賢者とメイドと義眼、ときどき聴診器
燦々SUNともっしゃんのリレー小説です。お互いに登場人物とキーアイテムを1つずつお題として出し合い、起承転結を交互に書きました。横線が入っている部分で作者が変わります。「起」と「転」をもっしゃんが、「承」と「結」を燦々SUNが書きました。
燦々SUNのお題:「賢者」「義眼」
もっしゃんのお題:「メイド」「聴診器」
「ケホケホ……。賢者様、いかがでしょうか?」
「うん。魔素過敏症から来る喘息だね。汚れた魔素が気管支に詰まっている。苦しかっただろう」
白衣の賢者は、患者の少年の胸から聴診器を外すと、優しい口調で症状を告げた。
その男は“賢者”と呼ばれるには若すぎる見た目をしていた。
パッと見、ほんの20歳台。普通の町医者ならばまだ見習いをしている年齢だ。
しかし、患者がその男に向ける眼差しには確かに”賢者”に対する尊敬と信頼が込められており、彼の魔法医療もまた、長年に渡り培われてきた確かな技術だった。
「マンドレイクの粉を処方しておく。毎食後に湯に煎じて飲めば、一週間程度で良くなるはずだよ」
「ありがとうございます! さすが賢者様、なんでも治せてしまうのですね!」
「僕は手助けしかできないよ。結局物を言うのはきみの気力だ。がんばりなさい」
「はい!」
患者の少年が薬を受け取り、屋敷から出て行くのを見届けると、賢者は居間のソファに倒れこんだ。
「はー疲れた……。来客が多すぎるのも困りものだね」
「お疲れ様です、ご主人様♡」
ぴょこん、という効果音とともに、キッチンからメイドの少女が顔を出した。
村から離れた僻地に住む賢者の暮らしをただ一人で支えているのが、このメイドである。
彼女は幼い頃に飢饉の口減らしで近くの森に捨てられていた。そこに偶然通りかかった賢者が拾い、今日まで育ててきたのだ。
メイドは縦巻きロールのツインテールを揺らしながら、賢者のそばに駆け寄ってきた。
「夕食はできております。早速お食べになりますか? あっ、お風呂も沸いてますよ。先に汗をさっぱり流すのも悪くないですね。それともそれとも、ご主人様がお望みならば……このわたくしでも……きゃっ♡」
頬を染めながら早口で喋り倒すメイドを見て、賢者は苦笑する。
「相変わらずのテンションだね、きみは」
「そりゃあもう、こうしてお仕えできているのが何よりの喜びですから。それで、いかがいたしますか?」
「いろいろ用意してくれたところ悪いんだけど、休む前にもう一仕事しなくちゃいけないんだ。さっきのでマンドレイクのストックを切らしてしまってね。日が暮れる前に森に採りに行かなくちゃいけない」
「もー、そんなに働きすぎてるとお体を壊しますよ?」
「平気平気。僕は賢者だからね……っと」
そう強がってソファから体を起こした賢者だったが、急な立ちくらみでよろめいてしまう。
前につんのめって転びそうになったところを、メイドの大きな胸に支えられてしまった。
「ほらあ言わんこっちゃないじゃないですか。もう歳なのに」
「だが、採取をしなければ」
「代わりにわたしが採ってきますから。ご主人様はお風呂にでも入って待っててください」
メイドは呆れたようにため息をつくと、テキパキと外に出る身支度を始めた。賢者は慌てて止めに入る。
「やめたほうがいい。夕暮れの森は危険が多いんだ。最近は人間を好んで食べる魔物の噂もある。きみはまだ未熟で──」
「わたしが何年ご主人様に仕えてるとお思いですか? マンドレイクの自生地の場所は知ってますし、逃走の魔法だって嗜んでます。”はじめてのおつかい”くらい、完璧にこなしてみせますとも♡」
そう自信満々に胸を張られてなお、メイドのありがたい申し出を無下にできるほど、賢者は意地を張れなかった。
「……わかったよ。ただし、決して寄り道をしないこと。自生地より奥へ進まないこと。いいね?」
「はいっ! 承知しました、ご主人様♡」
***
「……遅いなあ」
メイドがマンドレイクを採りに出て行ってから一時間後。
とっくに帰ってきてもおかしくない時間なのにまだ帰ってきていないことに、賢者は心配を募らせていた。
外も暗くなっている。賢者はメイドを探しに出かけることに決めた。
