9.
本庄君の行きつけのジムへと案内してもらうことにした。最寄りの駅でおり、徒歩で数分、目的地に至った。ロビーで待ち合わせという予定なのだ。少ししてから伊織さんがやってきた。
伊織さんと本庄君、それに俺っちは小さなボストンバッグを肩にさげている。着替えが入っているというわけだ。伊織さんのバッグがピンク色であることに少々驚いた。きちんと女のコだったりもするらしい。否、そういう見方は古臭いのだろうか。
ドキドキしながらエレベーターで上階へ。どうしてドキドキするかというと、自分がそんなふうにできているからとしか言いようがない。初めての場所、初めての状況は基本的に苦手なのだ。このへん、気が弱いなあと思わされ、情けなさすら覚える。だけど、そんなのが俺っちなのであって。
バタフライマシンにバーベル上げ、逆手懸垂。「とりあえず、十回三セットを目安にするのがよさそうっスね」と本庄君は簡単に言い、俺っちはそのノルマを達成すべく滅茶苦茶頑張った。普段、あまり使わない筋肉が働いていることを実感させられた。疲労も感じる。これが乳酸がたまるというヤツなのかあと、ちょっぴり感動。
すべてを三セット、ひぃひぃ言いながら終えたところで、休憩用のプラスティック製の青いベンチに腰掛けた。本庄君がポカリを持ってきてくれた。ずいぶんと水分をと消費した感があるのでありがたい。
「このポカリ、奢りかい?」
「そりゃそうスよ」
「なんだか悪いんだぜ」
「ポカリ一本でなに言ってんスか」
本庄君が俺っちの隣に座った。彼は黒いタンクトップに同色のハーフパンツという恰好なのだけれど、その体の造り、分厚さには改めて目を見張る。大胸筋がデカい。肩がまあるく盛り上がっていて腕もメチャクチャ太い。丸太みたいとはこのことだ。そしてなにより背中の大きさに圧倒される。
「ハジメ先輩」
「なんだい、ベイベ」
「どうして本格的に筋トレ始めようって思い立ったんスか?」
「俺っちには足りないモノは多くある。それを一つずつクリアしたいのさ」
「体が強いのはいいことッス。でも、いくら頑張ったところで、鉄砲が相手だと分が悪いのは明らかッス。肩の力は抜いてくださいッス。最初から頑張りすぎると簡単にやめちまう。それが筋トレってもんスよ」
「だから、くじけないで済むよう、君に尻を叩いてもらいたいのさ」
「やる気、あるんスね」
「それは間違いないと言っておくぜ」
「わかったッス」
「それはそうと、本庄君、実は君、俺っちになにか言いたいことがあるんじゃないのかい?」
「勘がいいスね。じゃあ、失礼を承知で言わせてもらうッスけど、初めて会って初めてしゃべった時、コイツはなんて薄っぺらい奴だろうって思ったんス。なんてキザな野郎だと感じたッス」
「ははは。それは無理もないぜ。実際、俺っちは軽薄でしょうもない男だと思うのさ。くどいようだけど、今はそんな自分から脱却しようとあがいている段階なのさ」
「ハジメ先輩だって、いざとなれば物怖じせずに事をこなす。そういった決意が見て取れたッスよ」
「真剣にやるぜ。だから俺っちのこと、見限らないでほしいんだぜ」
「だから、それは了解だって言ってんスよ。そのうち、スパーリングしましょう」
「そ、それは勘弁願いたいな。俺っちにとって、君は霊長類最強なんだぜ」
「自分で言うのもなんですけど、はなから強いヤツとぶつかったほうがいいッスよ」
「そういうものかい?」
「そういうものッス」
「とはいえ、前向きに検討しとくんだぜ、ベイベ。ところで、伊織さんはどこに行ったんだい?」
「この上、プールなんスよ。フロアの案内表、確認しなかったんスか?」
「していないのさ、ははははは」
「観察力に欠けてるってところも、どうにかしたほうがいいッスよ」
「これから気をつけるのさ、ははははは」
「今頃、狂ったように泳いでるんじゃないスかね。ビキニ着けて」
「おぉっ。ビキニなのかい?」
「んなわけないじゃないスか。黒峰と合流するって言ってたッスね」
黒峰さんちの曜子ちゃん。『治安会』の『実働部隊』において最年少の女性だ。年齢は二十六。元々、IT系の技術、サーバ系、それにネットワーク系の扱いには慣れているという強みがある。黒くて長いポニーテールがトレードマークの実に美しい人物なのだ。
「黒峰は黒峰で頑張ってんスよ。ウチのメインの業務である荒事になんとか食らいついていこうって必死なんス」
「だったら、俺っちだって負けてられないんだぜ、ベイベ」
「その意気っスよ」
その日の夜。高級でも低級でもない、中級くらいの居酒屋のテーブルにて、男性陣と女性陣とが向かい合って席についている。
