3.
伊織さんと本庄君が、彼女の愛車、黄色いスイフトスポーツに乗って、最寄り駅のロータリーまで迎えにきてくれた。荷物をラゲッジスペースに積み込み、後部座席に乗り込む際、「よぉ、お二人さん、今日もきっちり元気かい?」と俺っち的にはかなりフランクな挨拶をした。けれど、両者とも無反応。とほほだなと思う。もう少しかまってくれてもいいだろうに、とほほ。
「今日の案件はどういったモノか知ってる?」
「伊織さん、そいつはもちろん知ってるさ」
「対象の名は?」
「俺っちの業界、すなわちスナイパーとしては有名だ。名前はイブラヒム。中東における活動家でもある」
「そう。イブラヒム」
伊織さんの声はなんだか深い。
仕事モードのときには、言葉になんとも言えない深みがある。
「奴は当時の地方創生大臣だっけか? そういうポストにあった女性を殺害した上で、国外に逃れたって話だったと思うんだぜ、ベイベ」
「この国を出た上で、またこの国に舞い戻ってきたんだよ」
「なんでだ? どうしてまたそんな真似を?」
「詳細は端折るけど、とにかくニッポン人が気に入らないんじゃない?」
「端折っちまったら、なにもわからないぜ、ベイベ」
「ああ、もう。めんどくさいな」
「め、めんどくさいとか言わないでほしいんだぜ」
伊織さんが、はぁと息をついたのがわかった。
「イブラヒムは数多の犯罪によって国際指名手配されてるわけ。そういうこともあってラングレーがプライオリティを上げて対応してる。ウチにもかねてから情報と依頼が寄越されていた」
「ビッグブラザーからの協力要請か。ヘヴィな案件だぜ、ベイベ」
「でも、CIAの工作員だって、さすがにウチのテリトリーで好き勝手はできない。それが現状におけるアメリカさんとの力関係。遠くない未来に安全保障にもメスが入るんだろうけど」
俺っちは顎に右手をやった。
いろいろと考えるところがあるのだ。
「イブラヒムのことを、どうして見つけることができたんだい?」
「CIAは当然、各国に警戒を促してた。できる限りの情報を公開した。ニッポンに入り込む場合、適当な経由地はドバイ。そのへんも想定の範疇だった。チェックだってしていた。だから、当該地で止めてしかるべきだったんだけれど、どういうわけか、それは叶わなかった。だから、こっちで監視を厳にしていた。そしたら顔認証に引っ掛かったってわけ」
「空港で捕らえることはできなかった?」
「できてたら大事にはなってない。とにかくね、イブラヒムはいまだこの国で泳ぎ続けてる。それは事実であって、そこに理由を求めるだけ無駄、無意味。そうは思わない?」
「その通りだな。経緯は理解したんだぜ。だけど、こういう場合、フツウは顔を変えて移動すべきだと思うんだぜ。そこんとこが疑問だ。どうしてそういったリスクヘッジをしなかったんだろうな」
「そこのところの意図についてももちろん不明」
「どこから撃てばいいんだ?」
「馬鹿か、アンタは。その場所を見つけるのがアンタの最初の仕事じゃない」
「ば、馬鹿って言い方はよしてほしいんだぜ」
「馬鹿なんだからしょうがないじゃない」
「とは言ってもだな。少しは思いやりってもんがあっても――」
「要するに、大臣連中には滞りなく普段通りの仕事をしてもらわなくちゃいけない。音もなくイブラヒムを消す。それが今回、私達にくだされたミッションなんだよ」
「議事堂を見渡せる位置から、どこぞの大臣の車列に一発かまそうってわけか。けど、そんな場所があるなら、普段から警察が張っているんじゃないかって、俺っちなんかは思うんだぜ」
「だ、か、ら、君は阿保なのか、ハジメ君」
「こ、今度は阿保呼ばわりかい」
「警察官以上に神経を尖らせろってこと。必ず仕留めなくちゃいけないってこと。そして実績を残せば相応の対価が得られるってこと。予算っていうかたちでね。その点については大歓迎。経費は湯水のごとく使いたいから」
「うーん」
「なに?」
「いや。ひとまず、警察が監視しているであろう場所に赴いてみようってわけさ。奴さんらの位置取りを知りたいのさ」
「わかった。今回の私と朔夜はアンタのサポート役だから。やっぱりね、狙撃はアンタの役割なんだよ。そう難しい案件じゃなけりゃ私でもこなすけど。ま、期待してるよ、ハジメ君」
「どういうかたちであれ、補助してくれるって聞かされると喜ばしいんだぜ。心強いんだぜ。それにしても、本気で議事堂の門前を狙うのかなあ」
「決行するでしょ。しかも近日中に」
「確かにやるとしたら近日中だな。もたもたしてなにかの拍子に見咎められることにでもなれば目も当てられないんだぜ、ベイベ」
「いい加減、ベイベベイベうるさいよ。たまには私の相棒を見習いな」