一時間程度で捜索なんて過保護すぎるとメイドから文句を言われるかもしれないが、何か大事になるよりはマシだ。
賢者は飛行魔法と暗視魔法を自らにかける。屋根から飛び立ち、メイドの姿を道なりに探しはじめる。
メイドはすぐに見つかった。
──血まみれの顔を両手で押さえ、地面に倒れている姿で。
「!!!!!!」
賢者はメイドのそばに急降下すると、苦しそうに上下する肩に手を置く。
「大丈夫か!?」
「ぅ……ぐぅ……けんじゃ……さま……」
「何があった! 顔を怪我してるのか?」
「目、目を……」
顔を覆う手が離れた次の瞬間、賢者は息を呑んだ。
メイドの両目が無くなっている。
眼球だけが綺麗にくり抜かれており、丸裸になった赤黒い眼窩から血が流れている。
「(これは……!)」
そのあまりにも痛々しい光景に賢者は呻いた。
すぐさま鎮痛魔法を施してやると、メイドは安心したのだろうか、そのまま気を失ってしまった。
「(やはり一人で行かせるべきではなかった。魔物の仕業か? いや、今はそれよりも──)」
──この怪我をどうやって治療するか。
目玉が欠片でも残っていれば再生魔法で治せるが、あたりを見渡してもそれらしきものは見つからない。
このままではメイドは一生光を失ってしまう。
「(否。なんでも治せてしまう賢者が育てた娘に、そんな不幸が訪れていいはずがない)」
持てる知識を総動員してなお治療法が見つからず、絶望しかけていた賢者の脳裏に、とある一つの可能性が浮かんだ。
「あの義眼を移植すれば、あるいは。いや、しかし……それしかないか」
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「これだ……」
メイドを連れ帰った賢者は、自室の本棚の後ろに隠された宝箱……の更に後ろの壁を魔法によって開くと、見ためからして呪われそうな数々の奇怪なマジックアイテムの中から、古ぼけた小箱を取り出した。
小箱の中に入っていたのは、2つの義眼。
……義眼、なのだろう。その表面はつるりとなめらかで、血管が一切浮き上がっていないことから、本物の眼球の剥製でないことは確かだ。
しかし、その造形はあまりにも緻密であり、そしてあまりにも生々し過ぎた。特に漆黒の瞳孔とそれを囲む真紅の虹彩などは、どこか吸い込まれそうな妖しい輝きを放っていた。
「……」
賢者はその虚ろな瞳をあまり直視しないようにしながら、義眼に向けて鑑定魔法を行使した。
「やはり、か……」
頭の中に浮かんだ情報に、賢者は顔をしかめる。
《ギレストスの義眼》
眼球を欠損した者のみが装備可能。視神経に接続しさえすれば、いかなる生物でも元通りの視界を取り戻すことが出来る。ただし、??????????…………
「くっ……」
この義眼は、賢者がまださすらいの魔法使いとして各地を旅していた頃、ふとしたことが切っ掛けで踏み込んだダンジョンの奥地で発見したマジックアイテムだ。
しかし、当時もその機能全てを解析することは出来ず、かと言ってその場に捨て置く気にもなれずに一応回収はした。だが、その得体の知れなさから患者に使うのも躊躇われ、結局今の今まで死蔵してきた品だ。
「どうする……?」
一度使うと決めてはみたものの、いざ実物を前にするとどうしても尻込みしてしまう。それほどにこのマジックアイテムは異様な存在感を放っていた。だが……
「……」
先程の、苦悶と恐怖に満ちたメイドの表情を思い出す。
いつだって明るく元気な彼女。だが、出会った頃はそうではなかった。実の両親によって森の中に捨てられた彼女は、誰に対しても心を閉ざし、およそ笑うということがない少女だった。
何年もかけて少しずつ心の傷を癒し、ようやく屈託なく笑えるようになったのだ。失明という残酷な現実が、再び彼女から笑顔を奪ってしまうのではないかと思うと……。
「……よしっ!」
賢者は自分自身を鼓舞するようにそう声に出すと、小箱を持って診察室に向かった。そして、簡素なベッドの上に横たわるメイドを沈鬱な表情で眺めると……ゆっくりと、小箱の中の義眼に手を伸ばした。
***
「お大事に~」
「ありがとうねぇ。……おや? どうしたんだい? その眼は」