伊織さんはマグロの刺身を口に放り込むと。目も口元も緩めて見せた。「それにしても、まさかハジメが筋トレ始めるなんてねぇ」と言い、ビールをあおる。本庄君もそうした。
「ぶっちゃけ伊織さんにとって、俺っちはどんなニンゲンなんだい」
「得意なのはスナイピングってだけ。私からするとあまり愉快な奴じゃない。だから自分を鍛えようと努力し始めたことは素直に評価する」
「伊織さんの意見を聞くとためになるぜ。これからも頑張ってやろうって気になるってものさ。ところで、せっかくトレーニングしたあとなんだぜ? もっと健康的なもんを飲んで食べてするべきだって思うんだぜ」
「私や朔夜クラスになると、なにを飲んでもなにを食べても、痩せも太りもしないんだよ」
「初心者の俺っちもいるんだぜ?」
「慣れな」
「き、厳しい言葉なんだぜ、ベイベ」
黒峰ちゃんが「基本的に体の構造が違うと思うんです」と、真剣に聞こえる口調で言った。「お二人の場合、ちょっとトレーニングをしただけでも、いい意味で筋肉が悲鳴を上げるんですよ」と真面目な顔で続けた。
「悲鳴を上げてもいじめ続けるから、人一倍、効率良く成果が得られるってことかい?」
「私はそう考えています」
「早いとこその境地に至りたいもんだぜ」
「そうですよね」
本庄君が、「筋肉筋肉って、もういいじゃないッスか」と割り込んできた。「筋トレやってりゃどうせつくんスから」と、めんどくさそうに言い、煙草に火をつけた。一つ一つの仕草が実にサマになる。この点はどうしようもない。生まれ持っての資質だ。彼のカッコよさを得るのは俺っちには無理な話なのだ。
黒峰ちゃんは茶色い陶器のグラスを両手で包んだ。焼酎のお湯割りを一口すすると、「泉さんは目標です。高い高い目標です」と生真面目に述べた。伊織さんは「私の頭の上を取ってみなよ」と言った。「そう簡単にそれをゆるすつもりはないけれど」と挑発的な笑みを浮かべた。自信に裏付けされた笑顔だろう。
「ホント、黒峰ちゃんはよくやってる。もうレクチャーの必要もないくらい」
「そんな。これからもまだまだ教えてください。尊敬できる先輩が職場にいることは幸せだと考えています」
「俺にも色々とご教授いただきたいんだぜ、本庄君」
「じゃあ、明日もまたやるッスか」
「お、おおぅ、すでに筋肉痛がヒドいんだぜ」
「なら無理にとは言わないッスけど」
「朔夜。アンタはこのあとも筋トレだよ」
「そうなのかい? 伊織さんに本庄君」
「そうだよ。ウチらのは激しいからね。セックスするだけでも、あちこち鍛えられるんだよ」
「そそ、そういうことなのかい?」
俺っちは頬に熱を感じた。黒峰ちゃんだって似たような思いなのだろう。焼酎の入ったグラスを置くと、俯き加減の顔を真っ赤にした。彼女はいつも自らのスタイルを崩さない人物だと考えていた。けど、男と女の話もついては免疫が欠如しているらしい。その点、俺っちと一緒だ。にしても、伊織の姐御はいつもいつも性的なことを言いすぎだ。できれば改善してもらいたい。本庄君とラブラブなのは、十二分にわかっているのだから。
店の前で、伊織さんと本庄君と別れた。彼らが行くと、いわゆるモーゼの十戒がごとく道がひらける。逐一、よけろと威嚇、警告するわけがない。なにも恐れず、なににも怯まず、そしてけしてブレることがない。そんなふうな雰囲気を漂わせ、とても堂々としているから思わず道を譲ってしまうのだろう。自分はまだまだイケてない。だからこそ、己の体をいじめていじめていじめ抜いて、自信が持てるよう頑張ろうと思うのだ。
黒峰ちゃんが「もう一件、行きましょうか。時間、まだ早いですし」などと言い出した。なので思わず「えっ」と驚いた俺っちである。女性と二人きりで飲む? そんな経験はないのだ。しかし、「忍足さんに連絡してみますね」と聞かされると肩の力が抜け、吐息が漏れた。そりゃそうだ。俺っちとサシで飲むようになったとしても、楽しくなる予感なんて微塵もないだろうと素直に認めた。
スマホでの通話を切ったのち、黒峰ちゃんは言った。「来てくださるそうです」と無表情で。縦社会を理解している悠君だから、俺っちがいると聞いて「行かなくちゃ」と思ったのかもしれない。あるいは彼女のお願いに対して実直に応じただけなのかもしれないけれど。
悠君は眠たげに目をこすりながら現れた。こちらに近づいてきたところで、愛用の大きなヘッドホンをはずし、それを首にかけた。
「やっぱり今夜も”ブラッド・メルドー”なのかい?」
「いえ。最近は”ハロルド・メイバーン”にハマっています」
「一曲だけ聴いているのかい?」
「はい。”リカード・ボサノバ”をエンドレスで」
「飽きないのかい?」
「飽きません」
