第一章:不気味の谷
この章では、あまり注目されていないがよく知られている感情に関する現象、「不気味の谷」について論じる。
人は何を求めて小説を読むのだろうか。これは、何が小説になるのかという問いと類似している。それを明らかにするために、いくつかの問いを立ててみよう。
例えば、完全に物理法則に従っているだけの現象を小説とすることができるだろうか。リンゴが落ちる、葉の上に雫が落ちる、雨上がりに虹ができる。できるかもしれない。しかし、そのような当たり前のことを今更知りたがる人がいるだろうか。小さな子供ならば、そのような世界についての記述に興味を持つかもしれない。
では逆に、物理法則に反する現象を小説にするのはどうだろうか。重力に反して浮き上がっていくリンゴ、シルクハットの中から出てくる鳩。これも、マジックを見るときのように、不思議な現象として興味を持つことができるかもしれない。
こうして考えてみると、小説にすることが不可能なものはこの世に存在しないように思える。なんせ、人間が出てこなくても文章は描けるのだ。ちょうど、人物画の他に風景画などがしばしば描かれるように。詩などの文章をみればわかるように、人間が出てこない風景を描いただけのものは、探してみれば意外と多い。
他にも、「あああああああ」なんて訳のわからないことを書いたところで、それは十分に文章として成立してしまう。そのような抽象的な詩も確かに存在する。
それでは、小説にすることができないものはあるだろうか。つまり、小説における禁じ手はあるのだろうか。実はひとつだけあるのである。それが、「不気味の谷」である。
不気味の谷は、人間に似ているが人間と僅かに異なるがゆえに負の感情を抱く代物である。それが小説として成立しないのは、我々がそれを(負の感情のために)直視できないからだ。
小説以外での不気味の谷の例としては、二次元キャラを三次元に移すときにあらわれたり、ロボットの顔を人間に近づけるときに発生する。また、収集癖を持った人や監視し続ける人にも同様の不気味さを感じるらしい。この不気味の谷が発生する理由は未だ明らかになっていないが、おそらく死体の顔を見続けることに恐怖を感じることと似たような理由だろう。
では、小説における不気味の谷とはどのようなものを指すのか?それは、論理的整合性の欠陥から生じる。小説は人工物であり、小説では現実とのすり合わせを行う。その際に「不気味の谷」が生じる。例えば爆発系の範囲攻撃で味方だけ被弾せずに敵軍を一掃し、爆風の中に自軍が歓声を上げている時である。そして、すごく時間が経ってから、「そういえば、なぜ味方は被弾しないんだ?」などと主人公が疑問に持つのは、不気味そのものである。「何故、今まで気づかなかった?」となるからだ。こうなってしまうと、理由を説明されてもその不気味さが消えることがない。この不可逆性は不気味の谷の特徴である。
この現象は、人工の設定を十分に練りこんで現実に近づけることで回避することができる。しかし、そんなことを一々やっていると時間がいくらあっても足りなくなる(特になろう作家には)。そこで、逆転の発想で現実に近づけすぎないようにする、つまりデフォルメするという手もある。このデフォルメというのは、次章のテーマにしたい。
この章の結論。小説における不気味の谷とは、設定を現実に近づけすぎたときに発生する、「なぜ、おかしいと思わない?」というような不気味さのことである。