「あはっ♡ 気付いちゃいました? やっぱり気付いちゃいましたぁ? これはですねぇ……ご主人様からの、愛の贈り物ですよぉ。きゃっ♡」
腰痛の治療に訪れた老婆に向かって、両手で頬を押さえていやんいやんしながらそう言うメイドを、賢者は苦笑いを浮かべながら見詰めていた。
今朝、意識を回復してからずっとこの調子だ。
昨夜、義眼の移植自体は拍子抜けするほどあっさりと完了した。しかし、メイドはいつまで経っても目を覚まさず、夜が明けて賢者が「もしや何か副作用が!?」と焦り始めた頃にようやく目を覚ましたのだ。目を覚ましたメイドはまず目が見えることに驚き、続いて鏡で自分の眼を確認して再び驚いた。
しかし、どうやら彼女はこの普通ではありえない色彩を持つ義眼をいたく気に入ったらしく、賢者の説明やら謝罪やらを「キレ~イ! ありがとうございます! 一生大切にしますね♡」の一言でねじ伏せ、来る患者全員にここぞとばかりに見せびらかしているのだ。
「ふむぅ~ん……むふふっ♡」
「お疲れ様」
老婆から狙い通りの賛辞をもらってご満悦な様子の彼女に苦笑いを深めながら、賢者は片付けを開始した。
もう夕暮れ時だ。村では日が落ちると門を閉じてしまうし、今日はこれ以上患者が訪れることもないだろう。
「ほらほら、いつまでもニヤニヤしてないで、戸締りを手伝ってくれよ」
「ふふふ、はぁ~い」
含み笑いを漏らしつつ、反対側の窓を閉め始めるメイドの後ろ姿を肩越しに盗み見ながら、賢者は今朝からずっと訊こうと思っていたことを口にした。
「あぁ~~……ゴホン、昨日のことなんだが……」
両目を失うという恐怖と苦痛が蘇るのではないかと思い、なかなか切り出すことが出来なかった。だが、いつまでも放置しておいていい問題でもなかった。
あの眼球だけを綺麗にくり抜かれるという異常事態が、いかなる要因によって引き起こされたのか。1人の魔法使いとして、そして彼女の保護者として、どうしても知っておかなければならない。
「きみは一体、何が原因で両目を失ったのかな……?」
メイドに背を向けたまま、賢者は息を呑んでメイドの回答を待った。
焦れるような数秒間の静寂が流れ、やがてメイドは口を開いた。
「ご主人、さま……」
「……?」
その奇妙にかすれた声に違和感を覚えた賢者はメイドの方を振り返り……息を呑んだ。
見開かれたメイドの両目。
血の通わぬ、通うはずのない偽りの眼球に、はっきりと血管が浮き上がっていたのだ。
「わ、わた、し……」
そして──その漆黒の瞳孔から一筋、真っ赤な鮮血が滴り落ちた。
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「なっ……!」
「あ、あれ……? なに、これ……?」
戸惑う二人をよそに、血涙は義眼から次々とあふれ出てくる。
メイドがどんなに手で拭っても、賢者がどんなに止血魔法を施しても、その血は止まることなく、床に血だまりを広げていく。その量は明らかに致死量を超えているのに、メイドはなぜか顔色一つ悪くなることなく立ちすくんでおり、その事実が逆に異常事態であることを示していた。
「ご主人様、こわいよ、助けて……!」
「これはいったい」
この状況を打破する手掛かりにならないかと、賢者はもう一度鑑定魔法を義眼に対して試みた。マジックアイテムの状態が変化すれば、鑑定結果にもその変化が反映されることは珍しくないからだ。
賢者の予想は正しかった。昨夜は読めなかった箇所に新しいテキストが追加されている。
《ギレストスの義眼》
眼球を欠損した者のみが装備可能。視神経に接続しさえすれば、いかなる生物でも元通りの視界を取り戻すことが出来る。ただし、この義眼の正体は《眼獣ギレストス》の卵である。装備者は新たな《眼獣ギレストス》へと身体を作り変えられる。
「卵だと!? ”作り変えられる”!? 作り変えられるって、どういうことなんだ……!?」
その疑問に対する答えは、すぐに最悪の形で示された。
床の血だまりがスライムのように蠢きはじめる。そして、メイドの足元から脚を伝って昇り、メイド服の上から全身にまとわりつく。
まとわりついた血は、人ならざる形をかたどってゆく。まるで獣のような……。
