10 歴史
シヌガーリンの歴史は古く、その起源はマナロ戦記にまで遡る。
当時、マナロは十二天将と共に悪しき精霊と戦っていた。
記録はマナロ戦記以外にも残され、その多くは華々しい活躍が歌う叙事詩だ。
十二天将は手を取り合い、マナロを支えた。
大抵はそう描かれ、それを信じる者も多い。
だが、実際のところ、十二天将同士の関係は良好ではなかった。
表立っては語られないが、天将の末裔は独自の研究でその事実に至っている。
特に獅子氏族と犬氏族には逸話があった。
元来、領土を奪い合う関係にあった両者は、天将に選ばれても手を取り合えなかった。
共闘と見せかけた騙し討ち。
相次ぐ誘拐と脅迫。
もはや抗争と言って差し障りなかった。
あるとき、事態を重く見たマナロが仲裁に乗り出した。
両者の氏族長を呼び出し、とある提案をしたのだ。
ずばり、人質の交換である。
序列第二位同士を交換し、互いの部下とする。
双方気に入らぬことがあっても、部下を思えば手を出せない。
そういう形にしたのだ。
両氏族はしぶしぶ合意し、それを理由に共闘関係を結んだ。
人質は戦役のあとも続いた。
今もそうだ。
獅子族の治めるベルリカ領になぜ名門シヌガーリン家が存在するか。
気が遠くなるほどの過去に因果があるためだ。
当時の序列第二位は、由緒正しい血統を受け継ぎ、今も天将に準ずる地位にある。
にもかかわらず、領主の位にすらつけない。
犬氏族では知らぬ者のない不遇の一族なのだった。
とは言え、シヌガーリンの持つ力は強大である。
領主にも匹敵する権力で、先代当主ローボーは実に好き放題だった。
通行手形を勝手に発行するなど権力を乱用した。
それが先代領主の目に止まり、知行政として地方に飛ばされた。
以前は城下町に屋敷を構えていたというから、相当な左遷と言えた。
……もっとも、今ではその土地もないのだが。
「このような僻地までご苦労さまです」
シヌガーリンが直轄地を訪ねると、蜥蜴の天上人が恭しく出迎えた。
腰を落ち着け、火を起こし、まずは煙管を吹かす。
「たかが人間一匹殺すために私がここまで出向かねばならんとはな」
用意させた隠れ家は直轄地の中枢に位置していた。
領主のお膝元だが、隠れるなら敵陣深くの方がかえって見つからない。
外見が民家であるのも隠れ蓑として役立っている。
人間国の詳細はガレンに住まう諸侯から聞き出していた。
ズイレンを追われた元家臣にも調査を命じた。
役位はなくともシヌガーリン家の影響力は衰えていない。
諸侯らに声をかければ、多くがシヌガーリンの手駒となる。
「慰みにアピョーなどいかがです? 取り寄せておりますが」
「……いや、いい」
わざわざ直轄地まで来たのは、確固たる意志と目的を持ってのことだ。
決して遊びに来たわけではない。
「本来なら許可なく立ち入っただけで厳罰だ。薬にうつつを抜かし、発見されるわけにもいくまい」
「ごもっとも。早速、お会いになりますか? 条件に合う者を連れてまいりましたが」
「手際がよいな。会おう」
「ありがたいお言葉です」
蜥蜴は一礼を残して部屋を辞すると、猫の天上人を連れてきた。
外見からして身分の低い下女だった。
「まぁ、これはどういう計らいですか? シヌガーリン様にお会いできるなんて。お初にお目にかかります。私、内侍のミルーと申します」
女は何を勘違いしたかシヌガーリンに流し目を送る。
慰みの相手に呼ばれたと思っているのだろう。
その時点で腹立たしい。
シヌガーリンは下女が嫌いだ。
いや、身分の低い者全般が嫌いだ。
天上人の風格を貶めるだけの存在だからだ。
「今度、この地に人間がやってくると聞いているが?」
敵意を隠す気もなく問いかけると、女は眉を潜めた。
「そうなんですよ……。実は私が世話係をやらされることになってるんです。人間と言えば奴隷でしょう? 使うならまだしも、お世話をしないといけないなんて。本当に嫌で嫌で……」
「そうかそうか。それは難儀であろうな」
シヌガーリンは内心で肯いた。
この女で及第点だろう。
「しかし、シヌガーリン様。人間がやってくることは機密と聞いてますよ? 誰から聞いたんですか?」
「私ほどにもなれば、領主の予定など丸裸も同然だ」
「まぁ」
「そして、私はこの機に人間も領主も殺すつもりだ」
「…………え?」
シヌガーリンの所作には一切の無駄がなかった。
脇差を鞘から抜くのと女に突き立てるのがほぼ同時。
油断しきった女に避けられるはずもなかった。
「……し、シヌガーリン様?」
心臓を一突きにされた女が崩れ落ちる。
「使い勝手のよい素材よ。私のために貴様にも役立ってもらおう」
シヌガーリンの目的は一つ。
父の仇を討つことだ。
死を懇願するほどに嬲ってから殺す。
そうでなければ気がすまない。
青い炎を持った人間はそれだけの罪を背負ったのだから。
ところが、思わぬ誤算があった。
人間王が領主の庇護下に入り、賓客扱いで直轄地を見学するというのだ。
仮にも領主ともあろう者が人間を対等に扱うとは。
天上人の権威に泥を塗るも同然だった。
領内には反対を唱える者も多く、元来、シヌガーリン家の下に集っていた者も大半がそうだった。
だからこそ、シヌガーリンは自らが立ち上がるべきと判断した。
どうせ領主が健在であるうちは人間王には手が出せない。
ならばいっそ両方共殺してしまえばいい。
そう思い至るのに時間はかからなかった。
罪悪感はまるでない。
むしろ正義のためだとすら思っている。
領主は天上人の誇りを穢した。
それは同じ天上人の手によって償われなければならない。
その役割に相応しいのは、戦記の頃、犬族を代表して獅子族に送り込まれたシヌガーリンをおいて他にいない。
拷問のために、遠方から刺客も呼んでいる。
彼らが直轄地へ到着し次第、作戦は動き始める。
ベルリカ領主の命運も春を迎えることなく尽きるだろう。
死ぬれた脇差を紙で拭い、シヌガーリンは次なる一手の準備を進めるのだった。