B.G.01(ありがたくて涙が出る)
GORILLANIAN_before_26+02++
「レイスさんのお宅、申請したんですって」
お母さんがため息交じりに話した。それは安堵か落胆か。あたしにはよく分からない。
ブロックの向う側のお宅のことを、うちが心配することでないと思う。レイスのおばさんを知らないわけでもないけれども、知ってるってほどでもない。
毎日、通知と申請の〈数字〉が流れる。地上に残るか、火星へ行くか。いつかは決めなきゃいけないっぽい。
朝、シリアルにミルクをかけながら、あたしは雑音混じりのラジオで聞く。お父さんは反対している。
「受け入れられない」
顔を赤くして云う。広くなったおでこまで茹でて云う。「おれは認めん」
「余所さまのお宅に嘴を容れられませんよ」
「おれのうちでは許さん」
「ほら、切ったわよ」食べなさい、って、お母さんがグレープフルーツの乗ったお皿を渡してくれた。
「リックは、いつまで寝てるのかしら」寝ぼすけお兄ちゃん。
学校は、もうずっと行っていない。トートの散歩も、家の周りをぐるっとするだけ。かわいそうなトート。モップみたいなもさもさの、茶色い毛をしたかわいい犬。
ブオー、ブオーって、朝と夕方の一日二回、低い音が聞こえてくる。ブオー、ブオー。
「導きだ」指導者が説く。礼拝所から集団が消え、処置施設に現れた。面会はできない。
「試練だ」指導者は沈痛な面持ちで全世界に中継。信仰を押し付けないでいただきたい。
アポカリプティック・サウンドって云うんだぜ。お兄ちゃんが教えてくれた。終末の音さ。
ラグナロク。神々の黄昏、ギャラルホルン。ブオー。ブオー。
お兄ちゃんの彼女が吹いている、軽薄女の角笛。
お兄ちゃんの彼女、ベリンダは、卒業した高校のブラスバンドでサックスを吹いていた。銀色のソプラノ。それを得意にしていて、「教えてあげる」
吹き口を向けられて嫌な顔をしたのがお兄ちゃんにバレた。
あたしは、前髪でおでこのニキビを隠しているお兄ちゃんの彼女が好きじゃない。
だから、通知を受け取ったって聞いて愕然としていたお兄ちゃんと違って、あたしは内心、喜んだ。
あのおでこニキビにも、いいことはあるんだ。
サックスと一緒に施設に行って、サックスを握ったまま処置を受け、回復室でもサックスを手放したりしないと思う。
お兄ちゃんよりもサックスを選んだ女。おめでとう、正しい判断よ。
噂では、ベリンダの一家は帰化しておらず、だから背番号を持っておらず、なので社会保障の台帳に載っておらず、それで優先されたらしい。
漏れがないよう、番号のないひとを優先するってのは、いかにも福祉社会っぽく、良い印象を作っているように思えるけれども、黙っていれば知られずに済んだことを彼らが吹聴したことになったと思う。行き過ぎたやさしさは、ただのお節介。
他にも学校の成績だとか、家のこととか、通帳残高だとかの諸々を数値化し、足したり引いたり掛けたり割ったりして、抽選箱に放り込まれる。らしい。
その計算方法は複雑怪奇で、数学の偉い先生も頭を抱えるレベル。らしい。
どんな仕組みか分からないようにしている、これまた配慮というお節介で、だから余計に不安を煽る。
らしい・らしい・かもしれない・噂。
だからあたしはぞっとしない。
道路にバリケードが置かれた。関所だ、ってお父さんは断言した。
「関所とは!」なんのつもりだって、唾を飛ばす。「関所に立っているのは人間だ。何を守るのか、何を撃退すると云うのか!」
トートを連れて、お散歩ついでに見物に行こうしたら、「やめて!」お母さんに止められた。
「警官や軍人、警備員である前に、ひとりの人間ではないのか!?」
お父さんは勘違いしている。
工場で作られた人間なんだぜ。お兄ちゃんが教えてくれた。人間そっくりの機械人間さ。
「その仕事、どこから金が出ている、誰が払っている!」
お父さんは勘違いしている。お金はすっかり用済みだ。
希望の品は毎日、無人のトラックで配達される。
欲しいものリストを送るだけで必ず届く。欠品はない。
お届け日数も分かる。受け取りサインもいらない。
お母さんの書いた食料品(いい母親はお菓子入れから〈ビスコ〉を切らさない)とストッキング、トートのドッグフードの下に、あたしは色鉛筆とスケッチブックを追加した。
あたしはときどき絵を描く。絵日記を描く。
色はいつも赤と黄色が足りない。
黒と青は余っている。
「人民の皆さまにお知らせします。健康と幸福に努めましょう」
今日も元気にスピーカー。お昼過ぎ、無人車がパトロール。
標語を唱え、街をゆっくり巡回する。
「あいつら、下水を見張ってるんだぜ」お兄ちゃんが教えてくれた。「どの家が何を食って、何を出したか分かってる」
知りたくなかった。
「病気もすぐに分かる」お兄ちゃんはうんざりしながら、「ありがたくて涙が出るな」
「庭に穴、掘る?」
あたしの提案に、「なんだって?」お兄ちゃんはぎょろりと目を向けた。
「そこですれば分からない思うんだけど」
お兄ちゃんは深いため息。「庭でするのか」
もう一度ため息。「肥料にするか」
「え」嫌だ。
食べて出してそれで育てるのは嫌だ。
どこかでそういうことをしているのは見えないからいいのであって、自分でするのは何か違う。
あたしは提案を引っ込める。