「ひぃっ……!」
「くっ!」
賢者は冷静になれと自分に言い聞かせる。
どうすればメイドを助けられる? そうだ、さっき止血魔法が効かなかった原因は、対象を”メイドの血”だと誤認したせいかもしれない。この血の正体が《眼獣ギレストス》の卵から流出した胚のようなものだとするならば。
「すまない、動けなくなるが」
賢者は石化魔法を義眼から流れる血に施した。石化魔法は細胞の運動を止める働きをする。そして期待した通り、血はぴたりと動かなくなった。
血に身体を固定され、首から下を一切動かせなくなったメイドは、それでも安心して深い溜息を吐いた。
「ご、ご主人様ぁ。ありがとうございます……うう」
「一時しのぎだよ。根治したわけじゃない……本当にごめん」
「あの……どうしてご主人様が謝るんですか?」
「僕が得体のしれない義眼を使ったばかりに。そもそも、きみを一人で森へ行かせていなければ。全部僕の責任だ」
賢者は自責の念を吐露すると、メイドの症状についてわかっていることをすべて話した。義眼が魔獣の卵であったこと、義眼がメイドの身体と一体化しかけていること、そのせいでメイドが人でなくなりつつあること。
そして最後に再び謝ると、メイドはきょとんとした表情で首を傾げた。
「嫌ですよぉ。言ってるじゃないですか。ご主人様がわたしのことを想ってくださっているだけで幸せだって♡」
メイドは当然のことのようにそう言って目を細めた。
「しかし……」
「それよりもご主人様、昨晩わたしがなぜ目を失ったのか知りたいんでしたよね?」
反論しようとした賢者に対して半ば食い気味に、メイドが話題を変えた。
突然のハプニングのせいで賢者は忘れかけていたが、確かにそういう話をしようとしていたのだった。
「あ、ああ。そうだったね」
「たぶん、今お話ししたほうがいいと思うんです。《眼獣ギレストス》が関わっているかもしれないから」
「なんだって!?」
「あれは図鑑でも見たことのない魔獣でした。人間と同じくらいの背丈で、見た目は沼男に似ていたでしょうか。色々な動物の目玉が全身にびっしりと埋まっていたんです。そんな魔獣が急に現れたものだから、わたし、パニックになってしまって。逃走魔法を使うこともできなくて。あいつはわたしの目玉だけを抉りました。そうして、どこかへ行ってしまったんです……」
賢者は絶句した。あのほんの一時間で、そんな恐ろしい目にあっていただなんて。
「思い返してみれば、いかにも《眼獣》って感じの容貌でした。きっと私の目もあいつの身体の一部になってるんでしょう」
「僕も初耳だ。目玉をコレクションする魔獣だなんて。でも、もしかしたら、僕がダンジョンから持って帰った《ギレストスの義眼》を追ってきたのかもしれない。あまり考えたくない可能性だけど」
「……自分を責めないでくださいね」
「あ、ああ……」
メイドはそう慰めてくれるものの、やはり因果をたどっていくと今回の事件はやはり賢者自身に原因があるように思えてしまう。
多くの患者の病を治してきたのにも関わらず、一番身近な人には、逆に病を与えてしまう側になってしまうとは。
メイドの視力を根治することはもはやどうあがいても不可能だ。義眼の正体がこんな恐ろしいもので、元の眼球も失われている以上、残された道は──
「──待てよ」
「ご主人様?」
「ギレストスは、きみの目玉を奪っていったんだよね。食べたりしたわけではなく」
「たぶん……そもそも、口が無かったと思います」
「いや、それなら、取り返せばいい。そうすれば再生魔法で目を治せる!」
賢者は手をバチンと叩いた。一筋の希望が見えたことで、心が浮き立っていた。
「ついさっきまで、僕はきみに過酷な二択を迫らなければならないと覚悟していた。義眼の摘出手術をして、失明を受け入れるか。あるいは目が見えることの代償に、ギレストスの肉体になってしまうか。でも、目を取り返して、それで解決する可能性があるなら!」
さっそくギレストスを探しに行くつもりになっていた賢者は、玄関に向かおうとして、ふと足を止めた。
目の前のメイドはまだ事態を完全に呑み込めていないような顔をしている。