「あ、あう、そうなのかい」
「店、どこにします?」
「俺っちがちょこちょこ行くワインバーがあるんだぜ」
「じゃあ、そこにしましょう」
「しかし、空腹にいきなりアルコールを入れて大丈夫かい?」
「平気です。僕はそういうふうにできているので」
このワインバーの四人席の長椅子は硬い。木が剥き出しになっているからだ。それでも慣れれば苦にならなくなる。ワインは安い物でもボトルで五千円は持っていかれる。白を頼んだ。いきなり赤はダメだ。ポリシーである。
俺っちと悠君は並んで座った。テーブルを挟んだ向こうに黒峰ちゃんがいるという構図である。
黒峰ちゃんが言った。「こういうところは久しぶりです」って。俺っちは「そうなのかい?」と訊ねた。
「職場の方とお酒を飲むのは、正直、楽しいです」
「俺っちもそうなんだぜ。仲良くできるのはいいことなんだぜ、ベイベ」
「やっぱり、そうですよね」
「ああ。それが社会人としてのあるべき姿なんだとも思うんだぜ」
影であることをよしとする組織、『治安会』。けれど、なにかの拍子にどこぞの敵対勢力に身分が知られてしまった結果として、親しいニンゲンに迷惑、あるいは被害が及ばないとも限らない。そのへん、黒峰ちゃんは受け容れていて、また覚悟もしている。力強い意志の持ち主だなと感心させられる。
「悠君はどうだい? 同僚との触れ合いは、なんというか、楽しいかい?」
「ある程度は。元より僕には親しい友人なんていませんし」
「か、悲しいことを言わないでほしいな」
「事実ですから」
「でも、俺っち達は家族みたいなものじゃないか」
「どういうことですか?」
「いや、うん、それは、だな」
「僕は一人でいることが好きです」
「や、やっぱりそう言っちゃうのかい……」
俗世間とは極力関係を断つ。とても悠君らしい考え方だけれど、個人主義がすぎるのではないか。とはいえ、仲間がピンチだと耳にしたら誰よりも早く、助けに走るような気もする。そのあたりは読めないのだ。
悠君は俺っちのグラスに、それから黒峰ちゃんのグラスに、ワインを注いだ。非常に柔らかいジェントルな手つきで、である。目をしょぼつかせていたのも回復してきたようだ。生鰹のカルパッチョとめかじきのステーキをテンポ良く食べ始めた。そして、滅多に自分から話を振らないのに質問をぶつけてきたのである。
「ミユキさんは、どうして中米、あるいは南米でゲリラに参加していたんですか?」
「それと似たような質問を、本庄君からもらったんだぜ」
「なぜですか?」
「自分の力を試したかった、自分にできることを知りたかった、ってんじゃあ、答えにならないかな?」
「ヒトは? 何人も?」
「撃ったぜ。獲物だけは多くいた」
「相手の所属は?」
「同業もいれば軍属もいた。そういう意味じゃあ、傭兵ってのは自由なんだぜ」
「わかりました。大丈夫です」
「なにが大丈夫だっていうんだい、悠君」
「いざという時には背中を任せられそうだな、って」
「じ、自分で言うのもなんだけど、ご覧の通り、俺っちってば臆病者で軟弱者だぜ?」
「でも、男じゃありませんか」
「そうだけど……」
ここで噛みついたのは黒峰ちゃんだ。「忍足さんは女だというだけで相棒には不足だとおっしゃるんですか」と、ともすれば怒ったようにも聞こえる口調だった。
「泉さんみたいなヒトだったら別だけどね。彼女は僕より上だから」
「でしたら」
「泉さんは超えられない壁だよ」
「壁は超えるためにあるんです」
「だとしても、君には無理な気がするなあ」
「どうしてそう言えるんですか」
「勘だよ。僕のそれはよく働くんだ」
悠君は容赦のないことを言うなあと思うと同時に、少々、黒峰ちゃんのことが不憫に思えてきた。そもそも、なににおいても伊織さんと比較すること自体が間違いだ。彼女はなにをするにしたってまったく別格の存在なのだから。
「泉さんには負けたくありません。敬っていてもそうなんです」
「でも、今の自分になにができるか、その点については客観的であるべきだよ」
「現実的なんですね、忍足さんの見方って……」
悠君が「だけどね」と言った、焼酎のロックを一気に飲み干すと、ほんの少し微笑を浮かべた。
「完全なニンゲンなんているわけがない。だからこそ僕の役割はあるし、それは黒峰さんにだって言えることだ。悲観して下を向く必要はないと思う」
「とことんポジティヴなんだな、悠君は」
「あまり自らを卑下しないことです。ミユキさんも、そして黒峰さんも」
「わかった。よりいっそう、やる気が出てきたんだぜ、ベイベ」
「まあ、無理をしない程度に頑張りましょう」
実りのある、有意義なおしゃべりができたと思う。