29 ズイレン1
その日、ズイレンの入り口に若い男女の姿があった。
二人ともボロボロの着物を身にまとい、疲れを滲ませていた。
二人の住む町では疫病が流行していた。
治療には特効薬が必要だが、調合には特殊な機材と原料が足りなかった。
遠路はるばるここまで来たのは、そういう理由だ。
この町には男女の古い雇い主がいる。
その天上人は病の研究もしており、人間向けの薬も持っているのだった。
男女は訳あって奴隷を辞めていた。
自分たちの都合で町を出て、今更、助けを乞うのは気が引ける。
それでも、他に頼る宛はなかった。
「話を聞いてくれるといいんだけど……」
「無理でも、聞いてくれるまで頼み込むだけ。……私たちは託されてきたんだから」
男の肩にはいかにも重そうな袋が下がっていた。
中身はすべて銀粒だ。
薬を買うために、町の人間がなけなしの金だと渡してくれたものだ。
このわずかな金に町の命運が懸かっている。
二人が薬を手に入れられなければ、早晩、町の人間は全員が死ぬだろう。
町にはお世話になった人もたくさんいる。
外部から来た自分たちを受け入れてくれた人々。
その彼らが病に苦しむ今、助けられるのは自分たちしかいなかった。
二人は天上人が住まう区画へ足を運ぶ。
一縷の望みを胸に抱いて……。
その頃、知行政ローボー・シヌガーリンは手代を呼びつけ、奇怪な指示を飛ばしていた。
「……人間を連れてこい、でございますか? 一体、なんのために?」
「実は孫が暇を持て余していてのぅ。なんぞ余興でもと考えておるのじゃ」
「はぁ」
「ワシはこう見えて人間を毛嫌いしてるわけではないんじゃよ。体面があるので、奴隷にはしておらんが」
「……はぁ」
「そういうことで、若くて生きのいいのを何人か頼むぞ」
「はっ、仰せのままに」
仕事には何ら関係ない命令だった。
なぜ私がこんなことを……。
呼ばれた梟の天上人は内心でそう思う。
が、文句は言わず、拝命する。
町へ繰り出し、人間を物色した。
何をする気かは知らないが、適当な人間を捕まえば知行政の命は達成したことになるだろう。
梟は上空から見下ろし、天上街の近くを歩く男女を見つけた。
天上街へ向かっている様子だが、何でもよいかと考えた。
†
ベルリカ領の東、イサン地方は霊峰ラバナの裾野に広がる。
ミンダ平野を中心に東は樹海、西はアグノ山地までを含む。
最大都市のズイレンには、知行に関わる天上人が住まい、この地を(円滑/・・)に治めていた。
ズイレンは農村と町工なる町で、天上人だけでも千人近く、人間に至っては一万から三万人が住むとされる。
町はミンダ平野のなだらかな丘陵に作られ、上空から見ると三つの層にわかれていた。
一つは町の南方に広がる人間街。
人間の一戸建ては禁止されるため、手狭な集合住宅が山と並ぶ。
特に貧困地域では、藁と棒くずで建てられた小屋が隙間なく詰め込まれている。
自治区という建前だが、秩序と呼べるのは金と暴力と権力だけだ。
二つ目は天上人向けに作られた中央街。
商人や職人の管理者、年貢取り立ての下請けなど雑多な業務をこなす天上人の生活区だ。
一戸建ての整然とした町並みで、人間街とは通りで隔てられる。
ここを歩く人間は小綺麗な奴隷が多い。
三つ目が丘陵の頂点に作られた広大な天上街。
外壁に囲まれ、一般の天上人も許可がなくては立ち入れない。
建てられた屋敷は十一しかないが、人間街の総面積より敷地は広い。
ここに住まうのは知行に関わる天上人だ。
彼らは身分が高く町に住む天上人とも一線を画する。
とりわけ位の高い知行政は人間の奴隷すら使わない。
身辺の世話をするのもまた天上人であり、その屋敷には一切人間の出入りがない。
天上人は人間を支配する。