ここで焦って賢者が独断で行動してしまえば、また同じことの繰り返しになるかもしれない。決してそんなことになってはならない。
大切なのは、患者であるメイドが納得すること。後悔しないように二人で相談して決めること。
賢者はメイドに向き合うと、ゆっくりと訊ねた。
「きみは、どうしたい?」
メイドの答えは──
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「お願いします……わたしの目を、取り返してください……」
「……いいのかい?」
「はい、もちろんです」
そう告げるメイドの表情には、一切の迷いがなかった。
しかし、次の瞬間メイドはふっと表情を緩めた。
「でも、もしギレストスという魔獣が予想以上に強かったりしたら……その時は遠慮なく逃げちゃってくださいね?」
そして、どこか儚げな笑みを浮かべたまま……静かに、しかしはっきりとした口調で言った。
「もし、そうなったら……その時は、この義眼を……」
「分かった」
抑え切れない恐怖に震えるメイドの言葉を、賢者は断固たる口調で断ち切った。
それ以上は、言わせる必要のないことだった。
「必ずそいつを倒し、きみの目を取り返してくる」
「ご主人様……」
「だから……すまない。少し待っていてくれ。……すぐ戻る」
「はい……いってらっしゃいませ。ご主人様」
最後にしっかりと目を合わせると、賢者は素早く踵を返した。
今しがた閉めたばかりの窓を開き、飛行魔法で夕焼けの空へと一気に飛び立つ。
「さて、その魔獣はどこに……」
周囲一帯を見渡せる高さまで急上昇してから、賢者は一旦滞空状態に移行した。
その状態で、とりあえず探知魔法を行使しようとしたところで──賢者の全身を、言いようのない悪寒が貫いた。
「──っ!!?」
まるで、物凄い数の人間に一斉に凝視されたかのような……いや、それそのものの異様な感覚に、全身が一気に総毛立つ。
反射的にその視線を感じる方向を見下ろすと──
「……いた」
屋敷の東側に広がる森の入り口。そこに赤黒い人影が立っているのが見えた。
この距離だと、その人影はなるほど沼男に見えないこともなかった。
しかし、賢者がその正体を見紛うことはない。この距離でも、賢者の鋭敏な感覚ははっきりと感じ取っていたのだ。あの義眼にも感じた、異様な存在感を。
「……ちょうどいい。探す手間が省けた」
半ば自分に言い聞かせるようにそう呟くと、賢者は怖気を払うように強烈に笑った。
「僕の……いや」
違う。こうじゃない。
今の自分は、優しい辺境の賢者ではない。大切な家族を傷付けられて怒る……ただの1人の魔法使いだ。
そう、魔物には一切容赦しない、無慈悲な魔法使いなのだ!
「俺の大切な家族に手を出して、ただで済むと思うなよ!!」
そう叫ぶと、賢者は一瞬であらゆる防御魔法を展開し、魔獣目掛けて急降下した。
魔獣は動かない。急接近する賢者に対して、いっそ不気味なほどに棒立ち状態だった。
しかし、その姿がはっきりと賢者の視界に捉えられるようになったところで、魔獣の──ギレストスの全身が、ギラリと赤く輝いた。
「(邪眼か! だが、俺の防御魔法を破ることなど……)」
邪眼は、一切の物理的接触を必要とせずに、見るだけで対象に状態異常を付与する凶悪な能力だ。だが、その反面他の状態異常攻撃に比べると成功率は低い。
そのため、魔法に対する高い抵抗力を持ち、防御や支援系の魔法に秀でた魔法使いである賢者にとっては、恐れるに足らない能力だった。しかし──
「(ん、な……!?)」
予想に反し、賢者の体が突然ガチリと動きを止めた。
そのまま不安定な体勢で、地面に向かって突っ込んで行く。
「(なぜだ!? この俺が邪眼程度の無効化に失敗するはずが……!?)」
しかし、見る見るうちに大きくなる魔物の姿を見て、賢者の明晰な頭脳は即座に答えを導き出した。
「(そう、か……下手な鉄砲、数打ちゃ当たるってか!!)」
つまりはそういうことだ。
たとえ賢者に対する邪眼の成功率が1%だったとしても、100個の邪眼を同時発動すれば理論上1個は通る計算になる。ギレストスは、その全身に埋め込まれた全ての眼球を利用した邪眼の多重発動で、強引に賢者の対魔法防御を突破してみせたのだ。
