50.たったひとつ
倒れ込んだナルシスト男と、介抱するセバスチャン。
腕を組んで二人を眺めていると、後ろから肩をつかまれた。
「……伯爵様。わたくしたちは、これで失礼させて頂きますわね」
清楚美人さんが硬い声で言う。
そのまま腕を引っ張られ、問答無用で応接間から連れ出された。
(……伯爵様っ!?)
お金持ちだとは思っていたが、まさかの貴族だったとは。
混乱している私をよそに、清楚美人さんはぐいぐいと廊下を突き進む。二階まで上がって突き当りの角部屋を開けると、私を中に引っ張りこんだ。
「…………」
怒りのためだろうか、清楚美人さんは肩で息をしている。くるりと振り返ると、私を正面から睨みつけてきた。口元がピクピクと引きつり──
突然、ブフォッと噴き出した。
「……おごり、高ぶりっ……! ……勘違い男っ……! あ、あり得ませんわ……っ」
お腹を押さえてひぃひぃ笑っている。
私の目は点になった。
「しかも平手打ちじゃなくて、こぶしで、こぶしでっ……! ああ、もう最っ高……! あなた、なんて面白い方ですのっ……」
涙を浮かべながら、私を称賛の眼差しで見やる。
曖昧に笑う私を見て、彼女はやっと笑いやんだ。にじんだ涙を拭い、まだ笑いを残した口調で話し出す。
「……あの方のことを、伯爵様とお呼びしてはいますけれど。本当にその身分なのかは、わたくしも存じ上げませんわ。高位の貴族なのは間違いありませんけれど」
「……あの、あなたは……?」
マイカちゃんのロケットペンダントの意味を知っていたこと。
それを知りながら、私に返してくれたこと。
どう考えるべきかわからないまま、探るように彼女を見つめる。
彼女はただ艶然と微笑んだ。
「わたくしは、しがない男爵家の娘ですわ。学院を卒業した後に一度嫁ぎましたが──子ができなかったので、離縁されましたの。実家で肩身の狭い思いをしていたところ、お声掛け頂いてこちらに勤めることになりましたのよ」
結構暗い話に聞こえるが、彼女はむしろ嬉しげに続けた。
「このお屋敷に軟禁状態ですけれど、給金が破格ですからわたくしにはむしろ有り難い話でしたの。……あなたにとっては、きっと違うのでしょうね?」
彼女の言葉に緊張する。
ごくりと唾を飲み込んだ。
「私は、攫われて連れてこられたから……。ここから、逃げたいんです。私、帰らないと。……だって、絶対心配してる!」
宿屋に私がいなくて、どんなに驚いたろう。
そもそもディーンが無事に宿屋に戻ったのかすら、私は知らないのだ。
不安で胸が苦しくなり、固くこぶしを握り締めた。
ナルシスト男を殴った右手がズキズキと痛む。
「……あなたがここから出たいのならば。機は、必ず訪れますわ」
彼女は私の手を取り、そっとこぶしを開いてくれた。
驚いて顔を上げる私に、ふわりと優しく微笑みかける。
「差し当たっては、伯爵様の望まれる通りに振る舞うことです。油断させるため、演じて、騙すのです。──女ならば、誰にでもできることですわ」
いたずらっぽく笑う。
その言い草にぽかんとして、思わず小さく噴き出した。
「わたくしのことは、どうぞエイダと名前で呼んでくださいませ。あなたは──……」
「あ、私はユキコっていいます。よろしくお願いします」
慌てて頭を下げる。
エイダさんを、信用していいのかはわからない。ためらったが、顔を上げてきっぱりと思いを伝えた。
「私は、必ずここから出ます。帰りたい場所があるから。私がいたい場所は、彼の側だけだから……!」
安否もわからないまま、離れているなんて耐えられない。
一刻も早くディーンのところに帰りたい。
それだけが、私のたったひとつの願いだった。
◇
部屋に戻り、ごろりと豪華なベッドに横になる。
……ああ、苦しい。
今すぐこの拷問のような服を脱ぎ捨てたい。
苛々していると、控えめなノックと共に扉が開いた。
「……ユキコ? お話してもいーい?」
半開きにした扉から、ぬいぐるみを抱き締めた天使が私を見ている。可愛いなオイ。
「……いいよ。どうぞ、入って?」
私の言葉に、ノア君はパッと顔を輝かせる。
てててと走り寄ってきて、嬉しそうにベッドに腰かけた。
「えへへ。ユキコが来てくれて、うれしい。だってぼくたち、おんなじなんだもん」
「そう、だね……」
幸せそうに笑うノア君に、私も戸惑いつつ微笑んだ。
そういえば、この子の母親はどこにいるのだろう。ナルシスト男の発言から考えて、離婚とか死別とか、そのあたりだろうか。
「ね、ノア君はいくつなの?」
お母さんについては聞き辛いので、代わりに当たり障りのないことを聞いてみる。
「こないだ、七歳になったの! それからこの子はねぇ、メルっていうんだよ」
ふかふかのクマのぬいぐるみを掲げて言う。
私も微笑んで、クマの頭を撫でた。
「そうなんだ。私も、ムンクさんっていう人形を持ってたんだけど……。メルみたいに可愛くはなかったかな」
まぁ、正確にはムンクさんはディーンのものなんだけど。
なんだかんだで完全に私物化してた。
「へぇ。ムンクさんは、どんな人形さんなの?」
「目と口をかぱーって開けた、叫んでるみたいな変な人形だよ」
ノア君はぽかんとして、それからケタケタと笑い出した。
笑いながらベッドに寝転がる。
「ユキコ、ぼく今日ここでねたい! メルと三人でねようよ! ……父様が来てるみたいなんだけど、具合がわるいから一緒にねたらダメなんだって……」
しゅんとした。
ぐっ……!
それって、もしかしなくても私がぶん殴ったせいだよね?
ナルシスト男は自業自得だが、ノア君には悪いことをしてしまった。
「う、うん……。お家の人が、いいって言ったらね」
「ホントに!? うれしい!」
ぱっと起き上がって抱きついてくる。
可愛い。だがしかし、良心が痛む……。
葛藤していると、また扉がノックされた。セバスチャンとメイドさんが入ってくる。
「ノア様、こちらでしたか。もうじき夕食ですから、一度部屋にお戻りくださいね」
「はぁい」
名残惜しそうに出て行くノア君をメイドさんに託すと、セバスチャンが硬い顔で近付いてきた。私はあえて冷たい表情で見返す。
──スライディング土下座のような勢いで、セバスチャンは私の足元にひざまずいた。
「ユキコ様! 旦那様に意見してくださり、本当にありがとうございました!!」
……は?
「誘拐などとんでもない事ですと、何度も何度もお止めしたのです。ですが旦那様は……他人の、ましてや使用人の意見など、歯牙にもかけられない方なのです」
ですが、これからはユキコ様がいらっしゃいます!
感極まったように涙を浮かべながら、熱く語る。
「どうぞ、末永く旦那様をお願いいたします……!」
「…………」
待て待て。
主従そろって頭沸いてるのかな?
「嫌です。あんなナルシスト男、断固拒否します」
吐き捨てるように言い放つと、セバスチャンはきょとんとした。
「……なるしすと?」
「自分大好きでうぬぼれてる、キモチワルイ人種のことです」
簡潔に説明してあげると、セバスチャンは黙り込む。ややあって深く頷いた。どうやら納得したようだ。
……さてはあの男、人望無いな?




