32 ズイレン4
目を覚ましたら布団で横になっていた。
見知らぬ部屋だ。
天井から見たこともない物体がぶら下がっており、枕元には金属で作られた水差しが置かれていた。
締め切られた障子戸越しに陽の光を感じる。
「目が覚めましたか」
襖が開いた。
現れたのは若い女だった。
手に硝子の器具を持っている。
細長く中に金属が封入されている。
何に使うのか見当もつかない。
「熱を測りましょう」
その器具を女はジンの口に突っ込んだ。
……熱を測る。
言っている意味もわからなかった。
しかし、何より見逃し難い点は、エリカと同じ服を着ているところだ。
「ほまへはなにほほだ?」
「ノリコ。それが私の名前です」
女は金属製のお盆から包帯やら何やらを取り出す。
包帯を切る鋏は見たこともない形状をしている。
違和感が募る。
「ほほはほほだ?」
「体温計はもう十分ですよ。…………うん、熱はないみたいですね」
「それは何だ? 今、何をした?」
「熱を測ったんですよ。深い傷を追ったときは、熱が出ることがありますから」
女は茶碗に入った液体を渡してくる。
「これは……?」
「万能薬ですよ。薬を飲み、精霊に祈りを捧げれば、傷の治りが早くなります」
言われた通りに薬湯を飲み下し、祈りを捧げる。
……すると、頭がふわふわしてきて、よい気分になってきた。
「お前が俺を助けたのか?」
「いいえ、私の主があなたを連れてきました。全身傷だらけで、奴隷たちと戦っていたのだとか。あなたが背負っていた女の子も無事です。矢の摘出手術も滞り無く終わりましたし、感染症の疑いもありません。しばらく安静にする必要はありますけれど」
「テキシュ……、なんだそれ? 何の心配がないって?」
「命の心配はないという意味です」
「…………そうか、よかった」
「主からあなたが目覚めたら連れてくるように言われています。包帯を替えたら、ついて来ていただけますか?」
「あぁ、俺も助けてくれたお礼をしたい。お前の主ってのは――――」
思考が固まる。
この女には主が存在する。
つまり、自分を助けたのは――――。
「……天上人が俺を助けたのか?」
「そうですよ。あなたを助けたのは主、ソテイラ・シャム・ヒンディ・ヒンディ・アーズィ様にございます」
†
嘘だ、と思った。
天上人が人間を助けるはずがなかった。
奴らは人間を虫のように扱う。
何度も見てきた。
奴らにとって人間は便利な道具だ。
壊れたら捨てるし、いらなくなっても捨てる。
決して助ける対象ではない。
「信じられないのでしたら、ご自分でお話するのがよいでしょう。……どうぞこちらへ」
女が手招きをしていた。
だだっ広い屋敷を歩き回り、ジンは大広間に通された。
里長に初めて会った部屋に似ていた。
謁見のために作られた点は同じだが、大きさは十倍も違う。
御簾で隔てられた上座がはるか遠くに見える。
部屋のど真ん中にぽつんと置かれた座布団には、カルが腰を下ろしていた。
ジンの姿を見て、ほっと胸を撫で下ろしている。
「怪我は平気なのか?」
「うん……、なんだかすごい薬をもらって、そうしたら嘘みたいに痛くなくなった……」
痛くなくなった……。
……そんなことがあるのか。
「治療の次元が違った感じ……。ここの奴隷は博識だし、普通じゃないみたい」
「エリカと同じ服だしな」
「…………やっぱり。じゃあ、ここの主は……、エリカの主でもあるんだね」
「いかにも、エリカは私の奴隷だ」
第三者の声がした。
憂いを帯びた男の声だった。
ゆっくりと首を傾けると、御簾の向こう側に人影があった。
天上人にしては小さい。
身長はジンと同じか少し大きいくらいだ。
「…………お前が俺たちを助けた天上人か」
「そうだ」
天上人が手を挙げると、御簾が左右に開いた。
姿を見せたのは人間…………、人間にしか見えない、誰かだ。
声がはっきりした男であるにも関わらず、天上人の外見は女に見えた。
髪も肌も服もすべてが白い。
唯一、扇状に開かれた羽が天上人である証だ。
おそらく、白孔雀の天上人だろう。
羽も顔も何もかもが作られたかのように美しい。
「お前、なんで俺たちを助けた?」
「柳眉な理由でも並べられればよかったんだがね。実のところは屋敷の前で騒ぎ立てる奴隷を追い払うためだ。早朝から騒がれるのは、迷惑なのでね」
……その理由なら殺せばいい。
少なくともジンの知る天上人はそうするだろう。
助ける手間を払うのは不自然だった。
「助けられたことが不服のように見受けられる。ここで殺された方が幸が深いか?」
「…………い、いや。…………助けてくれて、ありがとう」
ジンは頭を下げた。
そうしなければならないと思った。
ソテイラの話し方には、そうさせて当然だと思わせる不思議な力が宿っていた。
「して、人間よ。天上街へはどのような用向きで参った? 人間の許可なき立ち入りは重大な罪になると聞いていたが……。決めごとを犯すからには、それなりの理由があるはず。話によれば、エリカと行動を共にしていたとも」
「俺は……」
少しだけ迷った。
だが、隠さないことにした。
「知行政を倒しにここに来た」
「………………、ほぅ?」
わずかにソテイラの表情が変わる。
