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32.カラス

 刹那。

 土砂降りの雨が降り出した。


「……っ……!」


 雨に打たれたことで、緊張の糸が切れた。身体が、動く──!

 左足に重心をかけて身体をひねり、背後の相手に渾身の力で松葉杖を叩きつけた。


「なっ!?」


 驚きの声を上げながらも、相手は私の攻撃をふわりといなす。松葉杖はしたたかに地面を打った。

 勢いで転び、べちゃべちゃの地面に倒れ込んでしまう。それでも必死に顔を上げた。

 ここで頑張らなければ、二度とディーンに会えないかもしれない。そんな恐怖が私を襲ったのだ。


 激しい雨に、視界が霞みながらも相手を見上げる。ふっと苦笑する気配がした。


「……これだから、追い詰められた鼠は油断できない」


 思考が麻痺した。


 ──茫然と、彼女の名を呼ぶ。


「マイカ、ちゃん……?」



 ◇



 ふたりともずぶ濡れになり、施療院の中に戻る。


「来なさい。このままじゃ風邪を引いてしまうわ」


 作業部屋に向かうマイカちゃんに、迷いながらも従った。

 部屋に入ると、すぐさまタオルを投げつけられる。身体は泥で汚れているので、顔だけ拭った。


 マイカちゃんはさっさと濡れた服を着替えている。


「あたしの服を貸してあげる。サイズは大丈夫でしょ?」


 服も投げられたが、無言でかぶりを振った。髪を見られるわけにはいかない。


「──そう。なら、好きになさい」


 冷たく言って、私を睨みつける。


「鍵はどこにあったの? 元の場所に戻してくるから、出しなさい」


 寒さにガタガタと震えながら、鍵を差し出した。


「……調剤室の、ダンさんの上着の中……」


 鍵を受け取ると、マイカちゃんはさっと作業部屋を出ていった。すぐに戻ってくる。


「それで? あんたは、あそこで何をしていたの」


「……マイカちゃんは、何者なの……?」


 質問に質問で返すと、彼女は冷笑した。


「くだらない問答に時間を割く気はない。──弁解しないのなら、ニフェル密売犯の一味と見なすけど、どう?」


 驚いて顔を上げた。

 ニフェルのことを、知っている──?


「一味なんかじゃ……っ。マイカちゃんこそ、ルカさんの畑からニフェルを盗んだ奴らの仲間じゃないの!?」


 問うと、彼女は虚を衝かれたように黙り込んだ。

 ややあって、おかしくて堪らないというように笑い出す。


「あたしが、あいつらの仲間? 笑わせないで。あたしはニフェル密売の捜査のために、この施療院に潜入しているの」


 捜査、ってことは……。


「軍人……!?」


「わかったなら、その泥だらけの服を着替えなさい。そんなに見られたくないのなら外に出てるわ。……その服にはフードも付いてるしね」


 言い捨てると、さっさと部屋を出ていく。


 私は大急ぎで服を脱ぎ、濡れた身体を拭って服を着た。フードを被り、扉の向こうに声をかける。

 マイカちゃんはすぐに入ってきた。向かい合って椅子に腰掛ける。


「……さて。それじゃ話を戻すけど」


 濡れた三つ編みを解いて大きな眼鏡を外すと、彼女はまるで別人のようだった。私は緊張して背筋を伸ばす。


「まずは、そちらから話しなさい。『ルカ』というのはリース薬店の薬師よね? 彼に頼まれて、施療院を探ったの?」


「えっと……」


 言葉を選びながら、話せる部分だけをかいつまんで説明していく。

 ダンさんを疑っていることは言えなかった。ルカさんの大切な友人なのだ。


 マイカちゃんは、じっと考え込んでいる。


「……大体わかったわ。それじゃ、今度はこちらの番」


 足を組み、鋭い目で私を見た。


「発端は、このウィンザー領の北隣──フォスター領から王都に通報があったこと。領内でニフェルが密売されている……スーロウから流れてきている可能性が高い、ってね」


 驚きに目を見開く。

 ニフェルをスーロウの外で売っていたのか。


「知っているだろうけど、軍というのは国に属する機関よ。軍の支部は各地に置かれているけど、軍の(あるじ)は国王陛下であって、その土地の領主じゃない」


 いきなり何の説明が始まったのかわからない。ただ首を傾げた。

 マイカちゃんはそんな私に全く構わず、淡々と続ける。


「それでも、王都から遠く離れている以上──領主とその地の軍支部との間に癒着が起こるのは、ある程度避けられないことなの。一年前にリース薬店のルカが、畑の異常を軍に相談したと言ったわね?」


「うん……。でも、特に動く様子はなかったって」


 答えながら、はっとした。

 マイカちゃんは大きくうなずく。


「ニフェルの話だって、ウィンザー領からは一切出ていない。つまりはそういうことよ」


 あまりのことに絶句する。

 つまり……ウィンザー伯爵が、よその土地で麻薬の密売を──?


「王都の軍本部には、貴族の不正に関わる事件を専門で扱う部署があるの。通称『カラス』。今回の件では、あたしを含めて数人が潜入捜査してる。もちろん施療院以外にもね」


「……そんなこと、私に話していいの……?」


 戸惑いながら尋ねると、彼女は薄く笑った。


「話したのは、あんた達に大人しくしていてもらうため。せっかく捜査は大詰めなのに、最後の最後でど素人に邪魔されたら困るのよ。わかったなら、この件からはもう手を引きなさい」


「待って。ニフェルの密売に、施療院も関わってるの?」


 せめてダンさんだけでも無関係だと言ってほしい。……ルカさんのためにも。


「そこまで話す必要はない。……でも、あんたたちだって施療院が怪しいと睨んだんでしょう? 施療院のダンと、リース薬店のルカは友達同士だったっけ」


 歌うように言うマイカちゃんを睨みつけた。


「ダンさんは、犯罪に関わるような人じゃ……!」


「昨日今日会ったばかりで、わかったような口をきくのね。ああ、もしかして犯罪者なら見ればわかるとでも思ってる? 随分おめでたい頭なのねぇ」


 馬鹿にした言い草にカチンとくるが、返す言葉が見つからない。……というか、口で勝てる気がしない。

 むむむと目で文句を言うと、マイカちゃんはぷっと噴き出した。


「安心なさい。少なくとも、証拠不十分で逮捕するようなことは絶対にしないから。こっちだって冤罪は避けたいし。あの男……ダンが裏表のない一直線バカだってことは、この半年でよくわかってるしね」


 その言葉に、ほっと力を抜いた。

 にしても一直線バカて。


「いい男だとは思うわよ? あたしの好みでは全然ないけど」


 ダンさんだって、今のマイカちゃんは全然好みじゃないと思うけど。

 あの可愛かったマイカちゃんは、もはや夢か幻か……。


「……あんた、今ものすごく失礼なこと考えたでしょ?」


「いひゃい、いひゃい!」


 めっちゃほっぺたつねられた。

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