開けた。差し込む光が目に眩しくて、生理的な涙が浮かぶ。
「……ユキコさんっ! お加減はいかがですか?」
エイダさんが飛びつくように側に来てくれる。
さっきまであんなに泣いていたのに、今はとても嬉しそうだ。
「うっうっ……ユキコ様ああぁっ!」
……今度はセバスチャンが号泣していた。
さっきの今で、状況変わりすぎ。
てか、セバスチャンいたっけ?
きょとんとしていると、エイダさんが水差しを持ってきてくれた。
「起きられますか? さあ、お水をどうぞ」
エイダさんに手を貸してもらって体を起こし、なんとか水を口に入れた。
ただの水のはずなのに、不思議と甘く感じる。ひどく喉が渇いていたことに気付いて、ごくごくと飲み干した。
「……よかった。だいぶ熱が下がりましたわね」
ひんやりした手を額に当てられて、心地良さに目を閉じる。
うおおぅ、というセバスチャンのどでかい泣き声が聞こえてきた。ぎょっとして目を開ける。
「やかましいですわよ、セバスチャン。何を他人事みたいに。あなただって立派な誘拐犯一味のくせに」
刺々しい視線でセバスチャンを見やる。
その剣幕に固まっていると、エイダさんは深々とため息をついた。
「ユキコさん。あなたはもう、一週間も高熱でうなされていましたのよ。お医者様は、風邪ではなく心労による発熱だろうと……」
「……し、ん……ろ……」
うわ、喉がガラガラで全然声が出ない。
けほけほと咳をすると、セバスチャンがダッシュでカップを差し出した。
「どうぞ、ユキコ様っ! はちみつ湯でございます!」
エイダさんが無言でセバスチャンからカップを奪い取る。
にっこりと笑って私にカップを握らせてくれた。
「どうぞ、ユキコさん。はちみつ湯ですわ」
「…………」
もはや突っ込むまい。
こくりと人肌温度のはちみつ湯を飲む。
甘くて、じんわりと喉にしみわたるようだった。ほっと息をつく。
「おいしい、です……。迷惑、かけて……ごめんなさい……」
今度はなんとか声が出た。
エイダさんが瞳を潤ませる。
「あなたが謝ることではありませんわ。……今までギリギリで保たれていた均衡が、今回のことで崩れてしまったんでしょう」
今回のこと……。
やっと状況を思い出して、何もなくなった左手首に目を落とす。ぼろっと涙がこぼれた。エイダさんが痛ましげに私を見る。
「……伯爵様のことなど、聞きたくはないでしょうけれど。あの方もひどく取り乱しておいででしたわ。外せない仕事がおありだそうで、今は本邸へ戻られています」
「いい、です。あんな奴……二度と、顔も見たくないっ……」
胸が苦しくなり、膝を抱え込んで目を閉じた。
閉じた目の奥がチカチカする。
「──セバスチャン。すぐに食事を運んできなさい」
「はいぃっ! ただ今っ!!」
慌てたような足音と、扉を開け閉めする音が聞こえた。
エイダさんがベッドに座る気配がする。なだめるように背中を撫でられ、そっと目を開け彼女を見つめた。
「……本当に、ごめんなさい。正規の連絡手段を待つべきでしたわ……」
ささやくように謝罪する。
「ですが、ちゃんと託せましたから。折り返し連絡があるまで……あともう少しだけ、頑張りましょう?」
「…………」
返す言葉が見つからず、気まずく視線を逸らした。
ここから逃げられたとして……その後、どうすればいい?
ディーンとは、きっともう二度と会えない。
唯一の繋がりは絶たれてしまったのだ。
暗い考えに囚われた私を、エイダさんはぽんぽんと優しく叩く。
「まずは食事にしましょうね? 元気が出ないのは、食べていないせいですわ」
「……はい……」
食欲なんてちっとも無かった。それでも断るのはエイダさんに申し訳なくて、仕方なく頷いた。
◇
それから、体調は完全には戻らないまま。
寝たり起きたりを繰り返し、毎日ただぼんやりと過ごした。
昼と夜の感覚がなくなったある日、夜中にふと目が覚める。ベッドの中に、小さな黒い頭が見えた。
「……ノア、君?」
毛布を持ち上げると、ノア君がびくりと起き上がる。
「ユキコ……。セバスチャンにおねがいして、入れてもらったの。かってに、ごめんへえぇ……」
あくびをしながら謝られ、思わず小さく笑ってしまった。
久しぶりに笑ったな、と気付いた瞬間、弱った涙腺からまた涙が出てくる。ノア君が驚いたように私を見た。
「かなしいことが、あったの?」
ノア君までべそをかきながら、私の顔を覗き込む。
「……宝物、が……失くなっちゃったの」
こんな子どもに言うべきじゃないのに、思わず言葉がぽろりと落ちてしまった。
ノア君は悲しそうに黙り込んで……それからパッと顔を輝かせた。
「それなら、ぼくの宝物をユキコにあげる! 誰にもゼッタイひみつの、すっごい宝物なんだよ?……ついてきて!」