一瞬でそこまで理解した賢者は、落ち着いて飛行魔法を再発動し、体勢を整えようとした。
しかし、それは出来なかった。事ここに至って、初めて賢者の顔に焦りが浮かぶ。
「(完全麻痺、だと!? マズい、受け身が……!?)」
そう思ったのも束の間、次の瞬間には賢者は激しく地面に叩き付けられた。
「ぐっ、がっ!!」
あまりの衝撃に、肺から空気が叩き出される。
墜落の際に胴体の下敷きになった右腕が焼けるように痛い。側頭部も強打したせいで、頭がくらくらする。
しかし、そんな満身創痍の状態でも、悲鳴すら上げることができなかった。
完全麻痺は、あらゆる状態異常の中でも最凶の1つだ。一度掛かれば、舌や指は愚か、魔力すら一切操作できなくなる。
この状態では、いくら優秀な魔法使いでも詰みだ。あとは大人しく死を待つしかない。
ギレストスもそれを分かっているのだろう。特に焦る様子もなく、地面に横たわる賢者にゆっくりと近付くと、その顔に向かって腕を伸ばした。数秒後には、その鋭利な鉤爪が賢者の眼球を抉り出すだろう。……そう、彼が普通の魔法使いならば。
その瞬間、賢者の内側の胸ポケットに収められていたマジックアイテム──聴診器が、その力を発動した。
この聴診器が宿す力は2つ。
1つは、心臓の付近に押し当てることで自動的にあらゆる状態異常を検知すること。
そしてもう1つが、状態異常を検知した状態で10秒が経過すると、1日に一度だけ、自動でその状態異常を解除すること。
完全麻痺から解放された賢者は、素早く左腕を跳ね上げると、自分の顔に向かって伸ばされていたギレストスの腕をガッチリと掴んだ。
「この状態なら、確実に成功する」
獰猛な笑みを浮かべながらそう宣言すると、ギレストスが何かをする前に、左手を通して盲目魔法を発動する。
盲目の状態異常は、邪眼対策として最も有効とされる対処法の1つだ。
だが、今回はその状態異常が予期せぬ副次的効果をもたらした。
盲目魔法が成功した瞬間、賢者は見たのだ。他の眼球が一切動かない中、ギレストスの首元に並ぶ十数個の眼球。その内の2つが、はっきりと視線を泳がせたのを。
その眼球は、漆黒の瞳に真紅の虹彩を持っていた。
「なるほど、な」
そう呟きながら、賢者は続いて治癒魔法を発動すると、墜落の際に負った傷に応急処置を施した。脳震盪で歪んでいた視界が元に戻り、右腕に力が戻る。それを確認するや否や、賢者は一息に立ち上がると、未だ混乱中のギレストスの首元の眼球に両腕を伸ばした。
「目には目を、歯には歯をってな!!」
そして、先程の2つの眼球をしっかりと両手で掴むと、力任せに抉り取った。
それに止まらず、抉り出した両眼を地面に叩き付けると、一思いに踏み潰した。
その瞬間、ギレストスが声にならない絶叫を上げた。
「なんだ!?」
突然奇怪な絶叫と共に全身から煙を上げ出したギレストスに、追撃を加えようとしていた賢者の手が止まる。
一先ず距離を取って警戒する賢者の前で、ギレストスはその全身を激しく震わせると、次の瞬間どろりとその輪郭を崩れさせた。たちまちその赤黒い体が液状に溶け、ぐしゃりと地面に広がる。そして、そのままじゅくじゅくと地面に吸い込まれ、あとには赤茶けた地面と、大きさも種類も様々な、大量の眼球だけが残された。
「あぁ~~……ちょっとした意趣返しのつもりだったんだが……図らずも急所を潰してしまったらしいな」
そんな風に苦笑していられるのも、それまでだった。
なんと、その場に残された大量の眼球が、見る見るうちにボロボロと朽ち始めたのだ。
「なっ……っ!?」
予想外の事態に驚愕している間に、あっという間にほとんどの眼球が完全に朽ち果て、土に還ってしまった。
「まさか……っ!?」
メイドの目も一緒に朽ちてしまったのかと慌てるが、すぐにそうではないことに気付いた。
残された眼球を見ると、その中にも完全に原形を留めているものと半ば朽ちているものとがあったからだ。
恐らく、ギレストスが死んだことで、その体に埋め込まれていた眼球の止まっていた時間が動き始めたのだろう。その結果、古いものは一気に朽ち、比較的新しいものだけがその場に残されたと……つまりはそういうことなのだろう。