「ほ、本庄君は眠っているだけじゃないか」
「うるさくされるよりは、ずっとマシ」
「き、気をつけるぜ、ベイベ」
「ほら、また言った」
その日の夜。『治安会』という名称を使って警察の協力を引き出し、連中のポジショニングを確認したのは伊織さん。絶妙な押し引きを経て情報を得たのだ。彼女は交渉術にも長けているのである。
本庄君はスイフトスポーツの助手席で、すやすやと眠ったまま。一言注意というか声を掛けてやりたいのだけれど、はっきり言って、彼の眠りをさまたげるのは怖い。不機嫌になられてしまうと恐ろしい。肉弾戦においては、人類最強だと思っているから。
「とりあえず、近場にしか配置してない。ぬるいね。でも、こっちとしてはやることをやるだけ。そのステータスに変化はナシ。ハジメ。なにかわかる?」
「実は最初から考えていたことがあるんだぜ」
「言ってみな」
「警察の目の届く範囲にイブラヒムがいるわけがないってことさ。もっと遠距離から狙ってくるっていうのが正しい考え方なんだぜ」
「それは一理あるか」
「だろ?」
「じゃあ?」
「距離にして九百メートルほど。そこにイイ感じに議事堂を見渡せる、のっぽなビルがある。絶好のポジションだ。ご機嫌なポイントだ。俺っちのそんな見立てが正解なら、奴が対象をマークすることもそう難しい話じゃないんだぜ」
「九百メートルって、そんなところから狙い撃つわけ?」
「多少距離はあるけど、問題ないんだぜ、ベイベ。腕利きなら一キロ、二キロあっても、確実に撃ち抜くんだぜ。不可能を可能にする。それがプロの狙撃手なのさ」
「まったく。偉そうなことばっか抜かしてくれるね。ま、スナイプに関して言うと、私が文句をつける筋合いはやっぱりないんだけど」
「くだんのビルを目標にできる位置に移動しようじゃないか」
「クールだね。そういうハジメのことは嫌いじゃないよ」
「照れるぜ、ベイベ」
「まずは高い位置からイブラヒムを見つけるしかないね」
「そうなんだぜ。察しがよくて助かるんだぜ」
「それこそ、仕事だからね」
遠目に議事堂が見渡せるビルのてっぺん。当然、屋上はこちらのほうが高い。思った通りと言える風景だ。そして、ラッキーだ、ハッピーだ、僥倖だ。捜索のしょっぱなからイブラヒムを見つけることができた。彼の周囲に転落防止用のフェンスはない。伏射の姿勢。今ならしでかす前に狙い撃てる。
「奴さんは無防備か」
「そこにあるのはだな伊織さん、スナイパーの性みたいなモノさ。とにかく獲物を狩ることに集中する。周りのことになんか気を配っていられないんだぜ」
「いたずらに話が逸れた。でもそんなことはどうでもいいから、早いとこ撃ちな」
「め、命令口調なのかい」
「観測手、やったほうがいい? 機材は一応、手元にあるわけだけど」
「相手は近い。なら、俺っちがしくじるわけがないんだぜ。というか」
「というか、なに?」
「いや。本当に殺しちまってもいいのかな、って。これじゃあ、ウサギちゃんを狩るのと同じなんだぜ」
「CIAは殺っていいって言ってる。捕らえたところで、もはやイブラヒムは情報源になり得ないって踏んでいるからだよ」
「わかった。オーケーだ。まあ、見ててくれ」
俺っちは格子状のフェンスの合間から狙い撃つ。この距離なら間違いなく問題なくゲームセットに持ち込める。一撃必殺。トリガーを引く。後頭部にヒット。ヘッドショット。スコープ越しに、イブラヒムが動かなくなった様子が見える。伊織さんはというと、双眼鏡で現場を見ていて、それからピューッと口笛を吹き、「やるじゃん、ハジメ」と称賛の言葉を寄越してくれた。
二人して移動し、なんだかんだを経て、ナマのイブラヒムの死体を見下ろした。きちんと死んでいる。俺っちは滞りなく仕事をこなしたというわけだ。
「油断なんてしていなかったにもかかわらず、私と朔夜は、警護対象を殺られた。言わば、出し抜かれたってこと。今回のハジメの行動は尊いな。ウチらの失態を和らげてくれた」
「意外だな、ベイベ。しおらしいのは、らしくないぜ」
「カッコいい仕事ぶりだったよ。男としての魅力は皆無だけれど」
「キ、キツい言葉だぜ。それで、次はどうするんだい?」
「このまま警察に身柄をくれてやってオシマイ」
「イブラヒムにも家族はいたのかなあ」
「なに、突然」
「いや。気にしないでくれ」
「だったら言うな」
国際指名手配とされていた男を殺した。だけど、彼にも、なんというか、フツウの生活を送る瞬間があったのかもしれないと考えると、どうにもやりきれない。
伊織さんのあとに続く格好でビルの非情階段をおりていると、彼女に言われた。
「ハジメ、あんまり気にしないことだよ」
俺っちはこうして伊織さんの言葉にたびたび救われる。