17 旅2
†ヒヌカ†
旅を始めて二十日が経った。
ヒヌカは大きな湖に行き着いた。
高原の湖は背の低い草に囲われ、水も澄んでいた。
男の言っていた目印だが、旅はまだ終わりではない。
目指すはその先、草木も生えぬ不毛地帯だ。
湖の先は赤茶けた大地が続く。
標高が高く、温泉が湧くためだった。
もうもうと湯気の立つ池が点在し、気温も高い。
時折、地面から勢いよく蒸気が吹き出す。
そんな荒れ地を保存食を頼りに三日。
歩いた先は人里のない火山地帯だ。
高温の蒸気が吹き出し、地面の割れ目に溶岩が流れる。
穢魔だけが住む、ただ危険なだけの場所。
そこが天上人の流刑地だった。
見渡す限り、蒸気と岩ばかりだが、どこかに罪人を閉じ込める建物があるはずだ。
ヒヌカは汗を拭いながら、荒れ地を歩く。
丘に登って周囲を見回す。
牢獄らしき建物はどこにもなかった。
ここには人の手によって作られたものが何もなかった。
だが、罪人はいた。
きちんと収監されていた。
どこに?
温泉の中にだ。
荒れ地には温泉が点々と存在する。
泉には一つ一つ札が立てられ、名前が刻まれていた。
それが罪人の名に違いなかった。
併せて罪状も書かれているから間違いない。
温泉は浅いものなら底が見える。
透明な湯で満たされていた。
どう見ても温泉の中に罪人はいない。
看板が何を意味するのか、よくわからなくなる。
ひとまず、立て札から教えられた名前を探す。
ティグレという名は一つしかなかった。
一際、大きな泉だった。
罪人に格があるなら、かなり高いのではないか。
少しだけ緊張した。
……で、どうしよう。
手持ちの荷物はほとんどが食料だ。
投げ入れるくらいしかやることがない。
「ティグレさん、聞こえますか……?」
ダメ元で呼びかける。
すると、返事があった。
『あー、誰かいんの?』
声は泉から聞こえる。
どう見ても温泉だが、この中にいるらしい。
「わたしはあなたにお願いがあって来たんです」
『お願い。罪人に?』
「わたしはベルリカ領主に言伝を頼みたいんです。適任の方を探しています。ティグレさんなら知っていると伺いました」
ひとまず要件を伝える。
やや間が空いてから返事があった。
『教えてもいいけど、先に出してくれない?』
「どうすればいいんですか?」
『説明すんのか……。面倒くさいなぁ』
そう言いながらも、一通りは教えてくれた。
この泉は、封印の流刑地と、呼ばれる。
大罪人を罰するためのもので、”泉中封人”という霊術で作られる。
名の通り人を泉に封じ込める霊術だ。
解呪には鍵が必要となる。
鍵は精霊が認識できるものならなんでもよく、この泉は"人間の自尊心”だという。
「自尊心……?」
『自分を大切に思う気持ちのこと。奴隷なら普通は持たないでしょ? だから、絶対安全な封印だって触れ込みなの。実際は農村から人間連れてくるだけでいいんだけど』
「……なんで簡単に開くようにしてあるんですか?」
『わざとじゃないでしょ。偉い人が真面目に考えてこれなだけ』
立法は上流天上人の仕事だ。
ところが、彼らはろくに人間を見たことがないため、人間の典型例しか知らない。
結果として、法に穴が空くという。
「それで人間の自尊心をどう使うんですか?」
『人間が立て札を抜く。それだけ』
「わかりました。この立て札を抜けばいいんですね」
『あー、話聞いてた? 人間が抜かないとダメなんだって』
「大丈夫です。わたしは人間ですから」
『はぁ?』
立て札を握る。
体重をかけて左右に揺さぶる。
次第に緩くなり、ある瞬間にゴリッという手応えがあった。
立て札が抜けると、泉に変化があった。
温泉に散っていた色素が中央に集まる。
水面が異様に盛り上がる。
やがて水面に人影が現れた。
どんどん輪郭がはっきりしてくる。
間もなく完全に形を取り戻し、
「あちちちちち……!」
温泉に落ちて、溺れていた。
慌てて手を伸ばして引き上げる。
そこで気づいた。
「……あなたが、ティグレさん、ですか?」
毛もなければ頭の上の耳もない。
ヒヌカの頭二個分上にある顔はどう見ても人間だった。
「あー、外に出られた? すごいな。あんた、本当に人間だったのか」
声はティグレだ。
まさしく封印されていた罪人のはず。
なら、なぜ人間の姿なのか……。
ティグレは豪奢な衣装を身に着けていた。
だが、それ以外はやはり人間だった。
ヒヌカが差し出した干し肉を食べるとき、奥歯で食いちぎっていた。
覗く歯も手も人間のものだ。
背が高く、目が細い。
髪は長めで前髪で目が隠れそうなほどだ。
曰く、
「あー、俺は人間じゃないよ。これは別の術のせい。悪いことの度合いによって二重三重と罰が増えるの」
その中には人間に変えられしまう罰もあるという。
家名を傷つけるために、死刑より厳しい罰とされる。
泉中封人も同様だ。
意識を持ったまま泉に封じられるため、永遠の退屈という罰が課される。
それを二重にかけられたティグレは、正真正銘の大悪党というわけだ。
少しだけ怖くなってきた。
頭から食われたりしないだろうか……?
「あ、あの、約束、守ってくれますか?」
食事が終わるのを待ってからヒヌカは聞いた。
「約束? ……あー、伝言?」
「そうです」
「面倒くさいなぁ。うーん。……まぁ、一つくらいなら。いいかな。けど、今、見た目これだから。人を教えるから勝手にやってくれる?」
「はい、そこまでご迷惑はおかけしません」
「で、領主に何を話したいんだっけ?」
ヒヌカは今日までの経緯を簡単に話した。
「……暗殺ね」
ティグレはしばし、思案して、
「直轄地に領主と人間王がいるって誰に聞いたの?」
「それは町の噂で……」
「人間の耳に入るほど評判なら事実か。そっちに行ったら? 城を経由するより早いよ」
「そうなんですか……?」
「そうでしょ。しかも、あの直轄地なら、俺なんか頼らなくて平気だよ。人間でも話を聞いてくれるから」
「まさか」
人間が話をしたいと言って、聞いてくれる天上人がいるとは思えない。
「そのまさかなの。実は俺もそっちに用事があるから、一緒に行けるし。いいことばっかだ、うん」
ティグレは、言ってよだれを拭う。
ひょっとしてこの人は、干し肉が欲しいだけなんじゃないだろうか。
それで、調子の良いことを言っているだけなんじゃないだろうか。
「あー、でも、ここからだと歩いて移動か。面倒だなぁ……。馬車でも通らないかな。あー、お金がないのか。空から降ってこないかな……」
段々、罪人に見えなくなってきた。
この人が本当にあんな罪を犯したんだろうか?
疑問だが、今は伝言が優先だ。
ティグレを信じるなら、向かう先は直轄地だ。
急がなければ手遅れになる。
「早速、ここを出ましょう。気づかれたら大変です」
「どうせ誰も来ないよ。それに他の奴らはとっくに心が壊れてるから聞かれてもヘーキヘーキ」
ティグレは朗らかに笑う。
今のは少しだけ背筋が寒くなった。
ちなみにティグレはどんな罪を働いたのか。
ヒヌカは気になって、立て札をもう一度見てみた。
ティグレ・マタリーノ。
罪状:皇女誘拐及び暗殺未遂、また皇帝への叛意を持った疑い。