怒りはない。
……あるのは愉悦だ。
ソテイラは尾羽を一本抜いて、扇子のように使った。
「それは復讐のためか?」
「違う。俺はそいつと会ったこともない」
「ならなぜ?」
「許せないからだ」
「許せない? 人間が天上人に対して、許せない、という感情を抱くのか!」
ソテイラは急に興奮し始めた。
「……………興味深いな。許せないという気持ちを抱く人間は、貧困窟などで観測事例もあった。だが、倒そうと考える人間は稀だ…………。なぜそう考えた? 人間は皆、奴隷となるよう教育を受けてきたはずだというのに」
「そんなものは受けてねぇ。俺の村は自由だった」
「自由だった……! 人間に享受できる自由が、まがい物の自由ではなく、天然の自由がこの地に存在していたと、そう言うのか! では、人間、私がこう言ったらどう答えるだろう? ――――今、ここでお前を殺す」
いきなりとんでもないことを言い始めた。
何を考えてるのか、全くわからない。
が、答えはわかる。
決まっているからだ。
「そんなのお前を倒して先に進むだけだ」
「抗う! そういう反応を示すのか……! 興味深い……!」
扇子で顔を隠しながら、ソテイラは声だけを弾ませる。
ついには立ち上がって、部屋を歩き始めた。
「ならば、こういう質問にはどう答える? もし知行政が和平を申し出たら。これからは天上人と人間で手を取り合って生きましょうと言われたら、人間はどういう決断をくだすだろう?」
「断る」
「――――よい回答だ。知的好奇心の根本をくすぐられるような喜びを喚起させる。未だこのような人間が存在していたとは、精霊には感謝せねばなるまい。……人間、まこと有意義な時間であった。誰ぞいるか?」
「は、ここに」
ソテイラが呼ぶと、先程の女が現れた。
「この者たちに食事と薬を与えよ。知行政の屋敷の場所も教えていい」
「かしこまりました」
話はそれで終わった。
掴みどころのない天上人だった。
同時に最後まで違和感が拭えなかった。
…………何がどうとは言えないが、あれは絶対に普通の天上人ではなかった。
あとで聞いたが、ソテイラは知行政に食客として招かれた天上人らしい。
階位は知行政よりも高く、帝都で要職につくという。
不思議な空気はそのせいなのか。
ジンは判然としないまま広間を辞した。
†
ソテイラの屋敷は天上街の一角にあった。
丘の上を見上げれば、広大な森と知行政の屋敷が見える。
結局、屋敷を出たのは、食べ物と薬をもらってからだった。
去り際に立会人の打診をしようかと思ったが、ソテイラは頼むまでもなく、合戦があれば出向くつもりだと言った。
前提条件は、一応、満たされた。
あとは知行政に戦いを挑み、倒すだけだ……。
すでに太陽は高い位置に陣取っており、暗闇に紛れることはできそうもない。
見つからずに歩くのは至難だが、戻る道はどこにもない。
「エリカ、どうして裏切ったのかな……」
「知るか、あんな奴のこと」
カルの問いかけにジンは吐き捨てるように答えた。
正直、思い出したくもなかった。
仲間って言ったくせに。
仲間ってのは便利な道具って意味か?
……そうではないと思ってたのに。
「……あ、あの!」
そのとき、十歳くらいの女の子が近づいてきた。
屋敷から走ってきたのか息を切らしていた。
「どした、何か用か?」
「あ、あの、その……、エリカが……、悪いことしたって聞いて……」
「あぁ、あいつはとんでもない奴だった! 俺たちはあいつに騙されて危うく死ぬところだったんだ!」
女の子はエリカの知り合いらしかった。
どんな悪いことをしたのか、逐一、語ってやった。
すると、女の子は涙目になって、
「違うの! エリカは本当はいい人なの!」
「……あ?」
「エリカはいつも悪い人のフリをしているの! だって、そうしないといけないから……!」
女の子は言う。
エリカが町の人間を貧乏人と呼んで蔑むのは、それが天上街の常識だからだ。
天上街に住む奴隷は町の人間との馴れ合ってはならない。
なぜなら、奴隷の品格を貶める行為だからだ。
それはどの屋敷に住んでいても同じで、町の人間と親しくする奴隷がいたら、すべての屋敷で奴隷が折檻を受けるという。
けれど、エリカは町の人間と仲がよい。
気心が知れた仲間内に食べ物を恵んだり、踊ったり遊んだり、よく笑うのだという。
「私もエリカに昔、遊んでもらってたの。エリカはそういう、町の人間からも奴隷を推薦してくれていて、私もそのおかげで奴隷になれたの。エリカは命の恩人。だから、悪い人じゃないの!! エリカを恨まないで……」
「……だったら、何でエリカは俺たちを裏切ったんだよ? 俺たちは死ぬところだったんだぞ……!」
「そ、それは、わからないけど……。でも、エリカは絶対、悪い人じゃないの……」
女の子は涙ながらに語る。
何を言われているのかわからなかった。
エリカは悪い人じゃない。
あれだけ清々しく他人を騙す奴なのに……?
大体、知行政の屋敷に用事があるとはなんだったのか……。
どんな理由なら悪い奴じゃないエリカが他人を犠牲にするのか。
聞いてみたが、女の子は何も言わない。
ただ、信じて欲しいと泣くだけだった。