24 事件7
†ヒヌカ†
ヒヌカが目を覚ましたのは夜更けだった。
一体、どれくらい眠ったのか、時間の感覚がまるでない。
枕元に置かれた水を飲み、体を起こす。
ふと騒々しさに気づいた。
馬の鳴き声や話し声が聞こえる。
話を伝えに行った門番が帰ったのだろう。
果たして領主はどんな結論をくだしたのか。
ヒヌカの発言を重く捉えてくれただろうか。
春画に書かれた手紙は読まれただろうか。
緊張して待っていると、ほどなく門番が詰め所に入ってきた。
壁の向こう側の会話に耳を傾ける。
「どうだった?」
「……あぁ、殺せと命じられた」
しんとした夜だから、声はよく聞こえた。
「殺すのか?」
「そうだ。虚言を弄する人間とのご判断だ」
虚言。弄する。人間。
一体、何を。
……。
嘘だと思われている……?
だから、
「殺される……」
口にすると危機が現実感を持った。
間もなく門番は部屋へ来る。
すぐに行動を起こさないと。
とは思うが、ここは詰め所の一室だ。
窓ははめ殺しの枠で覆われている。
逃げ道は共用部へとつながる木戸しかない。
そんなところを通ればどうしたって見つかってしまう。
第一、木戸には外から鍵がかけられている。
やっと気づく。
この部屋は客間などではなかった。
窓も扉も中にいる人間の逃走を防ぐためのもの。
ここは座敷牢だ。
最初から逃げ道などなかった。
「人間、起きているか?」
鳥の天上人が何食わぬ顔で戸を開ける。
わずかに引きつった表情が、これから起こるであろう出来事を如実に語っていた。
「お前は嘘の報告を上げたな。よって、処刑にする。今、この場でだ」
猶予も言い訳の場も与えられなかった。
天上人らしい慈悲のなさだ。
「最後に言い残すことは?」
「……」
「なにもないか」
門番がヒヌカの手を引いて外に出る。
言葉がとっさに口をついた。
「……あ、あのっ。せ、精霊様に、い、祈りをっ」
「わかった」
門番は手を離す。
わずかだが慈悲をもらえた。
座敷牢に戻され、鍵をかけられる。
時間を手にした。
ヒヌカにとって最後の時間だ。
この時間でできる限りのことをしたい。
それは、ひょっとしたら祈りかもしれない。
戦う準備かもしれない。
……どうすればいい?
考えがまとまらない。
どこから手を付ければいいのかもわからない。
そもそも、何をしに来たんだっけ……?
そうだ。
何をするにしても、目的は一つだ。
ジンに暗殺の話をしなければ。
そこを一番にする。
それは、つまり、自分の命を二の次にすること。
それでもいい。
死刑は仕方がない。
ヒヌカは、今日、ここで死ぬ。
でも、ジンは死ぬ訳にはいかない。
風聞紙でしか読んだことはないけれど、ジンは人間を率いる王なのだ。
ヒヌカは王を知らない。
村長より偉いくらいの印象しかない。
それでも、人間の希望だと思う。
ジンが進む先には、彼と同じくらい自由な人間の未来があるかもしれない。
村を焼かれ、家族を殺され、奴隷として働かされた。
同じ思いをする人間はこの世界に何人もいるだろう。
ジンは、その人たちを救うかもしれない。
だから、ジンは死ぬべきではない。
という気持ちもある。
しかし、本当は、好きだからだ。
好きだから、生きていて欲しい。
自分をずっと忘れないでいて欲しい。
許されるなら手紙を書きたい。
気持ちを全部文字にしたい。
首飾りを持っていたなら、それも添えたい。
ぐっと堪える。
この時間はそのためのものではない。
真相をジンに伝えるための時間だ。
虚偽だと突き返された伝言は、まず間違いなく領主には届いていない。
誰かが直前で弾いたのだ。
もう一度、誰かに伝えないといけない。
ここから出られるのが一番よいが、牢を出る術はない。
抜け穴らしきものも見当たらない。
となると、窓。
そこから何かを投げる?
一体誰が拾うというのか。
よい案が浮かばない。
時間ばかりがすぎる。
「まだか?」
「も、もう少しだけっ。お願いしますっ」
「……少しだけだぞ」
延長を申し出る。
門番が優しい天上人で本当によかった。
もう他にやりようが思いつかない。
望みは薄いけれど、これでいこう……。
室内に残ったままの湯飲み茶碗を着物で包み、壁に当てる。
割れた破片を使って、指に傷をつける。
着物のなるべくきれいな部分を破って、そこに血で手紙を書いた。
……誰かに見つけてもらうことを祈って。
血文字の手紙を書き終えるのと、門番が叫んだのは同時だった。
「な、なぜこのようなところに!?」
外が騒々しくなった。
……誰かが来たらしい。
「お、お会いになるとは、一体、どのような意図で……」
「困ります。警兵長からは処刑するように命じられているのです」
門番の言い訳が尋常ではない。
ある程度の位がある者だろうか。
「……どうしてもお会いになるというのなら、立ち会いのもとでお願いいたします。言動は逐一監視いたしますのであしからず」
そして、唐突に扉が開いた。
戸口に立っていたのは、女の天上人だ。
頭に生えるのは猫の耳。
猫の天上人だ。
背は低く、人間の子供くらい。
実際、顔も子供で、というか、薄布越しに見える目は見たことのあるような気がして、
――――あれ? …………スグリ、ちゃん?