だが、実際のところ天上人は位が高くなるほど、人間と縁のない生活を送るようになる。
人間と関わるのは下々の仕事だと考えられているからだった。
ズイレンにおいても例外ではなく、天上街を囲う外壁は、侵入防止というより人間が視界に入らぬようという配慮の意味合いの方が強いのだった。
ジンがズイレンに到着したのは夜だった。
目立つのを避けるため、ジンとカルの二人で侵入した。
どの町もそうだが、人の密度が異様に高い。
一人が家を一つ持つことはなく、複数家族で共用するのが常だ。
ズイレンは更に状況が悪く、まともな家がある方が稀で、多くは木片や布切れで作った小屋に住んでいた。
整備された堤防沿いにも、篝火の焚かれた中州にも小屋が見える。
貧しさを絵に描いたような暮らしだが、自由はあった。
食べていけるならさぞ楽しいものだろう。
食べていけるのなら、の話だが。
ジンはそんなことを思いながら遺体をまたいだ。
小さな子供の遺体だった。
おそらくは餓死したのを道端に捨てられたのだろう。
町には骸が溢れていた。
道という道に人間が放置されている。
片付ける者もいなければ、祈る者もない。
道端に寄せられるだけで腐るに任せていた。
鼻を覆っても臭いが染み込んでくる。
ここで人が生活しているとは思えない。
だが、時折、人間とすれ違う以上、誰かがここに住んでいるのだ。
着物の裾を誰かが掴む。
まだ生きている子供だった。
食べ物を持っていないので、渡すこともできない。
…………いや、仮に持っていてもその子は助からなかっただろう。
足の傷が化膿しており、歩けないほどに腐っているのだ。
せめて苦しまぬよう殺すのが情けなのか。
それしかできない自分は一体、なんなのか。
カルが慰めるように言う。
「最近はどこへ行ってもそうだよ。食べ物が行き渡らないんだ」
「……」
ジンがズイレンに来たのには理由がある。
ここに最初に倒すべき天上人がいるからだ。
十日前。
ジンが物議を醸した零の集いは、作戦会議の場となった。
方針はその日のうちに決まり、更に数日の議論が重ねられた。
ジンが言った通り、一度に天上人全員を相手取ることは不可能だ。
都市単位で侵攻し、徐々に領土を増やす方向で検討が進んだ。
最初の標的に選定されたのは、イサン地方の中枢都市ズイレンだ。
位置的には隠れ里の南西に当たり、ベルリカ領の東にある。
ベルリカ領は四つの地方からなる。
ジンのいた収容所は西側のバンガ地方。
領都ガレンは南のイコロス地方。
そして、ズイレンは東側のイサン地方に含まれる。
もう一つのサグナ地方は、イコロス地方の南東にある半島だ。
ちなみにバランガは地理的にはイサン地方らしい。
ズイレンには、イサン地方を治めるローボー・シヌガーリンが住まう。
忍びの調べでは、こいつが諸悪の根源らしい。
人間が死んでも気にかけない。
いくら農村が苦しくとも米を搾り取る。
こいつを倒せば何万という人間が救われるはずだった。
ただ、倒すと決めて倒せたら苦労はない。
特に霊術を持つのがジンだけという点が厳しかった。
密偵の報告によれば、ズイレンに居住する天上人は千人以上。
一対一なら勝負になるが、複数人を相手取ることは、まず無理だと思われた。
領土を賭けた戦争なのに一対一でなければならない。
非現実的な想定だ。
解決策は中々生まれなかった。
零の集いにも重い空気が漂い始めた。
その空気を打破したのはカルだった。
「合戦を申し込みましょう」
カルはそう提案した。
合戦とは領地をかけた戦争のことだ。
それはまだ、今の皇国ができる前のこと。
天上人たちは自らが皇帝となるべく、各地に点在する王たちが争っていた。
当時、領土を賭けて戦うことを合戦と呼んだ。
これは鏑矢の音を始まりの合図とし、どちらかの大将が討ち取られるまで続く。