「なんとも……邪眼の多重発動といい、どこまでも規格外な魔獣だな」
そんな風に呟きつつ、賢者は自らの怪我の治療を終えると、まだ50個近くはありそうな眼球の中から、メイドの眼球を探し始めた。
目的の物を見付けるのにはそれほど時間は掛からなかった。50個とは言っても30個くらいは半ば朽ちていたし、残りのほとんども大きさからして人間のものとは異なる獣のものだったり、中には虫の複眼まで混じっていたからだ。その中からメイドの眼球を見付けるのは容易いことだった。
「あった……よかった……」
賢者は地面から茶色い瞳を持つ2つの眼球を持ち上げると、傷付けないよう丁寧に懐にしまい込んだ。
そして、最後の西日を受けて暗い影に沈む屋敷に向かって、急いで飛び立った。
***
「おはよう」
「……あっ、おはようございます」
翌朝、またしても診療所のベッドで目を覚ましたメイドに、賢者は優しく声を掛けた。
昨日、屋敷に戻った賢者はすぐさま眼球の再移植を行い、メイドはまた一晩眠り続けたのだ。
「どうだい? 気分は」
「……いい、と思います。あの、義眼は……?」
「もちろん処分したよ。徹底的にね」
「そうですか……あの魔獣は?」
「土に還ったよ。まだ眼球がいくつか残っていたけど……まあ、また後で改めて土に埋めておくよ」
「そう、ですか……」
どこかぼんやりとした様子のメイドに、賢者はゆっくりと近付くと、その体を強く抱き締めた。
「へ……ご、ごごごごご主人様ぁ!!?!」
「よかった……きみが無事で……っ!」
「ご主人、様……」
一瞬にして混乱の極みに達したメイドも、賢者の絞り出すような声に全身の力を抜き、その抱擁を受け入れた。
やがて賢者が体を離すと、2人の視線が至近距離で絡み合う。診療所に、なんともこそばゆい雰囲気が流れる。
先にその雰囲気に耐えられなくなったのは、賢者の方だった。メイドの顔から視線を逸らすと、何かを誤魔化すように口を開く。
「や、やっぱり、きみにはその目の方が似合うね」
賢者がそう言うと、メイドはぱちぱちと瞬きをしてからどこかぎこちなく笑みを浮かべた。
「そうですか? わたしとしては、あの目も本当に気に入ってたんですけど」
「いや、やっぱり今の方がいいよ。ずっとね」
「えへへ、そうですかぁ? ご主人様がそうおっしゃるなら、わたしもやっぱりこの目がいいです♡」
ようやくいつもの調子でそう言うと、メイドは賢者の体をそっと両手で押した。
「ご主人様、よく見たら泥だらけの血だらけじゃないですか。朝食の準備をしておくので、先にお風呂に入ってきてください」
「あ、ああ……もういいのかい?」
「はい! もうばっちり元気ですよ!」
そう言って、むんっとありもしない力こぶを作ってみせるメイドに苦笑いを浮かべながら、賢者は頷いた。
「分かった。じゃあ風呂で汚れを落としてくるよ」
「はい、それでは!」
診療所を出て行く賢者を笑顔で見送ると、メイドは反対側の扉から屋敷の外に出た。
***
「ふぅ~~……」
賢者は風呂場で、土や泥と一緒に汗と血も洗い流すと、さっぱりとした気分で風呂場を出た。
そして、服を着替えて外に出ると、朝日を浴びながら大きく伸びをした。
「んん~~……っ」
火照った肌に朝の涼しい風が心地よい。緊張の連続だった昨日の疲れが、美しい朝日によって浄化されていくようだ。
と、そこで視線を落とすと、朝日を背に歩いてきたメイドと目が合った。
「おや? どうしたんだい?」
「え、あ……」
メイドは少し視線を泳がせると、土に汚れた手を賢者の方に見せながら言った。
「ご主人様が好きな、ロガ芋を採ってきたんです」
そう言われて見てみると、確かにメイドのエプロンがぼこぼこといくつも球状に膨れているのが分かった。
「わざわざ採ってきたのかい? まだ買い置きがあった気がするが」
「いえいえ、お疲れのご主人様には新鮮なものを食べて頂きたいですしね!」
そう言って笑うメイドに、賢者も柔らかな笑みを浮かべる。
「そうか、ありがとう。それじゃあ楽しみにしてるよ」
「はい! 楽しみにしててください♡」
そう笑い合って、2人は屋敷へと戻って行った。