「あなたが虚言を弄したという人間ですか?」
いや、スグリなわけがない。
彼女は人間。
眼の前にいるのは役位の高い天上人。
同一であるはずがない。
せめてもう少し部屋が明るければ。
それか彼女がもう少し近づいてくれれば。
確認することもできただろう。
しかし、相手が天上人で、それも役位の高い相手と知れたなら、ヒヌカは平伏するしかなかった。
顔を直視したら、斬られてもおかしくない。
「どのような虚言を弄したのですか?」
「それは巫女様には関係ございませぬ。穢れが移る故、お聞きなさらないようお願いします」
門番が執拗に会話の邪魔をしようとする。
皮肉なことだが、それでわかったことがある。
この人は、たぶん、味方だ。
「わたくしはこの者と話すことを望むのですが」
「許されませぬ。警兵長は領主様の全権を委任されておられるのです。逆らうとなれば、領主様にもお伝えしなければ」
「……どうしてもなのですか」
「許可状をお持ちくだされ」
門番はヒヌカを隠すように立ちはだかる。
「わかりました」
「さ、もう十分でしょう。こちらへ」
巫女と呼ばれた天上人は門番に促され、部屋を出ようとする。
結局、正体はわからなかった。
この人は何者なのか。
なぜここに来たのか。
なぜヒヌカに興味を持ったのか。
どうでもいい。
賭けよう。
「これを……」
門番が先に部屋を出た。
その隙を見計らい、ヒヌカは懐から手紙を取り出した。
巫女は怪訝な顔をしたが、受け取ってくれた。
「処刑は今しばらく待ちなさい。数日中に使いの者を出します。そのときまでは、たとえ、警兵長の命でも処刑は許しません」
巫女はそう言い残して去った。
あとはもう、祈るだけだった。
†スグリ†
門番が捕まえた人間は見知った顔に思えた。
兄の婚約者として目されていた人だ。
村ではよくお世話になったが、まさかこんなところにいるはずがない。
他人の空似だろう、とスグリは思った。
それより、何を伝えに来たのか。
虚言とはなんだったのか。
その方が大切だ。
聞きたかったが、露骨な妨害にあってしまった。
それだけ知られては困る情報を持ち込まれたのだ。
話さえ聞ければ……。
悔しい思いをするが、望みはあった。
最後の最後で、人間は布を託してきた。
着物の切れ端に見えるが、重大な意味を持つはずだ。
詰め所を出て、すぐに中身を確認する。
着物には血で文字が書かれていた。
『領主と人間王の暗殺を企てる一派が直轄地へ向かっている』
そんな旨が書かれていた。
……。
まばたきをする。
深呼吸もしてみる。
血文字は変わらずにそこにあった。
領主。人間王。暗殺。
三つの単語が脳裏を巡る。
もう一度、深呼吸。
……やはり敵は外から来ていた。
これは領内の謀略だ。
兄は巻き込まれただけで……。
いや、兄の存在すら織り込み済みだったのだ。
人間王に罪を着せ、領主を亡き者にするために。
……だとすれば、外から来るという暗殺者の一派とは何か。
落ち着いて頭から考える。
人間王と領主の暗殺。
すでに作戦は始まっている。
だが、手紙には向かっていると書かれている。
手紙を追い越して到着したと見るべきか。
あるいは、まだ手勢が増えるのか。
そう考えたとき、その一派の役割は何か。
詰めの要員だ。
領主を弱らせ、人間王の自由を奪った。
作戦は成功している。
殺そうと思えば殺せる段階にある。
あえて、それをしないのは殺し方に拘りがあるから。
もしくは万全を期す必要があるから。
そのときこそ暗殺者の出番だ。
一派が到着し次第、作戦は次の段階へ移行する。
時間が惜しい。
今すぐ領主に伝えなければ……。
そこでスグリは気づく。
来るときに乗っていた馬がいない。
それどころか厩舎に馬が一頭もいなかった。
――――やられた。
門番が馬を逃したに違いない。
移動手段が奪われた。
明日までに屋敷へ戻るのは不可能だ。
……どうすれば。
いいや、どうもこうもない。
伝えなければ、兄も領主も殺される。
今が夜だから、馬で走れば明日の朝にはつけるはず……。
ダメだ。
馬でも間に合うかわからない。
……人の足じゃ話にならない。
「巫女殿」
唐突に声をかけられた。
影からいきなり人が湧いてきた。
「な、何者ですか!?」
黒い装束に身を包む忍びが二人。
地面に膝をついていた。
気配はなかった。
誰かもわからなかった。
一瞬、暗殺者かと思うが、
「我ら人間王に仕える陰なり。籠をご用意いたします。馬より速く到着してみせましょう」
王に仕える陰。
それは、存在しないはずの。
「零なのですか?」
「然り」
「手紙を投げて寄越した者たちですね?」
「然り。あちらに控える者が巫女殿を頼った次第。人間王を救いうる者は巫女殿しかいない故」
忍びはスグリの正体を知らない。
伝えるなと兄に言ってあるからだ。
そうだと言うのに、巫女に声をかけてくるというのは――――。
「あなた方が仕える人間王は天上人を敵とみなしているはずです。なぜわたくしに?」
「我らが王は一切の天上人を憎むにあらず。人間に仇なす天上人を憎むのみ」
「なら、あなた方の心情は。天上人を頼ることに憤りはないのですか?」
「忍びに感情はなし。主の敵を廃し、御命を守るのみ」
主のためには憎き敵をも頼る。
その心意気に胸を打たれた。
「籠を持つことを許します。わたくしを明日の朝までに屋敷へ運びなさい」
「御意に」
忍びは姿を消し、すぐに籠を持ち出してくる。
そうして、彼らは六人一組で街道を駆ける。
数刻置きに担ぎ手を交代し、夜通し走り続ける……。
そうして、夜が更けていく。
この夜が明ければ、領主の定めた二日目の朝だ。
人間王が処刑される日。
……すべてが決する日だった。