敗北した方は無条件で土地と民を明け渡さなければならない。
これは土地を賭けた由緒正しい戦いなのだ。
当時から合戦の申込みは、鏑矢を携えて行われた。
断るという選択肢が万に一つも存在しなかったためである。
どのような場合であれ、王や領主は合戦の申込みを断らない。
断れば、逃げたとみなされるからだ。
それは諸国に弱さを示すことに他ならず、当時の諸王はその恥を何よりも恐れていた。
もしその文化が今も残っているのなら、天上人は合戦の相手が誰であっても、絶対にそれを断らない。
だから、知行政に一対一の決闘を申し込めばいい。
必ず乗ってくるはずだ、とカルは言う。
「……なぜそう言い切れる? 根拠は?」
「天上人にも誇りがあるからです」
カルは、天上人は誇り高き一族だ、という。
奴らは人間を見下している。
人間とは奴隷であり、ゴミであり、道具であり、虫に等しいものだ、と。
だから、人間一人を潰すために、複数人の天上人が同時に飛びかかることはあり得ないのだ。
「なるほど、……それは言われてみればその通りですなぁ」
密将もカルの意見に同調する。
「天上人は決して、人間を自分たちと同列には見ないでしょうなぁ。その奢りこそが天上人を天上人たらしめていると言ってもよいでしょう。だからこそ、複数人で人間をいたぶることはあっても、戦うことはあり得ませぬ」
そんなことをすれば、人間を自分たち以上の強者であると認めるも同然だからだ。
まして、合戦の申し込みがあれば、なおさらである。
「だが、もし逃げたら?」
里長は不安を口にする。
合戦の申し込みを戯言だと一蹴されたら?
誇りが傷つくと思っていなかったら?
「当時とは時代が違う。諸王が土地のために戦った時代と、今の平定された世の中を同じと捉えるのは、いささか無理が過ぎよう」
「おっしゃる通り、この作戦は不確定な要素がいくつもあります。けれど、立会人を立てれば、話は変わってくるのではないでしょうか? 誰かが合戦を見ているのなら、安易な行動は取れなくなるはずです」
里長の指摘にカルが反論する。
「しかし、立会人は天上人でなければ意味がないのではないか? 人間が立ち会っても発言力がない。都合よく引き受けてくれる天上人がいるとは思えぬ」
「いえ、おります。知行政ローボー・シヌガーリンは食客を一人迎え入れていると聞きます」
忍将が口を挟んだ。
曰く、知行政はここ十年で外から役位の高い者を招いたそうだ。
その者は天上街の中に屋敷を建てたという。
位置的には申し分なく、役位を帝都に持つため、知行政が直接干渉できる相手でもない。
更には知行政とこれといった交流があるでもなく、結託してもみ消す可能性も低いとのことだ。
「なんとかして、その天上人を合戦の場に連れ出しましょう。あるいは、知行政を挑発して、自ら招くように仕向けてもよいかもしれません。そうすれば、条件は整います。一対一で戦うことができ、勝てば人間に領土が手に入るんです」
領土という単語が部屋に染み渡る……。
……具体性を帯びてきた領地獲得の計画に、誰もが興奮を隠せずにいる。
だが、ここで満足していては、策として二流だ。
カルの提案した合戦を核に据え、様々な懸念要素を洗い出す。
合戦の口上は、青い炎の使い方は……。
三人将は、銘々が得意とする分野から口を挟んだ。
戦将だけは天上人の知識に乏しく、むすっとしていたが……。
屋敷に出向いていって、戦いを挑むだけ。
その工程の一つ一つを浅く広く検討していく……。
それでも、出たとこ勝負の部分は多かった。
天上街の内側は、今も未知となっていることの方が多く、侵入に成功した事例はない。
不安要素を減らす努力をした。
そして、満を持してジンがズイレンへと入ったのだった。